咎無くて死す | ナノ





 尸魂界のどこか。


 ──それが、此処。



 あたしは此処から出たことが無いから、此処がどこにあるのか、北なのか南なのか、大きいのか小さいのか、何も知らない。

 此処には沢山の人がいるようで、沢山のモノがあるようで実は空っぽで。何の棘も無く笑い合う人たちだって、本当は独りぼっちだと解ってる。あたしが知ってるのは其れくらい。


 只、幸せか不幸せかと云うのなら多分、あたしは──





咎無くて死す





「?、入りぃ」



 ぞわり、背筋が泡立つような甘ったるい声がする。

 普段は名を呼んでなどくれないくせに、客の前だとコロリと態度を変える姐様たちが、あたしは未だどうしても好きになれ無かった。
 でも此処を出たって行く所なんかあの地獄のような流魂街くらいかと思えば、まだ此処の方が数段はマシな気がする。




 鈴屋楼と云う、此処は尸魂界にある遊女屋。



 ここらでは最も古く最も格の高い楼らしい。




 遊郭の大門から一番遠い所に構えた屋敷は広く荘厳の一言で、ごてごてと絢爛豪華に飾り立てた他の遊女屋とは何も可もが違っていた。

 揚屋を持たず、どんなに位の高い遊女も──太夫でも花魁でも、屋敷の中で客を取る。その為、鈴屋楼には二階の他に高位の遊女と客とが使う、長い渡り廊下で繋がれた離れが在った。
 客の間では、迎えの妹女郎を引き連れて離れに向かうこの廊下を歩くことが鈴屋での立場を示すと話題になっていた。



 そして鈴屋楼が最高の遊女屋と呼ばれる大きな所以は、教育にある。

 屋敷の遊女はもちろん禿(かむろ)や下男、下働きの子に至るまで、客の目に触れる事のある者はみな一通りの芸事や教養を教え込まれる。
 暗黙の内に、鈴屋に出入りする客も教養と財のある人達──つまり瀞霊廷に勤める死神が多かった。





 あたしは、数年前に流魂街で行き倒れていた所を姐様に拾われた。





 遊郭とはひねくれた処で、浮世離れした鮮やかな色に塗りたくられてはいるけれど、その実何よりも現実を知っている。

 現に、あたしは拾われて直ぐに読み書きを教えられ礼儀作法を叩き込まれ、表向きは鈴屋の新造として育てられた。
 けれど禿や新造に成るには年が行き過ぎていたし、何よりどこの馬の骨とも知れない拾われ子だったから、実際は小間使いと大差無い。客を帰した後の座敷の掃除や、使い走りが仕事の殆どだ。

 其れでも姐様は、拾われた先が鈴屋であたしは幸運だと、何度もそう言った。新造にしてもらえたのも脳味噌と顔が多少なりとも良かったからだと。他は、欠損ばかりだから。




「?はん!居てるの?」


 少し苛立ちが滲み出した声が襖の向こうから飛んでくる。
 返事の代わりに、あたしはコツンとひとつ襖を叩いた。


「ほんならあてはこれで失礼します。直ぐべっぴんの女郎連れて来るさかい、待っとっておくれやす」


 きっと姐様は綺麗に三つ指ついて、何本もの上等なかんざしをしゃらしゃら云わせながら客に頭を下げたんだろう。

 構わないよ、と答える声は低く穏やかで、少し緊張が解れた。




 先に言っておくけど、べっぴんの女郎と云うのはあたしのことじゃ無い。

 あたしの世話を焼いてくれるこの姐女郎よりももっと上の、太夫と云うらしい多分この屋敷の中で一番偉い遊女のことだ。




 そして、その女郎が付くのは「三番さん」までと決まっている。



 三番さんは護廷隊の三席で、二番さんと一番さんは──副隊長と隊長。




 其れくらいの身分の方とも成れば、余程気に入りの女郎でも無い限り滅多に花街へは来ない。
 きっと太夫さんに目をかけているのだろうと、あたしは余計惨めな気持ちになった。



「ほんなら──…」

 するりと襖が開いて、敷居を跨いだ姐様が中へ向き直りまた優雅に頭を垂れた。
 かと思えば両手を揃えて襖を閉めた姐様は、あっという間に恐い顔になってあたしを廊下の隅まで引っ張って行く。


「鈴はん来はるまで余計なことせんでええ…隊長はんに、失礼があったらあかん」


 鈴と云うのはこの遊郭の名前だが、同時に屋敷で最高位の太夫が代々継いでいる呼び名でもある。

 あの方がお座敷に上がる所などあたしはまだ見たことが無かったけれど、あたしの着物の袖をグイグイ揺らしながら興奮気味に話す姐様の様子じゃ本当に隊長さんがいらしたみたいだ。


「ええね、黙って座っとるだけでええから!」


 しつこく念を押す姐様に頷いて廊下の先まで見送ってから、あたしは一人襖の前に膝を付く。




 ──今日は厄日に違いない。




 格子さんが二人も流行り熱にうなされ床に臥せっているから、鈴屋はいつもの数倍忙しいのだ。
 そうでなければ、遊女でも無いあたしが客のいる座敷に上がらせてもらえる筈が無い。



 そして、遊女でも無いあたしには、これは──今のこの状態は、ちっとも嬉しいことじゃ無い。



 だって、あたしは少し前まで血と土と埃の中に居た。そんな奴が遊女のなりをして客を取ろうだなんて。

 それにあたしは──…





「そこに居る方…入ってきて下さいな」





 急に、襖の向こうから声がした。



 ──あたし?



 まさか、嘘だ。


 意図せず跳ねた肩と心臓を宥めるように息を殺して、あたしは座敷の中の男に意識を集めた。

 あたしが発してる霊圧と云うらしい何かは、死神の其れとは比べ物にならないくらい小さくて、感知出来たものではない筈なのに。




「大丈夫ですよ…そんなに、勘繰らないで」




 お話がしたいだけです、待つのは苦手でして、と話す声は苦笑いを湛えている。

 あたしが此処でつらつら考え事をしていたのも、この分じゃとうに気付いて待ってでもいたんだろう。結局あたしは諦めるしか無いらしい。

 観念して襖に手を掛け静かに滑らせ、相手の顔もよく見ぬままに低く低く頭を垂れた。





「おや。随分と可愛らしい太夫さんだ」





 クスクス笑いながら掛けられた声は最初と変わらず穏やかで、優しい。

 隊長と云うからにはどんな強面かと内心怯えていたあたしは、茶化すような其の言葉に思わず顔を上げた。



 かちり、逸らす間も無く一瞬で合ってしまった視線。



 じっと注がれる其れすら優しくて、胸の奥がじぃんと鳴った。





「初めまして、お嬢さん」





 これは恋だと、頭の隅で誰かが囁いた。




 
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