事の重大さに気付いたときにはもう遅かった。 何か出来ることはないかと聞いても彼は薄く笑うだけだった。心配するなと彼女も笑った。 私に出来ることなど、もう一つも無いのだ。でも。 ──止めなければ。 尸魂界は、終わってしまう。 ─────── はつ恋 10 ─────── 「?サン、起きてください」 場違いなほど穏やかな声だった。 目を背けたくなるような現実も、夢うつつの状態では思い出せるはずもない。 けれど私の脳はどこかで、彼の優しい声が似つかわしくない現実を、覚えていた。 「…浦原、隊長」 「スイマセン、無理させちゃって…」 無理をしたのは申し訳なさそうに眉を下げる彼の方だろうに。 渇いて張り付くような喉から、どうにか声を絞り出す。切れていた唇に新たな血がにじんだ。 「皆さんは、?」 「…」 浦原隊長の疲れきった目元がピクリと震えて、私はまだ薄暗い隊舎内を見回した。 ──何も変わらない。昨日と。 「…スイマセン。鉄裁サン、?サン」 結界を保つ大鬼道長。死んだように横たわる、八人の隊長格。 「失敗っス」 ピクリとも動かない不気味な仮面はどれもまだ血濡れたまま。 もう、終わりなのか。 そんな気に襲われた私を一瞥して、ゆるりと髪を撫でると浦原隊長は重そうに立ち上がり部屋を出ていった。 私も、起きなきゃ。 「?殿、まだ起きられては…っ!」 握菱さんが慌てるものだから、部屋を包む結界が微かに歪む。それを手で制して、激しい目眩のなか立ち上がり口の端で気にしないでと笑えば、持ち上げた掌に視線を感じて、彼の表情が大きく歪んだ。 裏返した両の手は、鬼道と禁術を繰り返したせいで赤黒く焼けただれている。顔を近付ければ異臭でもするんじゃないかと自嘲した。 「…これ以上のご無理は霊子体にも影響が出ますぞ!」 「大丈夫、早く彼らを── 「十二番隊隊長、浦原喜助様!鬼道衆総帥大鬼道長、握菱鉄裁様!」 何の前触れもなかった。 部屋の入り口が、突然現れた中央の者たちに封じられる。 声を張り上げ淡々と罪状を告げる彼らの前、動じた様子もない浦原隊長は自然な動作で体の向きを変え盾のようになって私を隠したあと、腰の後ろに回した手をちょんちょんと動かした。 「…握菱さん」 彼の合図──“逃げろ” 「あとをお願いします」 「…承知しました」 口の中で幾つか鬼道を唱え霊圧をギリギリまで封じ込み、私は裏口から瞬歩で十二番隊舎を離れた。 痕跡を残さないよう移動するのは得意なはずだった。 けれど今は余程気が動転しているのかそれとも力の使いすぎか、空を蹴る足に上手く力が入らない。崩れ落ちそうな身体を気力だけで動かし向かう先は、二番隊。 その間私の頭は魂魄消失事件からのこの最悪の展開について考えていた。 昨日の夜遅く、四番隊舎に向かっていた私は、巧妙に霊圧を隠した浦原隊長が大鬼道長を伴って流魂街に消えるのを見た。 ここのところ不可解な事件が連発していて、この日はついに六車隊長が直々に先遣隊を追って流魂街に出ていたが、先遣隊壊滅の一報を受け瀞霊廷は臨時戒厳下に置かれたばかりだった。 私はと言うと、最近どうも頭痛が酷くこの日も早々と書類を片付けた後、隊士たちに稽古をつけてやるはずだったのを断って、隊主室で横になっていた。 そうして日が暮れた頃。 ──九番隊異常事態の緊急招集が入った。 頭痛は、酷くなっていた。 「大丈夫か」 特務部隊が流魂街に向かうのを見送って十番隊舎に戻った私を、冬獅郎が心配そうに出迎えた。 頭痛を指して言ったのか異常事態によるショックを気にかけて言ったのか定かではないが、どちらにしても私は既に限界だった。 「…大丈夫。私は四番隊で卯ノ花隊長と待機だから、冬獅郎は乱菊とここにいて」 何とかそれだけ返して、支えようとする腕を逃れるように隊長机にたどり着く。冬獅郎が心配そうに眉を寄せながらも自分の席に戻ったのを確認して、私は出来るだけ自然に、机の引き出しに手をすべらせた。 重厚な造りの、上から五段目。 右手を差し入れ、手首に何重にも巻いていた限りなく細い鎖をその中へ落とした。 この机は、私が卍解を習得し隊長になるのと同時に当時まだ二番隊の席官だった浦原喜助に頼んで作ってもらったものだ。 五段目の引き出しだけ、玻空の能力を混ぜ込んだ強い結界が張ってある。 万が一、私の卍解を封じているこの特殊な鎖を外すことがあった場合、私と玻空の力による結界の中で、鎖の霊力食作用を飽和させるためだ。 そもそもこの五段目は、私と玻空、そして現隊長格の中でも総隊長と浦原隊長にしか見えない。 鎖の存在、卍解を封じていること──私の卍解の詳細に至る可能性のあるどんなことも、知られてはならないから。 「乱菊は、地獄蝶で呼んである…少ししたら一度戻るから」 鎖を外したことで頭痛も収まるかと思ったのに、収まるどころかますます酷く痛むこめかみを押さえ、私は隊主室を出た。 「…気をつけろよ」 無理をするなとは言わない冬獅郎に少しだけ微笑んでみせて扉を閉める。一歩足を動かすと視界の端がチカチカと頼りなく揺れた。 そして四番隊舎へと急いでいた時。 「浦原隊長…」 流魂街に出ていく十二番隊長と大鬼道長を見たのだ。 やはり行くのか。あんなにひよ里ちゃんを心配していた彼のことだ。見逃すつもりで、後を追うことはしなかった。 今思えば、このとき既に私は彼の策略に呑まれていたのだろう。 もう四番隊舎というところで、それは起きた。 「…玻空?」 私の中で眠っているはずの玻空が、何かに反応したのだ。私が意図して起こさない限り、玻空が外界を知ることなどできないのにも関わらず。 鎖を外しているとは言え、明らかにおかしかった。 「玻空」 もう一度しっかり名を呼ぶと、私の膝辺りから立ち上ったつむじ風が、色を付けて目の前に広がる。 現れた愛刀の化身はいつもとは様子が違った。 「?っ…!」 「どうしたの玻空、何が── 「やられた…お前も催眠にかかってたんだ」 すぅっと背筋が凍る。 見上げれば、そこは五番隊舎の前だった。 |