花曇りの空 | ナノ

05


まどろむ意識の中、ミナトの聴覚が捕らえたのは小さな小さな笑い声だった。
柔らかく、高い。少年のような声。
ゆっくりと体を起こして辺りを見渡す。
肩までかけられた毛布がずり落ち、膝の上でくしゃくしゃと纏まった。
たき火を囲むように、原型の姿の天凛、吏焔、柘黒が離れた位置で眠っている。
それより更に遠くの木の根本に、座り込むようにして世羅が目を瞑っていた。
どうやら手持ちの声ではないらしい。
前髪を手櫛で整えたミナトは、毛布を畳んで立ち上がった。

誘うような笑い声は、それでも優しく響いている。
そこでミナトは初めて、ウバメの森が不自然に静まりかえっていること気が付いた。
朝が早いとは言え、ポッポや虫タイプのポケモンならばもう活動を始めていてもおかしくはない。
しかし、森の中に響いているのは小さな笑い声ただ一つ。
ゆるりと手招きをするようなそれに、ミナトは一歩足を踏み出した。


「……祠?」


誘われるまま森の奥へと足を進めたミナトの前に、一つの祠が姿を現した。
小さく古ぼけ、コケが這っている祠だが、不思議と辺りには張りつめたような空気が漂っていた。
清廉された空気と言うのだろうか。
澄み切った、冷たい、美しい場所だった。


『うふふ〜いらっしゃい〜』

「!」


柔らかな間延びしたその声は、祠の裏から聞こえてきた。
人間ではない、ポケモンの声にミナトが警戒したように足を止める。
そんなミナトの前に、それはひらりと身を翻して現れた。
若緑色の体躯。金春色の大きな瞳が、ミナトを捕らえてゆるりと細められた。


「セレビィ……?」


森の守り神とも呼ばれる伝説のポケモンが突然現れ、ミナトは困惑したように声をあげた。
当のセレビィはと言うと、くすくすと笑みをこぼしている。
ふわりふわりと空を漂ったセレビィは、ミナトの目の前で動きを止め、小さく首を傾げた。


『僕はね〜縁って名前があるんだ〜だからこっちで呼んで〜?』

「ユカリ……?」

『そう〜』


ミナトが名前を呼べば、縁は嬉しそうに瞳を細めた。
怪訝そうに縁を見つめるミナトに、縁はその小さな両手をそっと伸ばした。

『君にもミナトって名前があるでしょう〜?何にもおかしくないよ〜』

諭すように言葉を落とし、縁はあやすようにミナトの頬を包み込んだ。
前髪に隠された瞳のすぐ横を、縁の指先がかする。
小さく身じろいだミナトに、縁は柔らかい笑みを浮かべた。


「ボクの名前……」

『もちろん知ってるよ〜僕は一応神様だからね〜』


頬から頭へと移動した手は、まるで子どもにするようにミナトの頭を撫でていく。
長い前髪は触らないように、慈しむような手は止まらない。


『今まで大変だったね』


ひとつ。
囁くように落とされた言葉に、ミナトははっとしたように動きを止めた。
恐る恐る見上げた縁の表情は、先ほどと何も変わらない。
少しだけ、寂しそうな、悲しそうな色をしているだろうか。
再度目元に伸びてきた縁の小さな手を、ミナトは勢い良く跳ね除けた。
ぱしりと乾いた音が響き、そして沈黙が落ちる。


「……知ってたの?」


睨みつけるようなミナトの片目に、縁は苦笑したような表情を作った。
主語もなにもない、その問いかけを、縁はきちんと理解していた。


『僕は時を渡る神様だからね〜』


それはつまり、自在に未来を、過去を行き来出来ると言うこと。
縁がミナトの名前を知っていたのも、時を渡って得た情報だった。
当然、今までのことも全て、知っている。
手のひらに爪を立てたミナトは、叩きつけるように声をあげた。


「じゃあどうして、どうしてあのとき何も教えてくれなかったの……?」


眉根を寄せ、強く唇を噛み締めたミナトは、鋭く縁を睨みつける。
縁は静かにとでも言うように、口元に一本指を当てた。
じっと見つめる大きな金春色の瞳に、ミナトが思わず口を噤めば、縁はそっとその瞳を緩めた。


『未来をね、僕が変えることはできないんだ。それは過去も然り
僕が出来るのは、ただ見届けるだけ』


静かに、そう呟いた縁は、淡い光を伴って人の形を取った。
体躯と同じ若緑色の柔らかな髪と、金春色の大きく理知的な瞳が、ミナトの目線の少し下で揺れる。
少年のように細い肢体を伸ばし、今度は長い前髪を掻きあげてミナトの目元へ触れた。
両の瞳がかちりと合い、縁はとろりと瞳を溶けさせた。
寂しそうで泣きそうで、とても優しい瞳だった。


「ごめんね、ちゃんと助けてあげられなくて」


驚き、戸惑ったように揺れる瞳を見た縁は、あっさりと手を離した。
掻きあげられた前髪が元に戻り、またミナトの顔を覆う。
ふらりと後ずさりをしたミナトは、切れるほど唇を噛み締めた。
何かを言おうと、何度も口を開いたそれは、結局言葉にならずに消える。
その一部始終を見ていた縁は、小さく自嘲の笑みを浮かべた。
それをミナトが捉える前に、縁は軽やかに踵を返す。
一歩森の奥へ進み、一度だけ振り返った。
そこにある青い影に、ひとつ寂しげな笑みを残して。


「今日は会えてよかったよ〜」


その言葉に返事はなかったが、縁は気にすることなく歩き出す。
まるで溶けるように、縁は森へ消えて行った。
その場にただ残るのは、俯いたミナトと小さな小さな祠だけ。
ふと見上げた空は、憎らしいほど青かった。
木々の間からでも分かるほどに。


「……キア、」


纏わるように、呼んだその名に、応える声などありはしなかった。


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