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 私の脳味噌は時々どうでも良いことを考える。
 例えば今なら、目の前の湯呑みに注がれたお茶の残り。


 定時過ぎ、ほとんどの隊士が家路につき人の気配がなくなっていく執務室に、いつもは隊主室でやっていたはずの編集作業を、なぜか最近この時間にここでやるようになった檜佐木副隊長と、そんな恋人兼上司の仕事を無理矢理手伝わせてもらってる、私。
 あんなことがあった後も隊のことを最優先して迷わず隊長と編集長の任務を背負い込んで、昼も夜もなくただ一心に働いてる檜佐木副隊長は私には東仙隊長の影を振り切ろうとしているかに見えて辛かったから、どんなに鬱陶しく思われたって良いから少しでも負担が減れば、と食い下がり続けてどうにか仕事を分けてもらった。


 何時間も文字ばかり睨んでいた目はもうジリジリと焼けるように痛くて、肩や腰はすっかり固まってしまって動かすのも億劫で。でもこんな思いを、檜佐木副隊長はずっとずっと一人でしていたのかと思えばそれだけで泣きそうで、私は必死に筆を動かした。



 だから、任された頁の校正を終わらせてようやく顔を上げたとき、いつの間にか広い執務室に二人っきりになっていた事実に気付いて私は焦った。



 焦って、湯飲みを覗き込んだ。



 ──まだ残ってる。



 阿散井副隊長にからかわれたのを真に受けて、檜佐木副隊長の頬の数字の意味を問いただして怒らせたのが、一ヶ月前。
 阿呆すぎる私はパニックになってその勢いのまま告白してしまって、気付いたらいつの間にか抱き締められていて、「悪ィけど、多分俺のほうが好き」だなんて見たことないようなとろとろに甘い、優しい瞳で囁かれて、私は檜佐木副隊長の恋人になった。



 ──どうしよう…どうしよう、二人っきり、って。



 だけど私は未だに申し訳ないくらい慣れなくて恥ずかしくて、二人で出かけたりだとか部屋に上げたり上がらせてもらったりだとか、恋人らしいことは何もしてあげられてない。さらに申し訳ないことに、檜佐木副隊長もそんな私の困惑を読み取って、あまり今までの雰囲気を変えないようにしてくれている。



 お茶なくなったフリして給湯室行こうかな…



 なのに私は、今もどうやってこの二人っきりの状態を脱するか、そればかり考えてるんだ。



 だって──…だってどうしたら良いの、二人っきりなんて。



 時計の音と、檜佐木副隊長が座ってるイスが時々軋む音。
 それ以外何の音もない静けさにもう耐えられそうになくて、私は湯呑みを掴んで席を立った。


「?」
「お茶、入れ直してきます」


 私が立ち上がったのに気付いた副隊長は、すぐに優しい顔になってじゃあ俺のも頼むと自分の湯呑みを指で持ち上げて揺すってみせる。


「はい。あ…薄め、ですよね」
「覚えてくれたんだ?頼むな」


 そう言って笑うその表情に、今までとは違う暖かさが込められてると気付いているのに。




 私はやっぱり、思いっきり目を逸らしてしまった。




 そして逃げるように駆け込んだ給湯室で、湯飲みを乱暴に置いて薬缶の水を火にかけて、後悔の嵐。


 何で──どうしてこう緊張しちゃうんだろう、別に何が変わったわけでもないのに。ちゃんと、好きなのに。きっと檜佐木副隊長が思ってる以上に、ものすごく好きなのに。
 あの日以来、些細な会話でも言葉を選んでしまう自分がいる。怖くて、選んで、結果口数は減って、一番好きな人にそんな態度しかとれない自分がどんどん嫌いになっていく。

 好きなだけなら、思うだけなら簡単なんだってことがわかった気がした。だって今私の頭は、好きな気持ちと同じくらい大きな「怖い」が占めてる。




「…?」




 とか何とか考えながら、流しの前でしゃがみこんで項垂れてたら背後に静かな気配。
 振り向くと、給湯室のドアを腕で押さえて困ったような顔で笑う檜佐木副隊長がいた。



「湯沸いてんぞ」
「あっ…わ、すいませ…っ」



 私が立ち上がるより早く檜佐木副隊長が腰を屈めて薬缶の火を落とす。その手はなぜか檜佐木副隊長の元には戻らずに、私の手を捕まえた。


「すいません、あの、座ってらしてください」

「…いい」


 いいって、そんな…


 大きくて優しい檜佐木副隊長の手に縫い止められた私の手のひらは、恥ずかしさと緊張とで多分ものすごい温度になってるのに、檜佐木副隊長はじっとそこを見つめたままクルクルと指先を動かしたり、握ってみたり。
 それがあまりにも優しくて、私は止めるタイミングを見失った。


「こんな時間まで残らせて、ごめんな」
「いえ…っ、全然、大丈夫です」
「そっか…本当助かる。ありがとな」


 みんなの前で副隊長の顔してるときより低くて穏やかな声が、じんわりと心に染み込んできて、顔が熱くなる。檜佐木副隊長が小さく笑った。



「?」



 楽しそうに呼ばれて思わず顔を上げると、檜佐木副隊長がじっと私を見下ろしていた。



「俺がいつから?を好きだったか、知ってる?」



 楽しげな声のまま、そう尋ねる目はやっぱり優しかった。


「…知ら、ないです」
「?が三席になったとき」


 三席って──移隊したとき?

