目が覚める。カーテンの隙間から除く日の光が、朝の訪れをそっと主張していた。ゆっくりと起き上がって顔にかかる髪をかき上げる。そのまま無言で深呼吸してみた。いつもと同じ朝。変わらない空気。それでも何かが違った。
 ベッドから抜け出して冷たいフローリングの上をぺたぺたと歩く。数歩行けばすぐ壁にぶち当たってしまう程度の狭い部屋だから、目的の場所にだってすぐに着いた。蛇口をひねって勢いよく水を出す。豪快に音を立てながら流れていく水をしばらく眺めて、それから優しく両手で受け止めた。すぐに掌いっぱいに溜まった水に顔を浸すと僅かに残っていた眠気がすっとどこかに消えていくのを感じた。

 朝だ。朝である。新しい朝がやってきてしまっている。希望の朝なのかはまだ分からない。どちらかと言えば絶望の方がふさわしい気がする憂鬱な朝である。なんてこった、朝だ。


「んあぁ〜〜〜………………」


 私はその場で項垂れて濡れた両手で顔を覆い隠す。鏡なんて見なくとも目元が腫れぼったくなっていることがよく分かった。目じりに渇いた涙の形跡が見られるのが恥ずかしい。
 そう、恥ずかしい。この一言に尽きた。シンプルに恥。すげえ恥ずかしい。昨日の自分の行動の全てが今の自分にとっては恥でしかなかった。出来ることなら忘れたい。でも真新しすぎて頭が忘れてくれない。なんてこった。
 いや、嬉しいこともあった。あったよ。あったのだが、それと同じくらいやらかしてるから素直に喜ぶことができないのだ。内心が複雑すぎて接触事故を起こしている。でも全部ひっくるめて言うなればやっぱり恥というのが一番しっくりきた。
 今の私の心境は所謂賢者タイムだ。出すもん出してすっきりしたから、さながら賢者の如く頭の中が冴え渡ってしまっている状態だ。昨日はびっくりするほどポンコツだった私の頭もこれこの通り鋭く研ぎ澄まされている。まあそのせいで昨日のことを鮮明に思い出してしまっているのだけど。
 頭の中をぐるぐると何度も巡るのは昨日の一連の事件のことだけだ。安室さんのこととか幽霊のこととかうっかり自殺しかけたこととか、色々あったけどやっぱり一番はコナン君とのことだろう。つまるところ、血縁関係でもない赤の他人の小学生男児に縋るようにぎゃん泣きする成人女性のあれこれである。
 ───控えめに言っても事案なのでは?

 冷静な頭でそう導き出すと、誰が見ているわけでもないのにぶわっと冷や汗が湧き出た。冷静な小学生男児の前で唐突に泣き出す成人女性。字面だけでもやばい。やばすぎる。幽霊が視えるとか言っちゃうやつとまた別のベクトルで危ねえ奴になっている。
 しかも慰めてもらってるのに託けて全力で甘えに行ってる。じゃなきゃ臆面もなく小学生男児の前で成人した大人が泣くわけもない。こんなのどう見てもショタコンです本当にありがとうございます。いや違う、違うんです、そんなつもりは。誰にも届かない言い訳を頭の中で繰り返すが無駄でしかない、なんせ届かないので。
 それにしても、あんなことをしておいてよく通報されなかったものだと思う。本当に。直前の自分の行動を振り返ると我ながら頭おかしいやつにしか見えないんだけど、奇跡か?周りに誰もいなかったのだろうか。もしも私がそんな場面を見掛けたらドン引きの後に様子を見て通報の一択しかない。それほどまでにアウトな光景だ。
 いや、そういえばあの眼鏡の彼はあの時も近くにいたのでは。いないといいなとは思うけど十中八九いたよなあ、だって直前まで話してたし、どこにも行ってくれそうにないから私が移動しようと思ったんだし。コナン君との話は聞かれたかな。あれだけじゃ何の話してるかは分からないと思うけど、あれで変に勘付かれてたら厄介だ。
 ていうかそもそも私、コナン君とはどうやって別れたんだったか。今朝家のベッドで目を覚ましたんだから自力で帰ってきたんだろうとは思うが記憶が曖昧すぎる。まさか泣きながら帰ってきたのだろうか。コナン君に送ってもらったなんてことはないだろうな。小学生に引率される大号泣成人女性なんて絵面まず許されないぞ。しかもその挙句泣き疲れて寝落ちとか、幼児かよ。いい加減にしてほしい。
 思い返せば思い返すだけ駄目すぎた。どう贔屓目に見ても駄目なところしか見つからない。どうして私はあそこであんなことをしてしまったの?冷静になった今あの時の自分に言えるのはこれしかない。今の私があの瞬間の私に会えるならばとにかく落ち着けと張り手をかますところだ。動揺して混乱してわけわからなくなりすぎている。世界で一番不幸で可哀想なあたしムーブに酔いしれている成人女性のなんとキツイことか。悲劇のヒロイン面して勝手に絶望して勝手に救われてどんな気持ち?ねえ今どんな気持ち?
 ぐおおと唸りながらその場にうずくまるが行き場のない感情が渦巻いて止まらない。後悔と羞恥でいっぱいで無理。助けてほしい。どう足掻いても黒歴史爆誕である。白いところを探す方が難しい私の人生がまた黒く染まってしまった。なんてかわいそうな人生。
 いや、救われた。救われたよ。あの時私がコナン君に救ってもらったのは確かだ。それは決して間違いではない。本当に、奇跡のような救いをもらった。
 もらったんだけどね。それとこれとは話が違うというか。救われた上に更にあれこれ言うのは私だってやめたい、やめたいんだけどもっと、こう、ああ……。
 恥ずかしすぎてしばらくはコナン君と顔を合わせられそうにない。というか次に会った時にどういう顔をしていればいいんだろう。分からない。今までだったらその日のうちに夜逃げの様にして関係を絶ってきたから、こんな時どうすればいいのか少しも分からない。
 だって受け入れてもらえたのなんて初めてで、昨日までは私の秘密を知ってしまった人にまた会うことなんてないと思っていた。誰かに秘密を握られたまま同じ場所になんていれなかった。なのに今はそうじゃない。逃げなくていいと言われた。私達には次がある。次があるのだ。
 普通にできる自信はあまりない。というか今から不自然になる気しかしなかった。呆れた目で私を見るコナン君が容易に想像できる。だけどそれがなんだか嬉しいような、むず痒いような、不思議な感覚だった。

