追いたくとも手がかりのひとつもなかった謎の人物が今まさに私の前にいると知った安室さんは、電話の向こうで微かに驚いたようだった。それもそうだろう。安室さんに話を持ち掛けられたのは昨日のことだ。きっとこんなに早く事態が進展するとは思っていなかったのだろう。私だってこんなことになるだなんて思っていなかったからその気持ちはよく分かった。本当に申し訳ない。朝っぱらから唐突に困らせてしまっている事実に着々と胃を痛くしつつも、私は小さく呼吸をしてから言葉を続ける。


「安室さんにお伝えしたい情報があると」
「その前に、名前さんは今どこにいるんですか?僕もそちらに向かいますから、」
「お、お答えできません」


 咄嗟にそう言った私に安室さんは困惑したようだ。だけど安室さんがここに来るのはまずい。非常にまずい。いくら不可抗力だと腹をくくったからと言っても目の前で幽霊と話す不気味なところなんて他の人に見せられるはずがないし、下手を踏んで安室さんの為になるかもしれない男の情報を私の戯言だと思われても困る。それでは私がやることに意味がなくなってしまう。
 安室さんに一番早く正確に情報を受け取ってもらうには、私以外に「情報を提供してくる人物がいる」と思われる必要があった。余計かつ無駄なことを考えさせることもできるならば避けたい。だから電話なのだ。相手から姿が見えないのは都合が良い。
 しかしそんな私の思惑は傍から見たら意味不明なものでしかないだろう。実際私の言葉に安室さんは怪訝そうな声を出した。


「……男の正体が分かったんですか?二人でいても安全であるという確証が?」
「いいえ」
「………では、電話を代わってください。僕が直接話します」
「できません」
「それは何故?」
「教えられません」
「何も話せないと?」
「はい」


 安室さんにここまで毅然とした態度で答えるのは初めてのことだった。心臓に悪い。けれどやめるわけにもいかなくて、せめて心が折れない様に背筋に力を入れた。大丈夫。だって私は悪いことなんてひとつもしていないのだから。
 それにしたって不審すぎるのは否めないのだけど。我ながら怪しいにもほどがある。分かっているとも。言っている本人ですらやべえなと思うのだから、頭の良い安室さんが思わないわけがない。私がこんなことを言われる立場だったらふざけるなと言って思いきり電話をぶち切るところだ。きっと安室さんも声にその苛立ちを乗せていないだけで、内心では不信感を募らせているに違いなかった。
 だけど私にはこうすることしかできないのだ。コナン君や安室さんのように頭が良ければもっとスマートにできたのかもしれない。あるいは私がもっと強ければ、人目も評価も気にせず生きられればこんなにまだるっこしいことをしなくたって良かっただろう。
 けれど私は私でしかない。私は特別にはなれない。できることは限られていて、その範囲で足掻くしかなかった。その足掻きが例えどんなに怪しかったとしても、それしかできないのならばやるという選択肢しか私には残されていない。それでもせめて誠意が伝わるように、静かに言葉を紡ぐ。


「でもきっと安室さんに必要なものです。見返りを求めることはしませんし、他に口外もしません。伝えたことをどうするかは安室さんに一任します。あなたが困ることは絶対にしません」


 その言葉のなんと薄っぺらいことだろう。絶対なんて言葉、私は少しも信じていないし安室さんだってきっとそうだ。男の言葉から読み取れる程度のうっすらとした認識しかないが、きっと安室さんの置かれる立場は複雑かつややこしいものだ。こんな言葉一つで信用してもらえるとは思っていない。けれどそれで構わなかった。私はもちろん、男だって最初から渡す情報の全てを信じてもらえるとは思っていないに違いない。なんせこんな状況なのだから、信じてもらうにはこうした情報を何度も渡していく他ないだろう。
 しかし私の予測をよそに、安室さんはほんの数秒の沈黙の後にいいでしょうと軽やかに了承の言葉を返した。あまりにぽんと返事が返ってきたものだから驚いてしまう。私が言うのもなんだが、本当にいいのだろうか。もう少しくらい考えた方がいいのでは、いや、安室さんがいいと言うのだからいいのだろうけれど。だって安室さんだ。私が考えもしないようなところから、結論を導くための何かを得たに違いない。流石は安室さんである。
 いつの間にか私の隣に移動してきていた男にも安室さんのその声は聞こえていたようで、男はひとつ頷くと私が復唱しやすい様にだろうか、昨日とは違い少しゆったりとした口調で話し始める。だから私も男が伝える言葉をそっくりそのまま安室さんに伝えた。文句を言われないということはきっとこれであっているのだろう。素直に男に従うのは些か屈辱的だったが、安室さんの為だとその感情を飲み込んだ。

