咎無くて死す | ナノ





 声を掛けたのは、彼女の発していた微かな霊圧が、ゆらゆらと不安気に振れていたから。



 何物にも影響せぬように、恐らくは無意識の内に抑えられた其れが底の知れたものであったなら、或いは彼女の放つ気配が世馴れた風であったなら、これ程まで興味を抱くことは無かったかもしれない。

 けれど、襖越しに感じた彼女は怯えていた。



 室内に呼び寄せて、彼女が想像よりずっと幼く可愛らしいのに驚いた。

 新造と区別するためか、結わずに肩を流れる髪は何の手も加えられていない。装飾品と言えば耳の上で小さな髪留めが揺れているくらいだが、質素な其れが余計に彼女の顔かたちの美しさをまざまざと見せつけていた。


 彼女は身に付けているものも簡素だった。

 たすき掛けで掃除でもしたのか、落ち着いた色の小袖は上袖がわずかに皺寄って、そのせいで襟元が着崩れ真っ白い鎖骨が見え隠れしている。

 男にしてみれば毒以外の何物でも無いだろうにと目を逸らせば、不思議そうに首をかしげ作り物のような長い睫毛が揺れた。
 半ば向きになって、最初から廊下に控えていたらしいのを知っていながら太夫と呼んで茶化して、──しまった、と思った。


 困惑した、捨てられた子犬のような目にかちりと視線を捉えられ、鮮やかに反撃を食らったのだ。




 闇よりも深い色をした、綺麗な瞳だった。





咎無くて死す





「お名前を伺っても良いッスか?」


 出来るだけ優しく尋ねたつもりだったが、目の前の少女は途端に瞼を震わせて俯いてしまう。

 慌てて謝罪しようとしてどうやらもう怯えている訳では無いことに気付いた。正座した膝の上で、何やらもどかしそうに両手を動かしているのだ。
 ちらりちらりとこちらを窺うように見上げてくる目に口元を緩め応えてやると、何の意を決したのか膝を付き立ち上がって近寄ってきた。




「何でしょう──…、手?」




 膝を並べるように同じ向きで座り直した彼女は、遠慮がちに差し出した手で、半分羽織に隠れていたアタシの其れに触れた。

 首を傾げながらも促されるままに手を引っ張り出せば、くるりと掌を天井に向けて其処に指を滑らせる。



 その慣れた仕草に、ようやく合点がいった。




 ──そうか、この子、






 口がきけないのか。






 扇子より重い物は持たないと聞く遊女たちとは違って、幾らかかさついた細い指先が何度も皮膚を行き来して。

 アタシに、其の名を紡がせる。




「?、」




 すんなりと口から零れた其れを聞くや、?は面を上げゆっくりとろけるように笑った。



「?」



 他意の無い、喜びだけで形作られた笑顔を目にしたのは久しぶりだった。知らず愛しさが芽生え、弛んでしまう口元を引き締める。

 名前を呼ばれたことで緊張を解いたらしい?は、好奇心で一杯の目をアタシに向けた。


「…ああ、そうでした」


 ?を真似て、白い掌に自分の名を乗せる。その間?は目を閉じて、感触で文字を拾っているようだった。



「喜助、です」



 普段あまり名乗ることも呼ばれることも無いからか、自分の名を口にするのはやけに気恥ずかしかった。おまけに、目を開けるかと思った?はそのままアタシの手をするすると撫でている。

 爪の先をつまんでみたり、指の間をなぞってみたり。
 実験か何かで付いた傷跡を見つけて眉をひそめ、節くれだった手の甲を何度も物珍しげに辿るその様子は、不思議な征服欲をかき立てた。




