夜明け前の川に漕ぎ出でてみると、濃い霧のせいで空気までもが川になったようだった。
 コウはいつものように自分の小さな舟に乗り、静かに櫂を動かした。水はたった今目覚めたかのように、コウの漕ぐ櫂にとろとろとまつわった。
 闇に染まった水は、気のせいか昼間より重く感じられ、コウは腰を入れて櫂を漕いだ。今日はいっそう不穏な気配が含まれる霧で、コウは服の上から胸元をぎゅっと握りしめた。そこには、首から下げた祖父の形見の貝殻がある。海へ出るときのお守りだ。
 右から左からぽつぽつと灯りが現れ始め、コウはようやく安心した。同じく深夜から朝の漁に出る舟たちだ。霧の中、互いの位置を確認しながらも、速度を上げて流れに乗っていく。陽が昇れば霧も晴れるだろう。
 灯りがかすめていく岸辺に、灰色の影がちらちらと揺れた。遠くからだと霧に紛れて見えないが、岩や川沿いに立つ建物の柱でもないようだ。舟乗りの一人だろうか。どことなく奇妙な動きをしているように見え、コウは思わず漕ぐ手を止めていた。
 舳先に取りつけた灯りが映し出したのは、河原にうずくまる少女だった。少女は正座を崩したように座り、もじもじとしていた。気分でも悪いのかと思い、コウは声をかけた。少女はぱっと顔を上げてにやりと笑った。馬鹿のような笑顔だ。
 川のほとりに停めたコウの舟へと、少女はにじり寄ってきた。着物の裾が擦れるのも構わないふうだ。なぜにじってくるのか不可解に思ったが、よく観察してみると、少女の両足は固まっていて歩けないのだと分かった。
 打ち寄せる水に濡れるのも気にせず、少女はコウの舟に身を寄せると、顔を近づけてコウの目をまじまじと覗きこんだ。獣の目だ。海が急に深くなった部分の、そこだけが切り取られたように濃い色を見つけたときのように、コウはなんだか怖くなった。
 何が起きるかとコウは身構えたが、少女は足をばたつかせて頑是ない笑みを浮かべただけだった。
 少女の体に合わない着物は、その両足をすっぽりと覆っている。彼女は常に両足を揃えて動いていた。その姿をコウは、人魚みたいだなと思った。
 しかし少女の見た目は話に聞く人魚とはまったく違う。幼稚で、薄汚い。きれいだとはとても言えない偽物の人魚を、それでもコウは美しいと思った。ただのガラクタとは言い切れない美しさ。常識の美しさとはズレた美しさを。
 相変わらず意図が測れない笑みを貼りつけている少女に不気味な力で縛りつけられ、コウは目を離すことができなかった。
 にわかに風が強く吹き、二人の間の霧を取り払った。コウの目の前にいるのは人魚ではなく、ただの足の不自由な少女だった。
 そこでやっと、コウは仲間の舟からずいぶん遅れてしまったことに気がついた。あわてて櫂を動かし、コウは岸から舟をもぎ取った。
 物足りなさそうに見つめてくる少女の視線を引き剥がし、コウは海へと急いだ。ずいぶん行ってからやはり気にかかって振り向いたが、少女は幻のように掻き消えることもなく、ほとりにすがって手持ちぶさたに揃えた両足を水に打ちつけていた。



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