私は苗字名前。とある大物政治家先生の秘書をしております。先生とは長い付き合いでもう5年、こうして仕えさせて頂いてございます。
 大物と言うだけあって先生はとてもお忙しくていらっしゃいます。その秘書である私も毎日忙しなく働いており、休みという休みは特にはございません。
 ごくまれに気まぐれの様に言い渡される貴重な休日でさえ先生に呼び出されて、会食だゴルフだと付き添いをさせられることもしばしば。先生から電話があれば、例えどこにいたとしてもすぐさま先生の元へと馳せ参じなければなりません。
 こんな現状を他の方に知られてしまえばブラックだなんだと言われるかもしれませんが、私はそれが嫌だというわけでもありませんでしたから、特に文句はございませんでした。私にはこれしかありませんから、先生のお傍にいられるのならばそれに越したことはございません。先生のお傍に仕えさせていただけることの、なんと光栄なことでしょう。
 確かに難しい仕事ではございますが、大変名誉な仕事でもございます。この5年を振り返ると、本当に仕事をしていた記憶しかございませんが、私はそれで満足なのです。
 だって、これしかないのです。もう、これだけしかなかったのです。

 そんな私だったが、つい最近やっと。やっと退職の目途が立ったのだ。
 長年どうにかできないかと悩みに悩んで、ようやく実現できそうなのである。こんなにも嬉しいことはない。ずっと夢だった。もうすぐ夢が叶うのだ。
 ああ、その日が今から待ち遠しくてたまらない。きっと私は今、世界で一番の幸せ者である。人目がなければ盛大に鼻歌を歌いスキップをしたことだろう。今にも天に昇りそうな気持ちだった。
 私の退職にみんながどんな顔をするかは分からないが、しかしもうずっと前から決めていたのだから、誰になんと言われようと絶対に曲げる気はない。私は無職になるのだ。世界中の誰よりも、自由な存在になるのだ。
 そうしたら、久しぶりに家族に会いに行きたい。みんなは元気だろうか。会わなさすぎてもはや声もおぼろげなくらいだ。とにかく顔が見たい。話をしたい。伝えたいことが沢山あるのだ。
 ああ、早く、会いたいなあ。

 先生のもとで働き出してから5年。家族の顔を最後に見たのなんか8年前だ。決して長いとは言えないかもしれないが、しかしまだ30年も生きていない私にとって、決して短くもない月日が経ってしまっていた。
 我ながらよくも今日まで耐えたものだと感心してしまう。
 本当はもっと早くにさよならする予定だった。だけど色々と準備に手間取ってしまって、結局こんなにも長い年月が経ってしまっていたというわけだ。
 私の手際の悪さはまったくどうにもならない。この仕事を始めてから、少しは効率よく動くことができるようになったと思っていたのだけど、本当に思っていただけだったようであるとよくよく思い知らされた。
 しかしだ。何はともあれもうすぐ終わる。この際手際の悪さなどどうでも良い。今更何を言ったところで失った時間が戻ってくるわけではないし、今後に活かせるわけでもない。無駄なことを考えるのはそれこそ時間の無駄だ。今の私に必要なのは、終わりなのだという事実だけ。
 もうすぐなのだと思うと、それだけで気持ちがすっと楽になって、心が穏やかになっていくのを感じた。口元が自然と緩む。あと残り少ない秘書人生、ルンルン気分で過ごすことができそうだ。

 だがしかし。そんな私の計画の雲行きが怪しくなったのは、正に私が職を失おうと決めていた日であった。
 準備は万端、あとは先生のところに行くだけであるというタイミングで、なんの偶然か事務所に名探偵と名高い毛利小五郎がやってきたのである。二人のお子さんも一緒だ。一体何の用事があったのか、私は結局聞けず仕舞いだった。まさか、気付かれていたとは思えないが。
 漠然とした不安を感じはしたものの、しかし今更やっぱりやめますなんてできるわけもなかった。今日を逃してしまえば、次にいつ、仕事を辞めるチャンスが巡ってくるか分からないのだ。
 止めるという選択肢は私の中に存在しない。もう、あとは前に進むだけなのだから。誰だろうと邪魔はさせない。

