※後半流血有り 五番隊舎は不気味に思えるほど静かで、物音どころか人の気配すら感じられなかった。 とうに定時は過ぎているし、こんな事態でなければその静けさを異様に感じたりはしなかったかもしれない。 けれど今は。 耳の奥を針で刺すような張りつめた空気と隊舎の奥から流れてくる不穏な霊圧に、背中を恐怖が這い上がる。 さっき一度外に出た玻空は、私と同じようにひどい頭痛がするらしくすぐ中に戻りたがって、今はもういない。 意を決して私は一人で五番隊舎の奥──隊主室に向かった。 ──足が、重い… 一歩、足を進めるたび空気が鉛のように体にのし掛かってくるようだ。隊主室の前に辿り着いたときには体の重さと恐怖で私は気を失いそうだった。 途中から壁についていた腕を、必死に張って何とか体を起こす。 いつまでもこうしてるわけにはいかない。 中にいるだろう男は、私がここへ来ることなどお見通しだったに違いないのだから。 「お待ちしていましたよ、?隊長」 穏やかな声に呼ばれはっとする。 私の考えすら見抜いているかのようなタイミングで目の前の扉が音もなく開き、現れたのは── 「…藍染副隊長」 五番隊の副官。 事件のあった流魂街へ赴いている平子隊長の、優秀な部下。 その男が、いつもと変わらない笑顔を浮かべ、平子隊長が座るはずの席に悠々と腰掛けていた。 「そろそろいらっしゃる頃だと思っていました」 なめらかな動作で立ち上がり、どうぞと手で示されたのは今の今まで藍染副隊長が座っていた、隊長椅子。 私が無言で首を振ると、彼は困ったように眉を下げて私の前までやってきた。 「…座って。辛いんでしょう」 優しく両手を引かれ、今度は首を振ることはできなかった。藍染副隊長の言う通り、私はもう立っているのがやっとだったからだ。 頭を内側から殴られているような痛みはこの部屋に入ってからさらにひどくなり、すでに頭痛を通り越して体のあちこちの感覚を奪っていた。 背中を支えられながら椅子に座らされ、そのすぐ前に藍染副隊長が膝を付く。 「すみません。まさか外部からの干渉がこれほど影響するものとは思っていなくて…少しじっとしていてください」 彼が申し訳なさそうに言った言葉の意味を、私の頭はもう考えられなかった。 呼吸さえままならない私の額に藍染副隊長の掌があてがわれ、そのひんやりとした感触を意識できるようになったのは数分後。 「楽になりましたか」 「…っ…!」 額に置かれていた手が労るように頬や首筋をなぞる。 痛みが消えた代わりに、その瞬間私はとんでもない違和感に気付いてしまった。 「あ、なた…は…っ」 「やっと気付いてくれたようだ」 目の前の男は、私の知る藍染副隊長では、なかった。 「あなた、誰…」 震える声で尋ねた私に、その男はクスリと笑って目を細めた。 「玻空から聞いていませんか。あなたは私の催眠にかかっていたんだ。今まで、ずっとね」 「…どういう── 「あなたの知っている藍染惣右介は、偽者だったと言えば解ってもらえるかな」 ──偽、者。 「う…そ、だって私は、っ」 「あなたは私の斬魄刀の能力に気付いて催眠を妨害した。その上で、催眠にかかったフリをしていた」 言い聞かせるように、目を合わせたまま私の顔を挟み込んでいる両手。 震えが止まらない。 ──嘘だ。でなければ私は、 「逆だよ…?。君に妨害されたフリをして、催眠にはかかっていないと思い込ませていたんだ。私が、ね」 今までずっと、 「今日はやらなければならないことがあったから催眠を強くしていた。君と玻空の頭痛はいわば、防衛本能だ」 この男に──藍染に、騙されていたのか。 「どう、して…」 理由もわからない涙が頬を伝う。 「やらなければならないことがあると言ったろう?」 藍染は笑みを深めて、焦点を失いつつあった私の目を覗き込んだ。どす黒い血のような色をした瞳が、ゆらりと狂気に揺れている。 危険だと、今すぐに逃げ出せと私の脳は叫ぶのに、体は少しも動かない。 「君の愚かな友人たちにも、少しは役に立ってもらわないとね」 「…友、人…まさか、っ」 「たかが十人消しただけで隊長格が総出とは…護廷十三隊の低脳さには呆れたよ」 楽しそうに喉で笑いながら私の頬をなぞっていた指先が、ヒタリと首筋に当てられる。 それだけで、瞬時に呼吸が止まり気管を握り潰される感覚に襲われた。 「…ッ、あ…くっ」 「今は時間がない。君には猶予をあげようか」 ──息、が。 空気を求めて喉がヒュウヒュウと鳴り、凄まじい痙攣が手足を駆ける。身体中の臓器が燃え上がり、目の奥で火花が散った。 死ぬかもしれないと思った、そのとき。 「かは…ッ、ん…、ぐっ」 喉の拘束が解かれ、空気が入り込むと同時に、胃の中身を床に吐いてしまう。 藍染は、そのまま床に這いつくばってむせる私の顎を持ち上げて汚れた口や鼻をじっとり舐め回した。 「明日の正午に私のところへおいで。それまでは君が何をしても許そう」 「…っなにが、したいっ…の…ッ?」 「君だよ、?。私は君と、玻空の能力が欲しい。君が私と来るならほかは君の望むようにしてあげよう」 そう言って抱き上げられた拍子にブツリと強く唇を咬まれボタボタ血が垂れたが、まだ感覚の戻らない私に痛みはない。 ただ嬉しそうにその血を啜る藍染を見て、もう逃げられやしないのだと確信した。 「…分かった、から。平子さんたちには、何も、しないで…ッ」 「あんな出来の悪い者たちの心配かい?優しいね。でも、それは聞いてあげられない」 口から離れたと思えば、私の血が乗ったままの舌が首筋に降りてきた。 ピチャリ、赤いものが鎖骨辺りに塗り広げられていく。 「君はしばらくここを動けないだろうが、彼らならすぐに返してあげるよ。どちらにせよもう用済みだ」 藍染は私を椅子に座らせ、ここを訪れたときのように膝を付いて私を見上げた。 「ああ、綺麗になったね」 そう言ってわざと、いつもの穏やかな藍染副隊長の笑顔を形作った彼は。 「愛しているよ、?。これからはずっと一緒だ」 ──私たちは同じ力を持っているんだから。 血の味がするキスをして、隊主室を出ていった。 |