「?は、アタシの他に客の相手をしたことはありますか」




 遊女では無いのだからまさかとは思うが、だからこそ場違いな程のあどけなさを持つ?を、女を買いに鈴屋にやって来るような男たちが放って置くとは思えなかった。

 だが意に反して?はあっさり首を横に振った。


「じゃあ、──…」



 恐がらせないよう優しく頬を包み親指を伸ばして瞼を撫でてやると、?はまるで猫のように気持ち良さそうに笑う。

 それを見て漸く、彼女を自分だけのモノにしたいのだと思い至ってアタシは戸惑った。
 今自分が口にしようとしている言葉は、?を縛り付けるものだ。此処で其れを言ってしまえばもう彼女も自分も後戻りは出来ない気がする。

 口をつぐんだアタシを、?は不安そうに見つめていた。




 そもそも此処へは何をしに来たのだったか。




 ──そうだ、太夫を買いに来たのだ。




 既に頭の隅にも無かったその事を思い出して、アタシは今度こそ声に出して笑った。





「──アタシのものになってくれませんか」





 狡い台詞だと思う。


 好意を伝える訳でも無く、一晩買うと申し出た訳でも無い。?を見えない枷で繋ぎ止めたいが為の、自分勝手な言葉だった。




 それなのに?は、戸惑いもせず頷いた。




「…良いの?手放してあげられないかもしれない」


 此方の困惑を余所に、?は頬を包んでいたアタシの手に頬を擦り寄せとろんと目を伏せた。



「…猫みたいッスね」



 くすり、笑いながら呟けば、?は心外だとばかりに瞬いた。



「可愛い、」



 これは本当に手放せなくなってしまいそうだ。






「浦原様」



 何の予告も無く、突然声が飛んできて一瞬心臓が跳ねる。

 目の前の子猫に夢中になる余り、戸の向こうの気配に全く気付かなかったらしい。護廷隊の長が聞いて呆れる失態だ。



「…浦原様。鈴でございます」



 どうやら初めて聞く声だったらしく、?は緊張気味に着物の袖を握り締めた。
 その手を撫でながら廊下にいる彼女に返事をしてやる。


 静かに戸が開かれ現れた鈴太夫は、?に気付き僅かに目を見開いた。
 けれどアタシが?の手を握っているのを見とめると艶やかに微笑んで歩を進める。



「随分お待たせしてしまったから、さぞかしお暇を玩ばれてると思いましたのに」



 くすりと笑う声に顔を上げたのは?だ。鈴の声が放つ色香に、握った手にも力が篭っている。

 この楼で一番の太夫の何よりの魅力は、その美しい声だった。
 今の鈴が先代の後を継いだとき、その名の通り鈴をかき鳴らしたようなよく通る澄んだ声は内外問わず大変な噂になった。さらに、そんな前評判に負けないほどの美貌と穏やかな物腰で、鈴屋に稀代の花魁在り、と瞬く間に客足が何倍にもなったと云う話もある。

 男でなくとも、彼女を目の前にして息を呑まず溜め息を洩らさずにいられようもない。



「?、と言ったね」



 その美しい声に名を呼ばれ、傍らに正座していた?はびくんと背を戦慄かせた。常ならば恐らく遠くから姿を見ることすら無いだろう最上位の遊女に会い、名前まで覚えられていたことに戸惑っているらしい。
 落ち着かせようと握った手に軽く力を込めてやる。


「…新造たちにもお前を見習わせたいわねぇ。でもお前の世話役が心配していたから」


 戻っておやり。

 鈴太夫ににっこりとそう言われて、?は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、悲しげにちらりとアタシを見上げた。
 同時に?の手に僅かに力がこもったから、離れるのが寂しいのだと容易に察しがついてアタシは笑った。


「…鈴サン、一つお願いがあるんですが」


 ああ、アタシの顔は可笑しくはないだろうか。


 
 子猫のように、まるで最初からその目にアタシしか映っていないのだとでも言うかのように、無垢になついてくれるこの少女が、ただ愛しい。
 不安げに見上げてくる目にこれ以上無いくらいの笑顔を返して。





「?を、アタシにください」



 柄にも無く緊張して、鼓動が酷く煩くて。そして幸せな予感がした。







 
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -