どうしてこんなことになったのだろうか。私は何か悪いことをしたのだろうか。いくら考えても分からないそれを、延々考えるのももう疲れてしまった。今言えるのはひとつだけだ。来なきゃ良かった。

 事の始まりは友人の旅行へ行こうという一言だった。世界一自由で暇を持て余している生き物である大学生たる私がそれを断る道理はなく、二つ返事で了承したのが2か月前のことである。そしてその友人が風邪を引き、旅行が延期になったのが今朝のことだ。
 荷造りも完了して、久しぶりの旅行にわくわくドキドキしていた私のがっかり感といったらそれはもう凄かった。本当に今日の旅行を楽しみにしていたのだ。前日の夜に楽しみすぎて中々寝付けず、結果完徹してしまうほどに、楽しみだったのだ。それが、当日の朝になって延期である。雷が直撃したかの如き衝撃だった。
 2か月もの間大切に育ててきたこのわくわくはどこへやればいいんだ。私は考えた。最早押さえつけることができない程に膨れ上がったこの気持ちを、このままむざむざ捨てるしかないのか?―――否。友人が行けずとも、私が行けない理由はない。
 斯くして私の一人旅が幕を開けたのである。

 楽しさを誰かと共有できないことに若干の寂しさは覚えつつも、誰にも気を遣わないで好きに動ける旅というのは想像していたよりも随分と心地よく、道中は概ね順調であったと言えるだろう。
 写真もたくさん撮って、ご当地グルメもたくさん食べて、色んなところを観光した。幽霊に遭遇しても知り合いが誰もいないと思うと気が楽だった。旅先には知らない人しかいない分、いつもよりのびのびすることが出来たように思う。一人で遠出をしたのは初めてだったけれど案外合っていたのかもしれない。期待に見合う、いやそれ以上の楽しさで、今夜はいい夢が見れそうだなんて考えながら、ほくほくした気持ちで宿に向かった。
 この宿というのは友人が予約を取ってくれたところなのだけど、知る人ぞ知る名店というやつのようで、小さいながらも行き届いたサービスは文句なしだった。温泉も気持ちよくて、景色もよくて、予約してくれた友人には悪いが一人旅最高かよと思いながら風呂上がりにお酒を一杯だけ飲んだ。とても美味しかった。
 思い返してみてもここまでは良かった。間違いない。最高に楽しい旅行だった。この時までは。

 ところがいざ部屋に戻ろうというときに、何やら周りが騒がしくなっていることに気がついた。状況が把握できなかった私はなんだなんだと首を傾げる。
 バタバタと忙しなく動き回る従業員さんのざわめきと遠くから聞こえてくるパトカーのサイレン音に、じわじわと不安を覚えた始めたところで、僅か4組総勢12名の宿泊客は一か所に集められた。一体何がとおろおろしながらそこにいれば、やがて到着した警察が重々しく口を開く。その頃には生まれて初めて体験するこの状況に、私はすっかりガチガチに緊張していた。

 混乱してなかなかスムーズに動かない頭をどうにかフル回転させて聞いた警察の話をまとめると、どうやら宿泊客の一人である少女が何者かに襲われたらしかった。一人でいたところ暗がりに引きずり込まれて首を絞められたようだ。
 偶然探しに来たお友達が声を上げて助かったそうだが、犯人は逃亡中で、少女は犯人の顔を見ていない。なんと驚きの殺人未遂事件である。
 まさか私が風呂上がりの一杯を楽しんでいる時にそんなことが起きていただなんて思いもよらなかったものだから、あんぐりしながらその話を聞いていた。寝耳に水とはこの事か。今までこういう、所謂事件というものに遭遇することなんてなかったから、話を聞いただけですっかり萎縮してしまった。
 その上、更に恐ろしいことに、その犯人はこの中にいる可能性が高いというのだ。警察が言うんだからきっと間違いないんだろう。
 これが表すのは、つまるところ、「この中」に含まれる私も容疑者であるということだ。自覚した途端不安が爆発的に増加して眩暈がした。気絶しなかったのが奇跡だ。