 胸の内に混ざり合う感情を持て余しながら、私は床から起き上がる。このままいつまでだって蹲っていられそうだったけど、しかし生憎そうもしていられなかった。
 考えなくてはいけないことも、やらなくてはいけないことも沢山ある。それは私がどうなろうが変わることはない現実だ。時間は有限で、待ってはくれない。名残惜しくとも、そろそろ動きださなければならないだろう。
 だってあの状況で私は死ななかった。ついでに心に致命傷を負ったけど、それ以上の救いも得た。
 胸一杯に溢れるこの気持ちの名はきっと満足というのだろう。生きていて初めて心が満たされていた。だからきっと、今だけは、私に怖いものはなかった。幽霊も、あれが言ってたやばい組織というのも、安室さんに会えなくなってしまうことも、もう恐くはないのだ。会えなくなってしまったとしても、それはこの世の終わりではない。
 だって、私はそれでもいいのだと、言ってもらえたのだから。
 すうと一度、息を大きく吸った。肺いっぱいに酸素を取り込んで、ゆっくり吐き出す。
 覚悟を決めよう。どうせ私に選べる道は実質一つしかないのだ。ならばいっそ開き直って、堂々としてしまえ。恐れるものなど何もない。一番怖かったものはコナン君が私の黒歴史と共に持っていってしまった。
 だからもう大丈夫。

 私は顔を上げると、立ち上がってベッドの横に無造作に放られていたスマホを取り上げる。明るくなった画面には昨日安室さんに送ろうと思って作成したままになっていたメールが表示されていた。書いては消して、結局真っ白なままだったものだ。
 私はそれを削除すると、少し考えてから通話のアイコンをタップする。連絡先一覧を軽くスクロールすれば目的の番号はすぐに出てきた。なんせあ行だ。探すまでもない。
 ちらりと時間を確認すると、時刻は既に11時を回っている。この時間帯ならば電話をしても早すぎるということはないだろう。少なくとも非常識な時間ではないはずだ。
 緊張で逸る心臓をそのままに、私は彼の番号を押した。繋がるまでの時間がやけに長く感じたが、きっと実際は数秒しか経っていないだろう。数回のコール音の後、はいと優しげな声が鼓膜を震わせる。機会越しの彼の声はいつもと少し違って聞こえた。
 私は安室さんに気付かれないようにもう一度、深く呼吸をしてから口を開く。


「突然すみません、今お時間大丈夫ですか?昨日の件で、ええ。はい、今、……」


 そこまで言って言葉が途切れた。私がその先を言うことを躊躇していることに気が付いた安室さんは、穏やかな声でどうしました?と聞いてくる。
 温かな声色に一瞬、なんでもないですと言いかけた。多分、止めるならばこれが最後のチャンスなんだろうな、なんて思ってしまったのだ。話しながら視線を上げる。間違えましたと言うならば今だ。
 けれどそれをぐっと飲み込む。飲み込んで、彼が待っているであろう本題を切り出した。


「───今、その人と一緒にいます」


 私の視線の先には、あの男が立っている。



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