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 壁に、穴が開いた。


GARDEN1:305号室の受難


 凄い音が一発、壁のすぐ向こう側から聴こえて、ビビって思わずテレビを消した。

 昼時の商店街から中継してたタレントの甲高い声が、プツリ途切れて静かになる室内。じっと耳を澄ませてももう何も聴こえなくて、でもちょっと気になって壁に耳を押し当てる。

「…聴こえないよな」

 大したマンションじゃないけど一応鉄筋だし、案の定何の音も伝わってこない。諦めてまたテレビをつけて、ちゃっかり音量二つ下げてみる俺。

 今朝コンビニに行ったときエントランスに引っ越し屋の軽トラックが停まってたから、隣に誰か越してきたんだろうとは思っていた。

 多分学生だろうし会ったら挨拶すれば良いか。

 そう結論を出して、空になったグラスにお茶を足そうとキッチンへ。あまり中身が入ってない冷蔵庫からは冷たい空気が直に流れてきて身震いする。3月になったばかりで、まだ寒さは抜けない。

 ──ピンポー…ン

 ん?

「…ウチ?」

 すみません、とドアの外から声がして、慌ててスリッパを履き直して玄関に走る。 はーい、とか言いながら枠のところに腕を伸ばして体を支え右手で鍵を開ける。そっとドアを押すと、見たことない女の子が立っていた。

「突然すみません、隣に引っ越してきた?と申します」
「あー、お隣さんか!どうも初めまして檜佐木です」

 ちょい、と頭で会釈すると、その子は何でかちょっとびっくりした感じで初めまして、と頭を下げた。

「さっき荷物運んでるときにお見かけして、伺ったんですけど、あの、」
「何でしょう」

 言いにくそうに俯いて目を泳がせてるから、俺もじっとその子の視線を追った。そうしたら急に顔を上げて、パッチリした黒い瞳に真っ直ぐ見つめられて、俺は思わずドキッと──


「あの…お願い、が」


 ──した。

「俺に?」
「…はい。あ、でも忙しかったら全然、大丈夫なんで、」
「大丈夫すげー暇!」

 何でも言って!と意気込む俺が可笑しかったんだろう、固い表情だったその子は頬を緩めて少し笑ってくれた。あ、ちょっと可愛い。

「…、お願いします」



「よ…し、と!」

 濃い色の分厚い一枚板が立派な机を慎重に慎重に床に下ろす。外しておいた引き出しを四つ、ガコンとはめ直して脇で見守る彼女を見上げた。

「これでい?」
「はい!」

 俺の外した軍手を受け取りながら、すごく嬉しそうに頷く。良かった。もうすっかり緊張を解いてくれたみたいだ。

 お願い、ってのは至極簡単なことだった。

 引っ越し屋が家具を運び入れた後、配置でも考えるかとよく見たら机が壁を向いてしまっていた。何とか向きを変えようとしたけど、彼女いわく“父親の書斎みたいなとこにあった”机は見た目通りかなりの重さだった。
 とりあえず気合いで持ち上げてみたところ、引っ越しのために空にしていた引き出しがガラガラーッとばかりに滑り落ち壁に激突、ものすごい音に心も折れて俺に助けを求めたらしい。壁に穴は、開いていなかった。

「ありがとうございます、ほんっと助かりました」

 机の前であぐらをかく俺と、そんな俺の目線より低くまで頭を下げるその子。

 女の子一人じゃ確かに大変かもしれないけど、男の俺にしてみれば決して大したことじゃなかった。むしろ、何かもっと危機的状況から彼女を救ってやる自分を想像、と言うか妄想しただけに、部屋に上がらされ机のことを聞いたときはちょっと恥ずかしかった。

 何、想像してたんだよ俺──。

「大したことしてないし。壁に穴開く前に呼んでくれて良かったわ」

 何の気なしに言ったのに、すみません、とまた頭を下げられた。慌てて手を振って頭を上げさせようとして、気づく。


「足、寒くね?」

「…足?──ああ、」


 爪先をパタパタ重ね合わせて大丈夫ですよ、と笑ってはいるけど俺だって部屋じゃスリッパ必須だし。女の子は末端冷やしちゃ駄目、とか聞いたことあるし。何より、見た目が。冷えたフローリングに薄いストッキングじゃ、絶対寒い。

「うちに使ってないスリッパあるからやるよ」

 そう言って立ち上がると、思った通りその子は首をブンブン振って遠慮リアクションをとった。

「そんなの悪いです!」
「どうせ使ってないから」
「でも、」
「あ、綺麗だから心配しないでね。来客用だからほとんど穿いてないし」

 ね?と首を傾げてみてもその子はまだ納得いかないみたいで眉を寄せた。と思ったら、ボソッと反撃に出た。

「…来客が寒い思いしますよ」
「来ねぇよ、彼女いないし」
「じゃなくて友達とか」

 しまった、彼女アピールはまだ早かったか、と焦って冷や汗かく前に、バッサリやられて結構傷付く俺。無意識の一撃だったのか、彼女は唇をきゅっと結んでまだ臨戦態勢だ。

「いいの!あいつらは!」
「…ひどい、檜佐木さんだけスリッパですか?!」
「今よく噛まなかったな…」

 自分で言うのもアレだが俺の名字は言いにくい。早口で言ってのけた彼女を思わず褒めたら、気づかなかったみたいで目をぱちぱちさせてた。

「修兵でいいよ、名字で呼ばれんの苦手だし」
「でも…初対面で名前って」


「君さ、もしかして俺のこと嫌い?」


 さっきから遠慮ばっかだし、って溜め息混じりに言ってやったら、慌てて首を横に振った。何そのすがるような目。可愛い。

「じゃー好き?」
「何でそうなるんですか…」
「顔赤いー」
「…もうやだこの人」

 ヤバい怒ったかも、とそっぽ向いちゃったその子の顔を横から覗き込んだら、赤い顔のままクスクス笑ってた。一安心して、今ならいけるか、と再び聞いてみる。

「スリッパと名前。オッケー?」
「はいっ…」

 まだ笑ってる。俺は危うくその子の頭撫でそうになった右手を、そのままゆるゆる持ち上げ自分の頭をガシガシやった。

「ほら、うち来いよ」

 立ち上がって先に玄関に向かうと、観念したのか大人しく俺の後をついてくる。

 そのとき俺は重要なことを思い出した。

 靴を引っかけて半分開けたドアに背を預けながら、しゃがんでパンプスに手を伸ばす彼女にさりげなく言ってみる。


「名前、なんて言うの?」


 やべちょっと震えた。

 さっきより俺の声が控え目なのに気づいたのか、その子はクスクス笑いながら答えた。

「?です」

 ?、ちゃん。
 ──可愛い。


GARDEN1:305号室の受難


 五日後、?は貸してたスリッパを返しに来た。まだ寒いだろって押し返したら、自分の買ったから、と脇に提げてたビニール袋を持ち上げて見せた。クリーム色のモコモコは、確かにあったかそうだった。
 これで貸しというか口実がなくなるのかと思ってテンション落ちたけど、「ありがとう、修兵」って照れる顔が見られたからもう何でもいいか。

 





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