 結果的に毛利探偵が来るというハプニングは、私を抑止するものでは到底なく、むしろ私の背中を後押しするものとなった。先生が意図して彼を呼んだのかは分からない。しかし、私はしっかりと、予てより決めていた段取り通り行動し、そして無事、無職となったのである。
 気分は晴れやか、とは中々いかないけれど。けれど途方もないほどの満足感と達成感はある。安堵の気持ちもあった。今までの記憶が走馬灯のように流れては消え、私の目の前を鮮やかに彩る。

 そっと人気のない部屋へと移動して、私は壁を背に床にへたり込んだ。

 気を抜けば叫び出してしまいそうだった。踊り出してしまいそうだった。今ならば世界一のブ男にだって、笑顔でキスできる。
 色のなかった世界にやっと色彩が戻ってきた。世界がきらきらと輝いている。
 こんなにも、こんなにもこの世界は美しかったのだと、私はこの時になってやっと、思い出すことができた。それは本当に、幸福なことだと思う。醜い面だけ知ってしまったまま終わったのでは、私の人生あまりにも悲惨だもの。
 ああけれど、思えば本当に、遠いところまで来てしまったものだ。

 私は持ち歩いていたポーチをぎゅっと握りしめて、ひとつ息を落とした。目を閉じて、家族の顔を思い浮かべる。
 会いたいな。会えるかな。
 同じところに行けるだなんて、最初から思っていないけど。

 ポーチから胃薬と書かれた袋を取り出して、その中の薬を口に含んだ。水もないまま無理矢理飲み込む。喉の違和感が凄まじいが、気にするほどでもない。朝から何も食べていなかったから、あと10分もすれば効いてくるだろう。座り込んだまま目を閉じた。
 しかし丁度その時、私以外誰もいなかった部屋の扉が、ゆっくりと開いた気配を感じる。そちらを向けば無邪気な瞳をこちらに向けている少年の姿があった。彼は毛利探偵の連れていた子の一人だ。
 何故ここに、と思いつつも、それをおくびにも出さずに私は微笑む。なるべく柔らかく見えるように、恐くないように。自分が一番ステキに見えるように顔を作って、彼にむかって声を掛ける。


「こんにちは坊や、こんなところで何をしているの?ここはあまり楽しいところではないから、毛利探偵のところにお戻りなさいな」
「苗字さんとお話ししたくて」
「ナンパかしら。おませさんね。でもごめんね、今は少し忙しいの」
「証拠を隠すから?」


 こちらに聞いているように見せかけて、確信めいた色を乗せたその声が、私を貫く。驚いて少年を見ると、その口元に不敵な笑みを浮かべているではないか。
 見た目と中身がアンバランスなその少年は、私をじっと見つめている。まっすぐな眼差しが少し痛い。


「……証拠を隠すって、なんのこと?先生の死は自殺で確定だって、警察の人も言っていたじゃない。もしかして、お父さんに憧れて探偵ごっこでもしているの?悪いけれど、今は付き合ってあげられないのよ」
「それはあの時苗字さんが本当に違う部屋にいたらの話だ。居たんでしょ?彼の部屋に」
「防犯カメラに写っていないのに、どうやって?」
「簡単だよ」


 そう言って少年が語った内容は私がしたのと寸文たりとも違わない完ぺきな推理だった。まさかこんな小さな少年に見破られるとは思いもしなかった私が目を丸くして少年を見つめると、鋭い視線を返される。ううん、困った。


「正解でしょう?」
「うーん、分からないわ。だってそれ、証拠はないのでしょう?確かに君の言った通りのやり方ならカメラに映らないかもしれないわ。だけど、私がそれをしたという証拠がないのに変わりはないじゃない。それに密室を作るのだって、首を吊らせるのだってあの部屋では難しいって刑事さん言ってたじゃない」
「それは、」
「ああ、ごめんね。あなたの推理が聞きたいわけではないの。だってあなたは私が犯人だと思っていて、私が犯人だと仮定するならば、その方法は知っているもの。聞くだけ無駄というものじゃない。それで、あなたの用件はなあに?私にその推理を聞かせること?」
「……。自首してほしいんだ」


