昔はただ絵を描くのが好きなだけだった。綺麗だと思った人や風景をキャンバスに閉じ込めておくのが好きで、それを見て上手ねって褒めてくれる姉さんが大好きで、それだけだったと思う。
 変わってしまったのはいつだっただろう。分からない。昔のことを思い返そうとすると酷く頭痛がするのだ。いや、そもそも私は変わってしまったのか?そんなはずはない。そんなことはない。私は変わらず私のままだ。そう、そうに決まっているのだ、ねえ。ねえ…誰に話しかけていたのだっけ。ああ頭が痛い。
 痛いのは嫌いだ。辛いのも好きじゃない。周りの人間はどれも不快で、だから私は何も考えず、ひたすら絵だけを描きながら、ずっと一人でいる。ずっと?ずっとだったかな。誰かがいつも隣にいてくれた気がする。うーん。うーんと。
 いいや、いいや。考えるのは駄目だ。だって頭が割れそうになる。
 痛いのは嫌い。だって痛いんだもの。

 筆先にたっぷりと真っ赤な絵の具を含ませて、キャンバスいっぱいに広げる。鮮やかな赤が目に痛い。
 いつだってこの瞬間は心が躍る。白いだけのつまらないキャンバスにあっという間に命が吹き込まれるのだ。赤が広がり重なり色を濃くして、いろんな顔をのぞかせる。ひとりひとりの特別な赤。同じものはふたつとして存在しない美しい赤。
 鼻歌交じりに線を引く。白を埋めていく。細かいところは細い筆で繊細に、時には太い筆で大胆に。水はいらない。赤だけの世界だ。
 筆を動かすこと小一時間。最後の仕上げを終えると、立ち上がって少し離れたところからそれを眺めてみる。うんうん、とってもいい感じだ。
 今日も美しくキャンバスを彩る赤にうふふと笑みが零れた。綺麗だなあ。綺麗だね。ねえ、あなたもそう思うでしょう?こっちにおいでよ。見てごらん。私の最高傑作だよ、間違いない。描く度最高傑作だと言っているけれど、今回は特別綺麗に描けているんだ。ほらほら早く見てよ、見ろよ、見ろ、見ろ、見ろ。さあ。


「あ、死んでる」


***


『また死体が発見されました』


 朝のニュースに似つかわしくない重々しい顔を作りながら、美しさと若さ溢れる女子アナがニュースを読み上げた。それを小耳に挟みながら、こんがりと焼きあがった食パンにたっぷりバターを落とすとパンの熱で表面からゆっくりと溶けていく。幸せの瞬間である。
 いつまででも眺めていたいところではあるが、しかしながらこの朝の忙しい時間帯にそうのんびりとしている場合ではない。仕方がなくスプレッダーでバターを均等に伸ばし、かぶりつく前に一度すうっと匂いを吸い込んだ。焼き立てのパンとバターの香り。実に良い。
 満を持してぱくりと一口食べると外はカリカリ中はふわふわもちもちの食パンの風味がふわっと広がった。鼻に抜ける小麦の香りがたまらない。


『死体の近くには他7件と同様、血で描かれた絵画が放置されており、極めて凶悪な殺人事件であるとして警察は捜査を続けていますが、捜査は難航しているとのことです』
『今回で8人目の被害者が出てしまいました。恐ろしい事件ですね』
『被害者に共通点はなく、無差別殺人の可能性が高いですからね。犯人が捕まるまでは無用な外出を避ける、夜道を一人で歩くのを避けるなどの対策をしなければならないでしょう』


 むむ。なんの事件か全然聞いていなかったけど、捜査が難航してるのは分かった。毎日毎日警察さんも大変そうである。私には全く関係ないので完全に他人事でしかないのだけど、応援だけはしておこう。街の平和のために頑張ってくださーい。
 きっと朝から晩まで走り回っている可哀想な警察さんとは裏腹に、私は今日も自室で黙々と作業をするのみだ。自分のさじ加減でできるこの仕事、先程は朝の忙しい時間と言ったが完全に嘘である。全然忙しくない。毎朝忙しいけど朝ご飯はしっかり食べる健康的な私をアピールしただけだ。パトロンのいる画家のなんと自由気ままなことか。好きでこの仕事をしているわけではないが、こういうところがとても気に入っている。
 でも待てよ。今日はもう描きたいものが決まっているものだから、早く作業に入ろうとは思っていたのだった。つまりやっぱり今朝はとっても忙しいと言っても過言ではないのでは?ああ忙しい。なんて忙しいんだ。早く描かなきゃ。


