――ガチャン、 落ちると、思ったときにはもう遅かった。 繊細な造りのグラスは滑るように盆から飛び出て、足元で砕けて。 一瞬、周りがシーンと静まりかえる。 すみません、と小さな声で呟いて、慌ててしゃがみこむ。つむじの辺りに向けられる無数の視線。頬に熱が集まるのが分かった。 身を固くしながら、一心に床の上で粉々になってしまったグラスの破片を広い集める。 フロア内に再び話し声が広がって、ほっとした。 「…アキ」 自分を呼ぶ声に気付いて顔を上げると見慣れた橙色の頭。 イチゴだなんて可愛らしい名前とは裏腹に、彼はここのナンバースリーだ。 ここは“WATERS”――ウォーターズ。いわゆる高級ホストクラブ。 自分はアキと呼ばれている。 内勤みたいなものだから、源氏名じゃない。あだ名のほうが誰にでも呼びやすいだろうとマネージャーが付けてくれた名前だった。 顔がなんかアキって感じ、と笑われたときはさすがに、もしかしてもうバレてるんじゃないかとヒヤヒヤしたけど。 「大丈夫か」 視界に入ってきたエナメルの爪先にそろりと顔を上げれば、休憩あがりだろう黒崎さんが同じようにしてしゃがみこんでいた。 「あ、すみません大丈夫です…っ」 自分のミスなのに。 黒崎さんは一度チラッとこっちを見て笑ってから、さも当然のように散らばったグラスをせっせと集めだした。 こんなところ、マネージャーに見られでもしたら黒崎さんまで要らぬ誤解を抱かれかねない。 グラスを割ってしまったことよりそっちのほうが心配で、どうにかして黒崎さんを止めさせようとしたけど。 優しい彼は、微笑むばかりで一向に手を止めてくれなくて、思わず泣きそうになる。 「アキ?」 「…っ、はい」 目元を乱暴に拭った。 ここはモデルと見紛うような人ばかりで、みんな優しいけど無駄に美意識が高くて困る。毎日誰かしらに捕まって化粧を施され、居たたまれない思いをするから。 今日は、――ああマズい、白哉さんがやってくれたのに。 手の甲ににじんだアイラインの黒を見つめてしょげていたら、黒崎さんが何だか苦そうな顔をしてその手を掴んだ。 「今日は誰」 「え?あ、…っと、白哉さんに、」 へぇ、と呟きながらスーツの左胸からすべすべのハンカチを引き出した黒崎さん。 止める間もなく汚れた手の甲をそれでゴシゴシやりだしてしまって、よく見れば割れたシャンパングラスもすでに片付いていて。 帰ったら一人反省会だなあ、と内心ため息を吐く。 「それでか」 ぱん、と広げたハンカチを綺麗にたたんでポケットに戻した黒崎さんが、楽しそうに呟いた。 何のことか分からなくてぼけっとしていたら、額を軽く叩かれて笑われてしまった。 「あの人、今日やたらお前のこと見てっから」 「え」 ものすごい勢いで白哉さんがいるだろう奥のテーブルを振り返って、また笑われて。 自分が施したメイクを、汗とか冷や汗とか脂汗とかで台無しにしてないか、見張ってらっしゃるんだろうか。 どうして、自分に。そう思わずにはいられない。 開店前、スタッフルームでモタモタしてたら、あの低くてよく通るクリスタルのような声で一言、アキ、と名を呼ばれて。 ソファに座ったまま、指先だけで来いと合図してきた、その手にメイクブラシが握られているのが分かっても、逆らえなかったのは仕方ないと思う。 だいたい、白哉さんも他の人も、本人は化粧なんてしてもいないのに――する必要もないけど――こんな化粧映えのしない顔に色々塗ったくることの何が楽しいんだろう。 「…まさか、ね」 ここで働くようになって半年。 まさか、こんなタイミングでバレるようなことは何もしていない、はず。 「どうかしたのか?」 急に黙りこんでしまったから、黒崎さんが心配そうにこっちをうかがっている。 マネージャーといい白哉さんといい、ここの人は油断ならないんだから。 でも黒崎さんのブラウンの瞳に、疑いの色は、――浮かんでいない。 「何でもないです」 にっこり笑いながら、少しの罪悪感。それでも気付かれるわけにはいかない。 男性スタッフしか雇わないこのホストクラブに、男装して行ったら採用されちゃいました――なんて。 |