 待っ…て、じゃあ私が告白する半年も前から、檜佐木副隊長は私を見ててくれた、ってこと?


 パニックする私の手を撫でながら、反対の指先が顎に触れくすぐるように肌を行き来しはじめて、それと一緒に檜佐木副隊長の顔が少し近くなる。
 その頃には恥ずかしさも緊張も最高潮で、これ以上何かされたら顔を背けずにいる自信はなかった。 





「…ウチじゃなくて、十番隊の、だけどな」





 ──え、?



「う、うそ…えっ…?」
「つってもまぁ、三年前か」



 ──お前ばっかり見てたから早かったな、三年なんて。



 のんびりした声が、どこか遠くで聴こえる気がした。



「?」
「…ッ、」
「ちゃんと聞いて、?」



 うそ。
 そんなの、私なんかそんな何にもないし可愛くもないのに、どうして、好きなんて、うそだ。


 ずっと、見てたもの。


 ほかの女の子と、飽きもせずに冗談言い合ったり笑い合ったり、仲良くしてるところ、ずっと──





「ずっとお前しか見てない」





 ああ、もうダメ、

 もう何も考えられなくて、空っぽなのに破裂寸前な私を落ち着かせるように軽く揺さぶって、顎をくすぐっていた手がゆっくり頬を撫でてくれる。

 信じられないのに、嬉しくて嬉しくて──それからやっぱり大好き、で、泣いてしまう。




「ずっと見てたから、お前が多分こういうこと恥ずかしくて苦手なの、知ってる。だからさ」




 私の顔を覗き込むように屈んで首を傾げた檜佐木副隊長は、親指の腹で丁寧に涙の筋を断ち切りながら、めまいがするほど強い目で私を捉えた。





「時々で良いから。俺だけ見て」





 それと何でも良いから、して欲しいこととか、言って。





 ああホントだめ、優しすぎます。


 堪えに堪えた涙は頬を伝い顎を伝い檜佐木副隊長の手を濡らして、唇は震えて歪んで、きっと冗談抜きでひどい顔。
 なのにそれを見た檜佐木副隊長が益々嬉しそうに愛しそうに笑うから、私の涙は止まらない。




「すげぇ好き、?」




 好きな人に想われる、その幸せを。

 私も檜佐木副隊長にあげたい。




「副隊長」
「ん?」


「すき…好き、っ」
「…かわい」




 檜佐木副隊長の首にぶら下がるみたいにして抱きついたら、腰の辺りを持ち上げられて足が浮いた。
 それだけなのに何だかすごくすごく幸せで、思わず声に出して笑った。



「夕飯食って、帰ろうな」
「はい…っ!」
「俺の部屋でいい?」
「あ、っ…と」
「何もしねぇって。一緒にいたいだけ」


 できたら一緒に寝たいけど。そう付け加えた檜佐木副隊長は、試すようにじっと私を見つめた。


「あの」
「なに?」


 心臓がうるさいくらい音を立てるけど何だか今なら言えそうな気がして、頑張って檜佐木副隊長を見上げた。

 思ってること、少しずつ口に出せばいい。そうすれば檜佐木副隊長はきっと分かってくれる。



「一緒に、寝たいです…」

「…」



 ああやっぱり駄目だったかも、恥ずかしすぎる!しかも何か妙に怪しいセリフ言っちゃったような…

「?」
「…」




「やっぱ、無理──…だ、俺」




 ドン、と体に重い衝撃がきた。



 背中から押さえ込まれるような力を感じて、反射的に閉じてしまった目を開けて。

 檜佐木副隊長に抱き締められていると気付いたときには、唇が柔らかく塞がれていた。



「無理ー…?サン可愛すぎ」
「うわ、あ、ちょっ副隊長、」
「可愛い、好き」



 ため息を吐いて脱力気味にギュウギュウ抱き締めてくる檜佐木副隊長を押し留めながら、私はようやく恋人らしいことができたのが嬉しくて照れ臭くて、ただずっと笑っていた。

「なあ、本当に来る?俺我慢できるか分かんねぇけど」
「我慢してください」




 少しずつ、頑張りますから。



 そう告げて優しい瞳に笑いかけた。





ラストシーン
あなたとだったら、







 





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