もしかしたら私は、死臭が分かるのかもしれなかった。
 死臭といっても、死んだ者のにおいではない。これから死ぬ者のにおいだ。
 死んだ者のにおいはまだ嗅いだことはないが、聞くところによると、地上に存在する何ものとも違う、一種独特なものであるらしい。それと同じで、これから死ぬ者のにおいも、私にとっては独特なものに感じる。
 昔からにおいには敏感だった。それは、良いにおいに対しても、悪いにおいに対しても発揮される。外出先ですれ違う人が、汗のにおいなのか何かすえたにおいを発していると、それだけで吐きそうになった。自分のにおいに対しても神経質になり、人一倍清潔にするよう心がけた。
 たまに、たえがたいほどのにおいを発している人とすれ違うことがあった。発酵しそこねたような、言語に尽くしがたいにおいだ。こんなに強いにおいを放っていて、本人は気づかないのかしらん、と思うこともあった。そのたえがたいにおいとまったく同じものを放つ人々が、たまにいた。
 そのうちに、そのにおいは自分しか知覚できないのではないか、という疑いを持ち始めた。あるとき出先で、近くに立っていた男が放っていたにおいをどうしてもたえがたく思い、そばにいた父母につい「あの人、臭くない?」とささやいてしまった。しかし父母は私の言葉に同意せず首をかしげ、「特にそうは思わないけど」と答えたのだった。ちなみに父母の鼻は正常にはたらいているはずだ。
 それからも、私はある人のにおいをたえがたく思っているのに、周囲の人はなんら反応を示さないということがたびたびあった。こうなると私の鼻がおかしいと考えざるをえないが、私は誰に対しても臭いと思うわけではない。
 つまり特定の人を私だけが臭いと感じることができるのだ。そこにどんな法則があるか。
 それが分かったのは、知人を病院に見舞ったときだった。
 仕事関係の知人で、病のため入院していた。助かる見込みがどれほどかはその人の家族しか知らず、本人や私たち部外者には知らされていなかった。なので知人は幾分不安そうに、それでも生来の優しさから私に微笑みを向け歓迎してくれた。
 私はその知人に、例のにおいを感じた。たえがたいほど強く放たれてはいなかったが、たしかに同じ、すえたようなあのにおいだった。
 私はにおいを意識しないように知人と対座したので、別れてからしばらく後も、知人と例のにおいとの関連を忘れていた。私にそのにおいの記憶をよみがえらせたのは、知人が亡くなったという知らせだった。
 そこで私は、あのにおいは死にそうな人が放つものなのではないか、と思い至った。私は自分でも嫌悪感を抱きつつ、それでもたしかめずにはいられなくて、知人が入院していた病院へ行った。あの独特な異臭を放つ者はちらほらといた。末期患者の集まるフロアにも。しかし鼻が曲がるほどではなかった。同じにおいではあるが、穏やかで控えめににおう程度だった。
 そこだけが不思議だったが、とにかく私が感じていたあの独特なにおいは、死に近づきつつある者のにおいだと確信するに至った。その事実は私を恐怖させた。だって他人の死が予見できてしまうのだから。私はたとえ自分とかかわりのない人でも、誰かの死に気づいてしまうなんて嫌だった。私は外出するときにマスクをするようになった。
 その夏は、琢磨さんが帰ってくるということだった。琢磨さんは近所に住む年上のお兄さんで、高校を出てすぐ地元で就職した私と違い、遠くの大学に通っていた。ひそかにあこがれている彼が帰省するということで、私の心は浮き立った。
 夏休みということで、近所の人々で集まってバーベキュー大会を開くことになった。そこに、私も琢磨さんも参加した。
 にぎやかな集まりの初めのうち、琢磨さんは大人たちに囲まれ都会の生活について質問責めにあっていた。やっと近づくことができたのは数十分も経ったあとで、彼はもう他人と話すのにうんざりしているのではないかと私は危惧した。
 しかしその懸念は杞憂で、琢磨さんは昔と変わらず打ちとけた態度で接してくれた。
 私はそれが何より嬉しかったが、同時に、何より出会いたくないものを見て……いや、嗅いでしまった。例の「死臭」だ。
 不快なそのにおいがどこからにおっているのか、琢磨さんと話しながらあたりをうかがった。さっき肉を取り分けてくれた吉川のおばさんだろうか。それともさっきからそばでビールを飲んでいる、佐々木さんが招待したというおじさん……?