『それにしても、この第一発見者の方。死体を発見してから通報するまで約1時間の時差があるんですね。警察の取り調べによりますと、他7件の第一発見者同様、「この世のものとは思えないほどに美しい絵に見惚れてしまった」「あまりに綺麗な絵に目を奪われて動けなかった」等と説明しています』
『傍に血の海が広がっているのに、それすら気にならないほどに「美しい絵」というのがどれほどのものなのか、私にはとても想像ができませんね』
『またこのうちの2件は第一発見者の手で現場から絵画が盗まれるという事件も併発しており、そのうちのひとつは回収を終えたとのことですが、もうひとつの絵画はオークションによって既に何ものかに購入されており、行方が分からなくなっています』
『何にせよ、不気味な事件ですね。早く犯人が逮捕されることを願うしかありません』
『それでは次のニュースです』


 んん!しまったしまった。そういえば、絵の具がもうなくなっちゃったのだった。何を描くにもまず絵の具の調達に行かなくては。私は確かに天才的な画家だけれども、道具がなくてはただの人である。
 ぺろりと指についてしまったバターを舐めて立ち上がる。最近は沢山描いているので、絵の具のヘリが早いのだ。誰か私の代わりに調達してきてくれる足がいればいいんだけどなあ。
 リモコンの電源を押すと、ぶつっと音がしてテレビが消えた。


*


「あ、おはようございます苗字さん」
「工藤さんとこの息子くんだ。おはようございまぁす。お隣は彼女さん?」
「いえ、幼馴染です」
「お、おはようございます」
「はあいおはようございます。学校頑張ってね」


 途中すれ違った中学生カップルに手を振ってお店への道を行く。しかし家を出てから気が付いたのだけど、いくらなんでも早くに家を出過ぎた気がする。学校に行く中学生とすれ違うような時間に空いている画材屋なんて知らないぞ。せっかく張り切ってたのに。あーあなんだかやる気なくなってきちゃったな。今日はもうやめようかな。そうしようかな。それがいいかも。やっぱり帰ろ。帰ってもう一枚パンを食べよう。今度ははちみつをかけて食べるのがいい。この間桜の花のはちみつをもらったのだ。
 とってもナイスな考えに我ながら満足。うんうんと頷きながら足を止めると、そのタイミングで後ろからくんと手を引かれたのに気が付いて、首をぐりんとそちらに向けた。繋がる手の先には息子くん。おや何でだろう。さっきの女の子は少し離れたところで立ち止まっている。どうやら彼だけ私を追いかけてきたらしい。


「どうしたの、繋ぐ手を間違えているよ」
「えっ…いや、あの……あの、前に一度、あなたの絵を見せていただいたことがありましたよね」
「そうだったっけ」


 そう話しかけられるも、私は首を傾げる。たくさんの人が私の絵を見るから、誰が見たのかなんてことはいちいち覚えていない。でも見たことがあるというのだからきっと見せたことがあるのだろう。工藤さんと一緒に来たことがあったのかもしれない。工藤さんってうちに来た事あったっけ?うーん覚えてないなあ。


「あの時の絵、もう一度見せてもらえることはできますか?」
「どの絵かなあ。私は描いた絵を覚えていないんだよ」
「あんな綺麗な絵なのに覚えてないんですか!?」
「出来上がったものに興味はないんだ。楽しくて描いているだけだからね」


 とても驚いた様子の彼に私はにっこり笑って続ける。


「けれど見に来たいならば来るといい。拒みはしないよ」
「じゃあ、今日学校が終わったら行ってもいいですか」
「うん?どうぞ。居るかなあ、多分、いると思うよ」


 じゃあ17時頃に伺いますと礼儀正しく笑った彼に、私も待っているねと返して別れた。せっかく見に来てくれるというのだから、何か絵でも描こうか。ああでも今は絵の具が切れてしまっているのだった。どうしようかなあ。折角来てくれるのに絵の一つでもないのではつまらない。うーんうーん。


「あ、そうだ」


 彼の絵の具を借りよう。それがいい。私の絵が見たいみたいだったし、きっと喜んでくれるに違いない。楽しみだなあ。彼は褒めてくれるだろうか。
 私は家への帰り道を足取り軽く進みながら、早く来ないかなあと呟いた。




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