光に手が触れると思った瞬間、身体がぐんと後ろに引かれた。あまりの力に自分が浮いたようにすら錯覚する。それになんだと思う暇も与えられないまま、後方の地面へと放り投げられた。
 私は突然のことに為す術もなく地に落ちて、勢いよく尻餅をついた。咄嗟に手を付きはしたがそれでも結構な衝撃が全身を襲う。コンクリートに付いた掌も擦ったようで、摩擦でできただろう傷はじくじくとした鈍い痛みを伝えてきた。
 痛い。酷い。一体何だってこんなことになっているのかと憤りを感じながら顔を上げる。そんな私の目の前を、電車が猛スピードで通過していった。
 痛みと状況とに混乱する中、ただただ無言でそれを見送る。電車が切って行った風が容赦なく私の全身に叩きつけられた。その冷たい風に曝されて、次第にはっきりとしてくる頭で、今自分が何をしようとしたのかを理解すると私はさっと顔を青くした。

 伸ばした手の先。眩い光。あれはきっと、間違いなく今私の目の前を猛スピードで通り過ぎて行った電車のものだった。なるほど傍目から見れば、先程の私の姿はどう足掻いても飛び込み自殺志願者に見えたことだろう。
 最悪だ。付け込まれた。瞬時にそう理解する。長年培った私の感がこれは「そういうものである」と告げていた。
 きっとここにはそういう幽霊がいるのだ。弱った人に甘い言葉を囁きかけて殺すような、たちの悪い幽霊が。そういえばこの辺りでよく自殺があるという話を聞いたことがある。それらもきっとあの幽霊がやっているのだろう。人の無意識に語り掛けて、それを自覚しないままに流された人を死へと引き摺り込むやつらの常套手段。なんてことだ、霊的被害において百戦錬磨の私ともあろうものが、こんな手口にころっと逝かされかけるだなんて!
 知ってたのに、普段ならばわき目も振らずに逃げるというのに、まんまと弱っているところを的確に突かれてあのざまというわけだ。馬鹿か私は。馬鹿なのか。馬鹿でしかない。
 大体何が、何が助けてだ。助けてくれる?って喧しいわ!いい年こいて悲劇のヒロイン気取りかよ。まったく寒いにもほどがある。何を夢見ているんだか。誰も助けてくれないことなんて、もうとっくに知っているだろう。
 だからひとりで立つしかないのだ。だからひとりで進むのだ。ありもしない助けを待ち続けるなど、そんなのは時間の無駄でしかない。

 遠くから残念と歌うように言う声とくすくす笑う声が聞こえて、ぎっと歯を食いしばる。悔しかった。あんなのに付け込まれたのも、惑わされたのも。自分の無力さを見せつけられるのはいつだって苦しい。
 唯一あれが粘着質なタイプのそれではなかったのだけが救いだろうか。今しつこくされても逃げられる気は少しもしないから。ずきずきと痛む頭に手を添えてはあと大きくため息を吐きだした。


「死にたかったのですか?」


 そんな私の頭上から突如として声が降ってきて、ばっとそちらに顔を向ける。その声を聴いたことで、ようやく先程誰かに思い切り身体を引かれたことを思い出した。混乱のあまりすっかり忘れてしまっていたが、恐らくその人は目の前で死にそうになっている見ず知らずの私を助けてくれたのだろう。つまりは命の恩人である。
 傍から見れば自殺志願者だったとはいえ、不審に思われただろうかと恐れ半分焦り半分で向けた視線の先にいた人を目にして、私ははたと動きを止めた。そこにいたのは見覚えのある、いつかの眼鏡の男性だった。名前は何だったか。それは忘れてしまったが、会った時のことは鮮明に覚えている。
 彼はそう、ヤバいやつばかり引き付ける疫病神みたいな人だ。安室さんと知り合うきっかけをくれた人。できればもう二度と会いたくなかった人。別にこの人自身に非があるわけではないのだが、好き好んで悪霊の巣窟の権化みたいな人に会いたいとは思わない。
 だけどそういえば、前にあった時よりもなんというか、この人の周囲が落ち着いているような気がする。以前は少し近付いただけでも死にそうなほど強烈なものを放っていたのに、今日はここまで近づかれて声を掛けられるまで彼の存在を気にも留めなかった。ランクが下がったというか。
 相変わらず性質の悪いのを連れているようではあるが、以前会った時ほど周りに悪さを振りまいているタイプのそれではない。たまたまだろうか。今憑けているやつは彼以外のものに興味はないようで、彼の頭をひたすら咀嚼しているだけだ。それはそれで問題だとは思うが、相変わらず彼自身には何も影響はないみたいだから気にする必要はないだろう。
 それより、今はそんなことを考えている場合じゃない。早急にお礼を言ってこの場から離れなければ。自殺未遂だとかで警察を呼ばれでもしたら厄介だし、何よりどんなにこちらが目に入っていなかろうが悪霊を連れているこの人と一緒にいるのは怖い。今は彼以外に興味がないとしても、それがいつ自分に向けられるか分からないのだ。安全に離れられるうちに距離を取った方がいいに決まっている。
 加えて言うならば、今はどうしても一人になりたかった。この人が私の命の恩人であることは間違いないのだが、正直そんなことはどうでもいい。私はこれからのことを考えなくてはいけないのだ。だってまだ、生きているのだから。