 男の言葉を繰り返す中でひとつだけ私にも明確に分かったことがある。どうやら男の言葉にはそれそのままの意味で使われているものは少なく、恐らく何らかの隠語が使われているようだということだ。同じことをそのまま繰り返して言っているはずなのに、男の言葉が何を意味しているのか私には少しも理解できなかった。私からすれば関係のない単語が並んでいるだけのようにしか聞こえないが、しかし安室さんはそれを正確に理解しているらしい。電話口ではっと息を呑むと、それきり私の言葉が途切れるまで静かに聞いていた。
 一方的に話し続けるのはそれなりに疲れる。体感にすると随分長く感じたが、報告は恐らく十分程で終了した。これをきっとあと何十回と繰り返すことになるのだろう。安室さんがどの段階で男の情報を完全に信用するようになるかは私には全く分からないが、これで安室さんの状況が少しでも良くなればいいなと能天気に考えた。そうすれば私もきっと少しは救われる。


「ええと……今伝えられることは以上みたいです」


 男が完全に沈黙すると、私はどう言葉を切り出せばいいのか少し迷って、それから恐る恐るそう口にした。安室さんも電話の向こうで重たい沈黙を続けている。物音ひとつしない。とても気まずい空気が流れた様に感じた。疑っているのだろうか。何か不都合なことでもあったのか。それともただ考え込んでいるだけなのか。
 沈黙に耐え切れずどうしようと私がおろおろし始めたところで、安室さんが小さく息を吸う音を微かに拾った。


「………どうして、と聞きたいところですけど。どうせそれも教えてはくれないんですよね」
「…す、すみません」
「でも、あなたになら聞いてもいいですか?」


 安室さんは一呼吸置くと、いつもの彼からは想像できないほどに小さくか細い声で呟く。


「………生きて、いるんですか?」


 その言葉に、今度は私が息を呑んだ。咄嗟に返事をすることができず、電話口には再び気まずい沈黙が広がる。早く何かを言わなくてはと頭では理解しているものの、けれどそれに反して口は少しだって動こうとはしない。
 だって安室さんのその言葉には、隠し切れないほどの悲嘆が滲んでいた。信じられない。あり得ない。分かっている、だけど、それでももしかしたら。そんな淡い期待も僅かに含まれていたと思う。
 それの意味するところを私は分かってしまった。よくよく、理解してしまった。
 この男が安室さんにとってどれほど大切な存在であったのか、私はまさにこの瞬間、知ってしまったのだ。

 全ての元凶であるあの男は、安室さんに執着している。それは知っていた。だってあれは安室さんの為だけに私を嵌めて、安室さんの為だけに私を利用しているのだから。男にとって安室さんがどれだけ重要な人物であったのかは想像に難くない。
 けれどどうやら安室さんにとってもまた、男の存在は重要なものであったらしい。その認識が私からはすっぽりと抜け落ちていたが、よく考えてみれば当たり前だ。片方だけがそんなに大きな感情を寄せるだなんて、ストーカーでもない限りあまり考えにくい。私には男が安室さんへ向ける感情しか見えていなかったけど、この様子だときっと二人はとても仲の良い友人だったのだろう。だから男は安室さんを生かそうと必死になっていて、安室さんは多分、男の死を認めたくない。
 人の思いは決して一方通行ではない。そんな当たり前のことに、この時私はようやく気付いた。
 そして、普通はそんな大切な人が死んだら多分、もう一度会いたいと願うのだ。そんな相手のひとりもいない私は、こうして目の当たりにするまでその事実にまるで思い至らなかった。
 安室さんにとってこの男はきっと唯一無二の存在なのだろう。私にとっての安室さんがそうであるのと同じように。そんなことにも気付けなかった。
 男に言われるまま行動した私は、男のことを勘付いた安室さんの気持ちなんてひとつも慮ることなどなかった。安室さんには決して見せられない男。安室さんは決して見ることができない男。そんな男の存在をにおわせて、安室さんが何を思うかなんて私は、少しも考えやしなかった。
 どうしよう、と思った。生きていますよと言うのは簡単だった。というか当初の計画ではそのつもりでいたのだし。だってどうせ電話越しでは電話の向こうの相手が生きているのか死んでいるのかなんてわかりっこないのだから、話がスムーズに進む方がいい。それにほら。億が一の確率で何らかの奇跡が起きて、もしかしたらまだ安室さんに私の秘密を知られないこともあるかもしれないじゃないか。
 私にとって、もしかしたら安室さんにとっても、都合が悪かったのはその「電話の向こうにいる男」の正体に安室さんが思い至ってしまったことだ。

 生きていると口先だけでも伝えたらどうだろう。それは大切なものを失った安室さんにとって、僅かなりとも救いになるのではないだろうか。だって多分、誰だって大切な人には死んでほしくなくて、だから生きていると言われたらきっと嬉しいはずだ。私には分からない感覚だけれど、多分そう。それならば、安室さんに喜んでもらえるならば、そう言うのだってやぶさかではない。
 だけどどうやらそれはできそうになかった。安室さんのあんな声を聞いて、そんな残酷な嘘を言えるほど私は非人間にはなれない。生きているだなんて言ったが最後、私はきっとこの人を喜ばせるどころか傷つけることになってしまう。それはできない。私には無理だ。けれど死んでいると伝えてもきっと、この人は傷付くのだろう。
 ああ、どうしたってもう遅い。私は多分、伝え方を間違えた。


「………私の目の前にいるのは確かです」


 否定も肯定もできないまま苦し紛れにそういうと、安室さんは少しだけ息を詰まらせて、それから静かに静かに、そうですかと言った。



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