 ちらりと時計を確認する。あまり時間がないようだ。手が震えてきた。ゆっくりと少年に近寄って、視線を合わせるように屈む。少年はこちらを警戒しつつも、無防備にそこに立っていた。


「まだ処分してないんでしょ?決定的だ。それが見つかればもう逃げられない。なら、ねえ。自首しよう。たとえどんな理由があったって、あなたのしたことは間違いなく罪なんだから」
「私が自首する理由がないわ。だってやっていないもの。もともとここに来たのも少し疲れていたから。何かを処分するつもりなんかないわ。本当なのよ、信じてくれる?」
「僕にあなたを信じさせてくれるなら」
「―――あなたはとっても愛されて育ってきたのね。まっすぐで汚れていない。強くて綺麗。素晴らしいことだわ」
「…ありがとう」
「だけどひとつ。言うならね、坊や」

「罪かどうかは関係がないのよ」


 私はその言葉を最後に、少年を無理やり抱き上げると部屋から追い出した。身体を捻って抵抗されたものの、たかが小学校低学年の子供の力だ。数秒ならば抑えられないほどではなかった。内側から鍵をかけてしまえば、少年は最早こちらに介入することはできない。
 どんどんと扉をたたく音が聞こえるが無視する。たとえ何を言われたところで自首するつもりはさらさらないし、先ほど少年が言った、証拠の処分なんてことをするつもりもない。そもそも証拠を残すだなんて半端なことはしていないのだ。そこは、あの子の間違い。だけど随分と頭の良い子だった。もしかしたら殺した方法も本当にあっていたのかもしれない。聞いてあげる時間なんてものは既に残されていないのが残念だけど。
 外で少年が人を呼ぶ声が聞こえてくる。私の状況を理解したのかもしれない。けれど今更手遅れだ。もうどうにもならないだろう。そういうものを選んだ。

 薄れゆく意識の中で、複数の足音と、ドアノブをがちゃがちゃと揺する音を聞きながら、ずるずると床に倒れこむ。少年には少し悪いことをしてしまったかもしれない。これで私が倒れているのを知れば、最後に私と会っていた彼はきっと後悔することになる。いらないものを背負わせてしまうのは私だって本意ではなかった。しかしそれももう私にはどうすることもできない。彼が早く忘れてくれるのを願うばかりだ。頭の良い子であったから、難しいかもしれないが。

 最後の力を振り絞って携帯を確認すると、メッセージが届いていた。送り主だけ確認して、微笑む。中身は見なくても分かっていた。きっと無事終わったのだろう。
 今頃、各メディアにあの男が行ってきた数々の所業とその証拠が送られているはずだ。直接この目で確認が取れないのが心残りではあるけれど、信頼のできる相手に頼んできたし、念には念を入れてあるからこの情報が揉み消されることはまずない。これで悲劇の政治家なんてものに仕立て上げられることはないだろう。
 本当は生きながらに、社会的に殺されて絶望するあの男を見てから殺したかったのだけど。それでも最高の恐怖を与えながらあいつを殺すことが出来たから構わない。

 ―――8年前、あの男に私の愛する家族を殺されて、それからずっと、あの男を殺すためだけに今日まで生きてきた。陳腐でありがち、映画や小説なんかじゃ描かれすぎて今更大して売れやしない、そんなつまらない話だけど。
 それでもやらなければいけなかった。やろうと思った。誰に理解されなくてもいい。所詮は自己満足。法律的に見れば私のしたことは間違いなく罪。だとしても。やらないでなんていられるわけがなかった。罪だからなんだというのだ。そんなものは何の関係もない。
 罪だというのならば、それを背負ってでも。

 目を閉じると、瞼の裏に微笑む家族の姿が見えた。優しく笑うみんなが、私に向かって何かを言っている。
 ああ、ああ。
 みんな、そんなところにいたのね。ずっと、そこにいてくれたのね。
 あのね、話したいことが沢山あるのよ。まずは何から話そうか。きっとたくさん時間がかかるわ。それでも最後まで聞いてくれる?


 意識がなくなる寸前、もう自力では動かすこともできなくなった私の冷たい指先に、温かい何かが触れたような、



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