 この場にいる人たち全員が順番に警察の人にアリバイを聞かれるも、私は自分のアリバイを証明することが出来なかった。なんせ私は一人でここに来ているし、そもそも宿泊客が少ないものだから、施設内を歩いていてもあまり人に会わなかったのだ。私が該当の時間に何をしていたのか誰も知らない。私が犯人ではないと、証明できない。
 それでも何人か廊下や風呂場ですれ違った人たちはいたけれど、ここにいるのが宿泊客全員だと言う以上、あれらはみんな幽霊だったらしい。宿泊客の顔を見て口を噤んだ。
 私には外傷でもない限り幽霊と生きてる人とを見分ける術はない。如何せんはっきりくっきりしていて、半透明にはとても見えないものだから、普通の人だと思ってしまうことが多いのだ。影を見て判断という方法もあるにはあるのだが、室内では見分けが付きにくい上にひとりで気を抜いていたというのもあって、余計に見分けもついていなかったのだろう。
 それにしても危なかった。下手なことを口にしなくて良かったと内心で安堵する。うっかり頭がおかしいと思われるところだ。
 けれどこれには困った。頭がおかしいやつ認定はされていないものの、犯人扱いはされるかもしれない。

 やましいことなどなにもやってはいないのに、自分の無実を証明してくれる人がいないという状況と、隠していることがあるせいで、酷く不安だった。ないとは思うけど、大丈夫だとは思うけど、万が一、もしもこのまま犯人が見つからず、私が逮捕されてしまったらどうしよう。そう思うと、そわそわ落ち着きがなくなって、一層おろおろと挙動不審になってしまった。だけど慰めてくれる知り合いは誰もいない。
 そわそわと不安に揺れる身体をどうにか鎮めようと、髪を弄って気を紛らわせてみる。さらりと髪が揺れると、旅行用に買ったシャンプーの香りがふんわり漂った。この匂いに一目惚れして購入した筈なのに、少しも気持ちは落ち着かなかった。

 話を聞かれた時の私の答えは、要領を得ないものだったと我ながら思う。不安なのに加えて、昔から警察は苦手だったものだから、しどろもどろになってしまって、いかにも怪しかった。それは認める。
 でも言い訳をさせてほしい。あの青い制服を見るとどうにも責められている気分になって、うまく会話できないのだから仕方ないではないか。街中でも警察を見かけると怒られたらどうしようなんて思って、つい避けてしまう小心者なのだ。もっと優しく扱って欲しい。私はここにいる誰よりも繊細な自信があるぞ。
 けれどそれすら上手く伝えることが出来ず、気が付けば部屋に集められた誰より挙動不審な女になっている。こんな様子を見られたら益々疑われてしまうかもしれないと思いはするのに、意識すればするほど、どうしようもなくびくびくしてしまうのをやめられなかった。
 もう自分の意思ではどうしようもなく、警察の人と目が合わせられなくて目を伏せる。そんな私の様子にやはりというかあちらも不審に思ったようで、疑わし気な顔をされてしまった。
 もしかしたら周りの人達も全員私を犯人だと思って見ているのではないだろうか。私は何もしていない。でも誤認逮捕とか冤罪とかないわけではないし、逮捕される可能性がない訳では無いのだ。怖くて顔があげられなかった。とんだ四面楚歌である。泣きそうだ。
 こんなことなら旅行なんて来なければ良かった。友人が来れなくなった時点で、私もやめていれば良かったのだ。友人を差し置いて楽しんだから罰が当たったんだろうか。
 ごめんね友人、もう置いていかないよ。1人最高なんて思わない。助けて。

 不安からか、先程から心臓が嫌な音を立てていて、手は小刻みに震えていた。私があと十歳若ければ泣きだしてお家帰ると駄々こねたのに、なんて現実逃避をしてみるものの、少しも気分は良くならない。
 ついにはもう立っているのも限界だと思うほどの眩暈に襲われて、私はふらふらと部屋に備え付けてあるソファに向かった。なるべく目立ちたくなくて我慢していたけれど、このまま倒れて注目を浴びるよりはきっと今動いた方がましだろう。
 腰かけて小さく息を吐くと、震える手をぎゅっと握った。早くこの重く息苦しい時間が終わってほしかった。はたして明日、私は無事家に帰れているだろうかと項垂れる。そんな私の肩を誰かがそっと叩いた。
 驚いて足元にやっていた視線を上げると、眼鏡の少年が私に向かってコップを差し出しているのが目に入った。ぱちりと目を瞬かせる私の手に、少年はにこりと微笑みながらしっかりとコップを握らせる。


「飲み物どうぞ、お姉さん」
「あ……ありがとう」
「気分が悪くなっちゃった?」
「少しだけ…こういうの初めてだし、私、あんまりメンタル強くなくて。ごめんね、気にかけてくれてありがとう」
「ううん、どういたしまして!」