「……少し、立ちくらみがして。危ないところを助けていただいてありがとうございました」


 一連の出来事で混乱していた頭もすっかり冷えたようで、先程よりかは余程冷静に今自分がするべきことを挙げられた。冴え渡っているとまでは言えないが、普通に思考できているのだから問題はない。大丈夫だ。もう平気。もう付け込まれたりなどしない。
 弱気になるのもこれで終わりだ。切り替えなければ。起きてしまったことはどうしようもないが、これからのことはどうとでもなるのだから。
 大丈夫、今までだっていくらでもこんなことはあった。こんなことには慣れている。安室さんのことがあったからいつもよりも大げさに動揺してしまっただけで、本当はこんなこと全然平気なのだ。だって今までそうして生きてきた。生きてこれた。だからこれからだって絶対に平気に決まっている。
 私は私ができることをしなければ。そしてそれは、こんなところでいつまでもへたり込んでいることではない。

 ふらふらと身体をよろめかせながら立ち上がると、途中で眼鏡の彼からそっと手を差し出された。しかしそれを首を振ることで断ると、自分の力だけでしっかりとその場に立ってみせる。それからもう大丈夫と言うようににっこり笑って見せたが、彼は眉を顰めるだけでその場を立ち去ろうとはしなかった。
 それでは困ってしまう。早くどこかに行ってほしいのに。一人になりたい。私は一人にならなくてはならないのだ。この人はきっと私がこの後で死なないかが心配なのだろう。私にはもったいないくらいに優しい人。だけど私にそれは必要ない。
 彼がいなくならないのなら自分が場所を移動しようと考えると、私は彼にぺこりと小さく会釈してから踵を返した。引き留められなかったのをいいことにそのまま速足でそこを立ち去ろうとして、しかしその瞬間に進行方向からやってくる小さな影を見つけて足を止める。それはこちらへ向かって全力で駆けてきていた。
 私がしまったと顔を歪めるのと、コナン君が声を上げるのは殆ど同時だった。ああ畜生、何事もなかったかのようにさよならできるだろうか。


「名前さん!昴さん!」
「ああ、来ましたねコナン君」
「大丈夫だった!?今、っはぁ、なんで!」
「お、落ち着いてコナン君」
「どっちがだよ!」


 たたたと駆けてきたコナン君は、息も荒いままに私の手をがっと掴むとぎろりと思い切り睨み付けてきた。あまりの眼力にひえ、と小さく漏らすがコナン君は少しも気にしないまま、冷たい声で屈んでと言い放つ。
 それがあんまり鋭くて有無を言わせないものだから、私は逃げ出すことも忘れてそのまま素直にコナン君の前に屈んだ。そうすることで同じ目線でぱちりと目と目が合う。本当ならばすぐさま視線を避けたいところだが、どうにも逸らすことはできなかった。だってその大きな瞳に怒りは見えども、負の感情は見られなくて。
 何故と息を呑んだ私をよそに、コナン君はゆっくりと小さい子供に言い聞かせるかのような、意図して優しく作ったであろう声で語りかける。その手は逃がさないと言わんばかりに私の肩をがっちりと掴んでいた。


