大学の裏に、でかい公園がある。 ブランコとかすべり台があるやつじゃなくて、ジョギング用らしいトラックとか、濁った池とか、なんにもない一面の芝生とか、桜と菜の花だらけの道とかがある半端ない広さの公園だ。 その公園の端っこに小さなあじさい園があることを知ったのは、?が花好きだと聞いたからだった。 GARDEN4:305号室と303号室 「…?ちゃん」 「何だろうか修兵」 「やっぱ降りてください」 決して言ってはいけない言葉を、疲労と暑さに負けた哀れな俺はついに口に出してしまった。 ?は溜め息をついて俺の背中から手を離すとヒョイ、と自転車から飛び降りた。?の掴んでた場所に空気が触れて涼しくて、そこが熱を持っていたことに気付く。 「だから歩くよって言ったのに」 「…その靴じゃキツいだろ」 「これ歩きやすいんで」 大学を過ぎた辺りから坂道だらけなのを知っていて「降りるから止めて」って気を遣う?の腕を、「平気だから」とか言って左手でがっしり掴んだくせに、公園まであとちょっとのところで最後の登り坂に出くわして、俺は音を上げた。 言っとくが?が重かったとかそういうんじゃない。断じてない。この通りに面した駅前のスーパーに行くのに、専用の往復バスがあるくらいだ。チャリで二人乗りなんてするのは調子こいたガキか、調子こいた俺くらい。 「待って修兵、お茶」 「…ああ、サンキュ」 ?の持ってきたペットボトルはちょっとぬるくなってたけど、疲労困憊の俺には十分有り難かった。有り難すぎて、泣けてくる。 「馬鹿」 「…スイマセン」 ペットボトルを口に当てたまま頭を下げたら、?がクスッと笑うのが分かって顔を上げかけた。それが中途半端な位置で止まったのは、?が片手で俺の後頭部を優しく撫でたから。いつも俺がしてやってるみたいに、数回往復した手のひらは最後にポンポンと優しく叩いて離れていく。 「飲んだら行くよ。お昼になっちゃう」 聞いてるだけだとS発言が多いのは?いわく女子校育ちだから、らしい。でも、目が合うとすぐ逸らしちゃうところとか頭撫でると照れて嫌がるところとか、そういうのがすごく可愛いこと、本人は多分気付いてない。 ?のことは一目で気に入った。引っ越してきた日に初めて会って、最初は何か異常に警戒されてるのが気になった。でもそれが男に慣れてないせいだと気付いてからは出来るだけ優しくした。それですぐ気を許しちゃう?は、馬鹿だけどやっぱり可愛い。 三月のうちにだいぶ仲良くなった俺たちは、大学でもよく会った。?は文学部で俺と恋次は経済学部だから本当は接点なんてあまりないんだけど、先輩に相談して全員取れる講義探したり恋次と協力して?のほうを誘導したりして、何とか同じ講義を三コマ確保した。 でも俺と恋次は一浪して入学したから?より一つ二つ年上だったこともあって、この頃はまだ?を“可愛い妹”程度にしか思わなかった。 それが変わったのは、大学が始まって?が他の男といるのを見てからだ。 「?ー!頼むってマジで」 「別にいいけどさ…」 「貸してくれたら浩介がバラの花束プレゼントしてくれるって!」 「しねぇよ何で俺なんだよ」 「…あんたたち?に頼んないでちゃんと授業出なよ!まだ始まったばっかでしょ」 「李子さま怖い」 「黙んなさい」 「つーかバラってお前、」 「?ーお願い!」 ?と俺の接点その一、社会学の講義は、やる気を疑うようなヘラヘラした男の教授が受け持っていて、レポートさえ出せば単位がもらえるというゆるさで大人気の授業だ。 その日は俺が着くのが遅くなったからか?は最初同じクラスのやつと教室の端っこで固まってしゃべっていた。 「ねーマジで。お願い!」 「…分かったから、」 ?が折れて大喜びする相手の声が聴こえたけど、イライラしてきたせいで何を言ってるかなんて聞いていなかった。?は優しいから、頼まれたら断れない。相手の男も絶対それをわかってる。てかまず「ありがとう」くらい言え。 そいつらの話に神経尖らせてた俺は次に聴こえてきた科白にもう我慢できなくなって立ち上がる。 「じゃさ、明日の昼飯おごる!」 「隼人の口から奢るなんて言葉が聞けるなんて…!」 「…え、いいよ別に」 「良いから。な!」 ──誰がさせるか、そんなこと。 「?」 後ろから声をかける。それだけで俺と気付いたらしい?は、音がしそうなくらい勢いよく振り向いた。 「修兵、」 目元を柔らかく細めて顔一杯に笑顔を浮かべる?。荷物を引っ掴んで「じゃあね」とクラスメイトにあっさり別れを告げ、机の間を小走りでやって来る。思わず抱き寄せそうになったけどそこは我慢して、髪が乱れないように気を付けながら優しく頭を撫でた。 「昼飯、あいつらと食うの?」 「何だ聞こえてたの、」 後ろをちょっと振り返って困ったように眉を下げる。それで本人にその気が無さそうなのが分かって俺は胸を撫で下ろした。 ?と俺の接点その二、昼飯タイムをそう易々と渡してやるかよ。 「ノート貸すだけなのに悪いし」 「…あんま甘やかすと単位落とすぞあいつら」 「隼人はともかく、ほかは平気」 そのとき気付いた。 ──やべ、無理だわ、?が他の男の名前呼ぶの… 俺はもう、とっくに?のことが好きになってたんだって。 「しゅーへこれどっち、右?」 「左。あじさい園行くんだろ」 楽しそうに両手をブラブラしながら先を歩く?。俺は自転車を押しながらその後ろを付いていく。?の鞄は俺の自転車のかごに収まっていた。中身は今朝二人で作った弁当。 「修兵、あじさい見えた!」 跳び跳ねるような声が耳に届いて前を見れば、?はあじさいと俺を交互に振り返りながら小走りになっていた。 「…コケるぞ」 ほんの二ヶ月ちょっとの間のことを切なく思い出していた俺は、どんどん離れていく?に在り来たりな返事しか出来なくて、気付けば立ち止まっていた。 俺の気持ちになんてこいつは絶対に気付かない。仲の良い友達か、良くてお兄ちゃんだとか思ってるに決まってる。俺の気も知らないで。 ──こんなに一緒にいるのに。気付けよ、馬鹿。 「好きだ」 零れ出たそのたった三文字は、?に届く前に風に流され消えてしまう。 「何か言ったー?」 いつまでも俺が動かないのを怪訝そうに見つめながら、溜め息ついて引き返してくる?。俺は弾かれたように自転車をガードレールにあずけて、ほんの数メートルのもどかしい距離を小走りに詰めて。 最後の数十センチは、俺が?の腕を引っ張って、一瞬でゼロになる。 「しゅ、へ…?」 強く強く、深いくらい抱き締めたせいで、戸惑う?の声が自分の頭の後ろから聴こえてくるみたいだった。?に触れている部分から俺が溶けて流れ込んでくれやしないかと、背中に回した手で?の髪をすくい上げて、何度も唇を押し当てる。 「好き…」 「修、」 「すげぇ好き」 この言葉を、お前が飲み込んでくれるまで。 何度でも囁くから。 |