10

 もうそろそろ最上階に着くだろうか、とコウはたびたびうかがってみるが、前を行く男は歩みを止めることなく、階段は果てなくつづいている。このまま永遠に城の天辺に着くことはないのではあるまいか、という考えがよぎった。あまりにも馬鹿げているとは思ったが、その思いとは裏腹に、コウの背筋は粟立った。
 絶えず舟を漕ぎ漁をするコウをも疲れさせるほど階段はつづいていく。一方、先達の男は息一つ乱していないのだった。
 ようやく苦行が終わり、二人は城の最上階に立った。男がふすま越しに中へ呼びかけると、澄んだ声が答えた。部屋の感じは下の階とさほど変わらないんだな、と詮索していたコウに、男が部屋へ入るようにとうながした。
 かしこまって部屋に足を踏み入れると、外でもないのにコウはまぶしさを感じた。
 神々しいほど美しい人が、そこに鎮座していた。足を斜めに崩して座る姿は、まさに伝説の人魚姫。彼女が目を向けると、コウは陽に照らされたようにまぶしくあたたかく感じた。座るようにと男に急かされ、やっと我に返ったコウは人魚姫と差し向かいで腰を下ろした。
 席についた途端、膳に乗った豪華な食事が二人の前に出された。食事はどれもコウが見たことも嗅いだこともない物だったが、コウはあれよという間に用意された食事よりも、目の前の人魚姫に釘づけになっていた。
 人魚姫は玉虫色の高価そうな着物を着こなし、仏像のような笑みをたたえていた。錦鯉みたいだな、とコウは見とれた。
 人魚姫がコウを連れてきた男に指示すると、扉のそばに控えていた男は一礼をして外へと消えた。給仕の女子供も下がってしまったので、部屋にいるのはコウと人魚姫の二人きりになった。
 人を呼びつけておきながら、人魚姫はコウにねぎらいの言葉もかけず、質問すらしない。しかしコウに関心がないというわけでもないらしい。目の前の豪勢な食事には目もくれず、珍奇な動物を観察するようにコウを見つめている。じっと見られたコウは、良いにおいをさせる食事に目をやりながら、手をつけて良いものかどうか考えあぐねた。

――城の下にいる、足の不自由な子と知り合いなんですか?

 いろいろと聞きたいことはあったはずなのに、コウの口から最初に出てきた言葉はそれだった。人魚姫はコウの質問に興味を持ったのか、目を輝かせた。

――スイのこと?
――たしか、そう名乗ってました。
――スイはわたしの大切な友だちよ。ときどき、裏の階段を使って会いに行くの。あなたも、あの子の友だちなの?
――友だちじゃないです。ただ喋っただけで……。どうしてあんなやつと仲良くしてるんですか?
――はじめにスイを見たとき、人魚みたいで素敵って思ったの。
――あんなの、人魚みたいに美しいものじゃないです。魚ですらないです。

 人魚姫に反駁しながらコウは、自分もいつかのリャンと同じことを言っているな、と思った。自分だってスイを最初に見たときは人魚みたいだと思ったのに、いざ城の天辺の人魚姫を目にすると、スイはやはり取るに足りないものだと感じてしまう。

――だいたい、素性も怪しいやつなのに、一丁前に名前を持っているのが生意気だ。

 そう吐き捨ててから、もしスイと名づけたのが人魚姫だったら失礼だったのでは、とコウは青ざめた。だがそれは杞憂だったとすぐ知ることになった。

――でも、スイっていい名前よね。誰が名づけたんでしょう、流れる水のようできれいな響き。あなたの名前は?
――コウ、です。
――コウ。広くて明るい場所へ抜けて自由になるような響き。あなたの名前も素敵ね。
――あなたにも名前はあるんですか?

 コウは、失礼はないだろうかと人魚姫の顔色をうかがいながら尋ねた。人魚姫は先ほどまでの謎めいた微笑みとは違う、子供のような笑みを見せた。

――もちろん。わたしの名前は、ヒメ。
――ヒメ、ですか。城の頂点になるべくしてなった、というような名前ですね。

 コウは、ついいつもの皮肉な態度を出してしまい、ひやりとしたが、ヒメは額面通りに受け取ってくれたようだった。

――そうね。でもこの名前は本当の名ではないの。
――え。本当の名を明かせないわけでもあるんですか。
――いいえ。ただ元の名前を忘れてしまっただけ。ヒメという名は、人魚姫と呼ばれるようになってから、自分でつけた名なの。

 果たして自分の名前を忘れることがあるものだろうかと、コウは考えこんだ。もしかしたら元から名前を持っていなかったのではないか。
 目の前のヒメの美しい笑顔をいくら見つめても、コウには推測できるわけもなかった。
 本当にヒメは完璧な笑顔を見せる。こんなに近くにいるはずなのに、まるで遠くにいるみたいだ、とコウは思った。だらしなくて痴呆じみていても、スイの笑顔の方がコウには近しく感じられ、城の天辺にいながら自分の住む下界を恋しく思った。


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