安室さんは最後にここで話したことは他言無用、できれば内容も全て忘れて何も知らなかったことにするようにと固い声で私に告げると、静かに通話を切った。それきりもの言わぬ板と化したスマホを見下ろしながら、私は未だ言葉もなく呆然としている。頭を鈍器か何かで強めにがつんと殴られたような気分だ。私にとって安室さんの言葉はそれほどの衝撃を与えるものだった。
 でも考えてもみてほしい。これは言い訳以外の何ものでもないが、私にはそもそも誰かが死んで悲しいと思う概念が存在しないのだ。自分が死にたくないという思いこそあれど、相手に生きていて欲しいという切望など生まれてから一度だって持ったことがなかった。
 だってさあ、何を悲しめばいいのだろう。私にはどちらの状態だろうがそう大きな違いがあるようには思えない。死んでようが生きてようが、どちらだって私には変わらず見えるのだ。私から触れられるか否か、話がまともに通じるかの違いはあるものの、それ以外にと言われると他はさして変わりない。流石に生きている人間に殺されかけた経験はないから命の危機があるか否かも挙げてもいいかもしれないけれど、そもそも今までが偶然そういう目に合わなかったというだけで、生きてたって話が通じない人間もいれば相手を殺そうとする人間だっている。そこに違いはありやしない。
 だから本当のところを言うと、これだけ常日頃から死というものに触れているにも拘わらず、私の生死についての認識というのはとても薄いのだと思う。そして自分がそんな調子だから、つい忘れてしまうのだ。それが私以外の大多数にとっては普通ではないということを。

 人間という生き物は自分を基準にして考えるものだ。それは誰だってそうだろう。自分が経験していないことを想像するのには限界がある。自分以外の誰かを基準にするのは例えどれほど頭のいい人間でも難しいはずだ。どこかで必ず自分の基準が入り込む。何故なら誰もに等しく個があり、感情があり、経験があるから。
 そして私もまた、少し様子の可笑しいところはあれど人間であった。それが意味するところはつまり、私という人間の基準は「少し様子の可笑しい自分」であるということだ。どれほど他人を観察していようと、凡そ普通と言われるような思考行動をトレースしようと、根っこの部分ががっかりするほど別なのだ。基礎の組み立てが私と他ではそもそも違う。だからこうしてどこかで必ずボロが出てしまう。悲しいことに。
 自分の中に全くない価値観を憚るのは難しい。だって全くないから、指摘されるまでは思い当たりもできない。そうして今の私のように、自分が思いもよらないところで人を傷付けることになる。自分がそうだからって他人も同じだとは限らないのだと、そんな当たり前のことに傷付けてから気付くばかりだ。まったく良い教訓である。できれば失敗する前に気付きたいものだが、土台無理な話だろう。
 幽霊が見えるということが気持ちの悪いものである、と私が知っていたのは今までの人生で散々失敗して学んできたからだ。周りの人間にそう教えられてきて、だから私の中にはなかった「他人の基準」というものができた。これは私の積み上げてきた失敗の形だ。
 しかし当然ながら、幽霊が見えることを前提にして誰かと話をしたことはない。つまりこの点に関しては学ぶ機会なんてものはなかったのである。認識の齟齬の原因はそこだ。
 初めてのことは誰だって失敗する、だから私は悪くないと言えたらどれだけ楽だろう。だけどその失敗の相手はよりにもよって安室さんなのだから、責任を放棄することは憚られた。他の誰に不誠実に生きていたとしても、安室さんにだけは精一杯誠実でいたい。どれほど信用ならなくとも、胸を張ってあなたが好きだと言える自分でいたかった。本当に人生というものはままならない。
 ───生きているのかと聞いてきた安室さんの悲痛な声が、今もまだ鮮明に耳に残っている。


「どうして私なんだろう」


 悲劇のヒロインぶるのは嫌だった。可哀想な自分を認めたくなくて、悲惨な人生から目を背けたくて。生きていて幾度となく考えかけては目をつぶって見ないふりして放置してきた疑問を今、私は初めて自分以外の誰かのために考えた。
 どうして幽霊が視えるのが他の誰でもなく私なのだろう。どうして大切な人を失って悲しむ人に彼らは視えないのだろう。そんなこといくら考えたって分かるはずもないけれど、考えずにはいられない。
 だって理不尽だ、こんなの。私みたいな奴が苦しみながら持つよりも死んでしまった大切な人に会いたいと切望する誰かが持っていた方がよっぽどいいはずだ。それで救われるものだってきっとある。なのに現実はどうだ。私は見たくもないものを見続け、失われた大切な誰かを切望する人の目には何も写らない。
 どれだけ私が考えたところで、どれだけ私が願ったところで。安室さんにはきっとどんなに頑張ったってあの男を視ることはできないだろう。目の前にいても、言葉をかけられていても。互いを強く思い合い、どれほど慈しんでいたとしても。その視線が交わることは二度とないのだ。


「どうして、」


 変わらず答えは出ないまま。私はどうしようもない感情がこれ以上外に飛び出してしまわないように両手で顔を覆って、絶望を深い深いため息に乗せて吐きだした。


『どうしようもないことを考えることほど無駄なことはない』


 突如として落とされたその声に弾かれたようにしてぱっと顔を上げる。何故という思いが強かった。視線の先、私の正面には今も尚あの男がいる。安室さんに伝えることを伝えたのだから、前回までと同様用済みと言わんばかりにとっくにいなくなったのだと思っていたのに。まだここに留まり、あまつさえ私の言葉に返すようなことを言うなど、一体この男は何をしているんだろう。
 私の事情が安室さんや組織とやらに多少なりとも関係することは確かだが、男にとってはさして重要なことでもないはずだ。だというのに未だ男がここに存在していることに違和感しかない。
 というかどの面下げて私の前に居続けてんだ。私の対応がまずかったことは否めないが、そもそも考えてみれば安室さんが悲しんでいるのはこいつのせいなのだ。ぎっと睨みつけながら男の様子を窺う。何があってもいい様に距離はとった。万が一男が突然動き出しても玄関までダッシュするくらいのことはできるはずだ。
 警戒を緩めないままに無言で男を観察する。安室さんにとって大切な相手であったとしても、それは私がこの男を信用する理由にはならない。自身を睨み続ける私をじっと見ていた男は、目をすっと細めるとぽつりと呟く。


『随分生き辛そうだ』


 ほとんど独り言の様にそう言うと、男はそのまま私の返事など待ちもせずに瞬きの間にふと消えた。まるで最初から何もなかったかのように、そこに男がいたという証拠など何ひとつ残ってはおらず、見慣れた私の部屋があるばかりだ。
 しんと静まり返る部屋にただひとり取り残されて、音が消える直前の言葉ばかりが頭の中で繰り返される。

 生き辛そう、と。男が零したそれを口の中で転がしてみる。私の言葉に反応して私の目の前でそう言ったのだから、普通に考えれば私に向けてそう言ったのだろうと思うけれど。
 だけどなんとなく。私への言葉ではないような気がした。
 あれは誰に向けての言葉だったのだろう。



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