 そのとき、琢磨さんが大きなあくびをした。
「ごめんなさい、私と話すの、つまらなかったですか」
「いや、そうじゃないんだ。最近忙しくて寝る暇がなかったから」
「帰ってきて早々バーベキュー大会じゃ、疲れもとれませんね」
「そんなことないよ。皆と会って気分転換になった。よっちゃんにも会えたし」
 よっちゃんとは私、頼子のことだ。そんな嬉しいことを言いながら、また琢磨さんはあくびをした。私は思わず、眉根を寄せた。
「どうしたの? 気分悪くなった?」
 自分も眠気があって調子が悪いだろうに、琢磨さんは私を気づかった。
 いいえ、何でも、と言おうとしたが、私の口からは思わず
「何か、におわないですか」
という言葉がこぼれ出てしまった。
「そうかな? 僕は何も感じないけど……ガスのにおいかな?」
 そう言って琢磨さんは煙の上がる焼き網の方を振り返った。人が集まって肉や野菜を次々焼いている。
 私は、においのもとがその焼き網からではないことを分かっていた。認めたくなかったが、強い悪臭は、たしかに琢磨さんの体から発せられるものだった。
 でもおかしい、と私は思った。琢磨さんから死臭がするはずなんてない。だって琢磨さんは健康そうだし、今だって、朗らかに笑って食事している。そんな人から、もうすぐ死ぬだろうサインを感じるはずがない。
 あるいは私の突き止めた前提が間違っていたのかも、と考えた。私は他人が感じ取れないにおいを嗅ぎ分けることができるけれど、それは決して死臭ではない。そう考えないと、私は自分の認識を信じられなかった。
 肉を焼き談笑している人々を眺めながら、琢磨さんはうとうとしていた。私は「ちゃんと寝ないとダメですよ」と釘をさした。 「今日はたっぷり寝ることにするよ」と、琢磨さんは微笑した。

 救急車のサイレンの音で目が覚めた。私の家は病院に近い場所ではないので珍しいな、とぼんやり考え、次の瞬間ひらめいた嫌な予感に胸騒ぎがし、目が冴えた。
 表へ出ると予感は的中し、救急車は琢磨さんの実家の前で停まっていた。私の母も起き出し、私の後ろで「何かあったのかしら」と不安げな声を出している。でもまだ大丈夫だ、救急車なら病院にすぐ運んでもらって助かるかもしれない、と私は自分に言い聞かせた。
 しかし私の気休めなんかよりはるかに、私の能力は確実に現実をとらえていた。病院に緊急搬送されたのもむなしく、琢磨さんは亡くなった。何の兆候もない、急死。早朝に起きてランニングをすると言っていたので起こしに行った琢磨さんの母が、彼が息をしていないのに気づいたそうだ。
 何の疾病も患っていない琢磨さんの突然死。睡眠不足が原因で引き起こされることがあるらしい。そういえば昨日もしきりにあくびを漏らしていた。
 だが琢磨さんが死んだ原因など、私にはどうでも良かった。彼が死んでしまったという事実だけが重要だった。
 私は彼の死を予測していたのに、どうすることもできなかった。彼に伝えたとて信じてもらえないだろうし、外的な事故でないなら私が守ってあげることもできない。
 相手が死にそうだと分かったからといって、私はその人に何もしてあげられないのだ。
 こんな能力など要らない、と思ったが、自分の鼻をもぎとることなどできない。たとえそれを実行したとしても、別の形で私は他人の死を悟ってしまう、そんな呪いめいた恐れを抱いてしまう。
 私はさらに入念にマスクをつけるようになった。そして自分が大切に思っている人のにおいは、絶対に嗅ぐまいと固く誓った。






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