 コップを受け取るとにっこりと笑った少年につられて私も小さくほほ笑む。私を悪意のある目で見てこなかった少年のお蔭で、先程よりも少しだけ気持ちが楽になった。
 少年が持ってきてくれた水で喉を潤すと、緊張がゆっくりと、少しずつ解れていくようで、思わずほっと息を吐いた。そんな私の様子に、少年は首を傾げる。


「お姉さん、別に悪いことしてないんでしょ?」
「うん…」
「じゃあ堂々としてればいいんだよ!」
「だ…だって一人だし、アリバイないから、逮捕されちゃうかなって……」
「あははっ何にもしてないなら捕まらないよ、大丈夫」


 私の言葉に少年は笑うと、おかしそうな顔でそう言った。何故だか少年の言葉にはやけに説得力があって、というか冷静になって考えてみればそうなのだけど、どうやら私は自分で思っていたよりも随分と心細かったらしい。我ながらビックリするほどまともに思考できていなかったようだった。
 それをまさかこんなに小さな少年に気付かされるとは、と顔が赤くなった。これではどちらが大人か分からないな、なんて思いながらも少年にそうだよねえ、と気の抜けた声で返す。私の肩から自然と力が抜けた。
 少年はそれを見てにこにこしながら、私の隣に腰かける。物凄く自然に隣に来られて内心驚いた。これは将来女の子にモテそうだと思いながら少年を眺めていると、少年は会話を続けてくる。お話好きな子なのだろうか。コミュ力も高いときた。将来は安泰ですね、子育て大成功ですよお母さん。


「でもお姉さん、どうして一人なの?」
「一緒に来るはずだった子が風邪引いちゃってね。でもどうしても旅行行きたかったし、一人で来たんだけど。今大後悔中」
「そうなんだあ。ところで、お姉さんがお風呂入る前、休憩スペースの近くって本当に誰もいなかった?」
「ううん…いなかったと思うなあ。……あ、でも、」
「でも?」


 そういえば、と思ったことを口にしようとすると、途端に少年の食いつきが良くなったような気がする。それに少し驚いたものの、けれどそりゃそうだとすぐに思い直した。
 お友達が危ない目にあったんだから、きっとどうにかして犯人を見つけたいのだろう。もしかしたらこの子の好きな女の子が襲われたのかもしれない。


「ほら、あの小太りの人いるでしょう。あの人とすれ違いになったと思うよ。背中しか見てないんだけど」


 もっと正確に言えばあの人に憑いてる女の子の背中を視たのだけど、四六時中泣きながらくっついているからあの人もいたと見て間違いないだろう。帰りたい帰りたいと泣いていたから、見掛けると印象に残りやすい。
 しかしあの人は一体あの女の子に何をしたんだろう。いや、まああの子の様子から薄っすらと察してはいるのだけど、通りがかっただけで憑かれちゃうパターンもあるにはあるから、決めつけるのは良くない。
 とにかくあの子があそこにいたのだから、あの人もあそこにいたのは間違いないと思う。
 ただ悲しいことにあちらは私の姿をみていないから、私のアリバイは結局証明できないのだけど。これでは私が彼のアリバイを証明しただけだ。残念過ぎる。声でもかければよかったのだろうか。
 けれど私の言葉に何かしら思うところがあったのか、少年はにこにこ顔から一転、真剣な表情で何かを呟くと、満足したように私を見上げて再びにっこりする。よく分からないが、少年が求めるものがあったなら良かったと、私もにっこりした。


「教えてくれてありがとう、お姉さん。そうだ、一人が不安なら僕の友達と一緒にいなよ。ね?」
「でも、そこまでしてもらうのは申し訳ないし…」
「大丈夫だよ。さっきのお姉さん見てみんな心配してたんだ」
「本当?じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな…」


 勿論、としっかり頷いた少年に連れられて、私は彼のお友達の輪の中に入れてもらった。優しそうなおじいさんも一緒だ。
 彼らに挨拶をすると、心配そうな顔で大丈夫かと気遣われてしまった。挙動不審に加えて、相当顔色が悪かったらしい。苦笑をしながら頷くと、良かったと随分喜ばれた。眼鏡の少年の社交辞令ではなく、本当に心配してくれていた様だ。襲われたのはこの子達の中のひとりだと聞いている。自分たちも大変だったろうに、なんていい子たちなのだろう。
 心配してくれてありがとうねと黒髪の少女の頭を撫でると嬉しそうに見上げられて、つられて私も笑った。



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