「いい、落ち着いて聞いてね、名前さん。大丈夫だから」
「ええと、何を……」
「いいから聞いて。ちょっと口閉じてて。わかった?」
「はい」


 コナン君のあまりの形相に、言われた通り大人しく口を閉じる。小学生相手に立場が弱すぎるだなんて思わないでいただきたい。黙るのも仕方がないではないか、だってこんなに怒っているみたいなのだから。今は何を言おうが聞いてもらえなさそうだ。
 けれど黙る一方でひたすら不思議ではあった。私にはコナン君がこんな顔でこんなことをする理由が思い当たらない。どうして怒っているのかも、どうしてそんなに懸命そうなのかも、まるで分からなかった。
 だってこの子は知ったのだ、私の秘密を知ってしまったはずなのだ。私は今までこの子が見逃してくれていたことも忘れさせるほどに、決定的な証拠を見せつけてしまったはずだ。恐れられたはずだ。気味悪がられたはずだ。そうに決まっていた。だって、そうでないと可笑しいのだ。だから、そうした感情を私に見せず、今までと変わらないような顔で話しかけてくるコナン君のことが本当に不思議で仕方なかったし、怒る彼がまるで理解できなかった。
 コナン君は私が分かっていないことを見てとると、きゅっと唇を引き結び、それからふと目元を柔らかくさせた。私の肩を掴んでいた手から力が抜かれ、代わりとでも言うかのように優しく擦られる。しかしやはり、私にはコナン君がそうする理由なんかてんで分からなかった。そんな私に言い聞かせるように、コナン君は言葉を紡ぐ。


「僕はね、確かに気になることは調べちゃうし、謎は解明したくなっちゃう性格だけど」
「………?」
「それでも、あなたのそれが気軽に触れていいものでないことは分かるんだよ」


 コナン君が何を言いたいのかが分からなくて首を傾げる。理解が追いつかない。一体何が起きている?
 私の目の前にいるのは本当に小学生なのだろうか。不可解な生き物に思えて仕方がなかった。だって、知らない。私の秘密を知ってなお、こうしてまっすぐ見つめてくる瞳など、知らない。分からない。
 どうしてか顔を上げていられなくてそっと俯く。そんな私をコナン君は許容したようだった。ぽんと慰められるように肩を撫でられる。彼の小さな手のひらの熱がじわじわと私の冷え切った身体を温めた。


「言えないなら言わなくていいんだ。それをあなたが後ろめたく思う必要も、知られることを恐怖する必要もない。だってあなたは何も悪いことはしていないんだから」


 コナン君の言葉にはっと目を見開く。思わず視線を彼に向けると、やはりまっすぐ私を見つめる目があった。


「それでもあなたが望むなら、僕は何も知らないでいるよ。ずっと何も知らないままだ」
「何を……、」
「だから逃げないで。これは逃げることじゃない。逃げなくていいんだ。名前さんは、ここにいていいんだよ」


 私にきちんと理解させるように、コナン君は何度も繰り返して言う。いいんだよ、と。私にちゃんと届く様に根気強く、何度も。
 真摯に、まっすぐに伝えられるそれは、最早疑う必要すらないほどすとんと、私の中へ注がれた。
 コナン君の言葉は理解の遅い私の脳へ届くと、届いたそこからじんわりと広がる。広がったところから熱を持っていくような錯覚すら覚えた。言われたことを二度、三度と頭の中で繰り返すほど、熱はどんどん広がっていく。ゆっくりと、けれど確かに、温かいというより熱いくらいのその熱が私の中にずっとあった孤独を溶かしていくような気がして、自然と身体はふるりと震えた。
 それは。それはもしかしたら、生まれてからずっと、誰かに与えられるのを待っていたかもしれない温もりで。


「───いいの?」
「うん」
「私はきっと頭が可笑しい」
「そっか」
「普通ではないよ」
「そう」
「きっと誰にも理解されない」
「それでも」


 私が言葉を重ねる度にコナン君は仕方がないなとでも言いたげな苦笑でもって応える。それは確かな熱と力強さで、私の胸を貫いた。


「あなたのそれは悪じゃない」


 ぽろりと、頬を熱い滴が転がり落ちた。ひとつ落ちると堰を切ったかのように次々と溢れ出るそれを止める術など私は持たない。折角貰った温もりがなくなってしまうようで酷く惜しいのに、しかしそれでも止めることができないのだ。
 ああ、ああ、なんてことだ。君は。私は。


「名前さん、別に悪いことしてないんでしょ」
「………うん」
「じゃあ堂々としてればいいんだよ。言ったでしょ?」


 いつだったか二人でした、聞き覚えのある会話を繰り返す。そうしてふっと笑みを零したコナン君につられるように、私も涙で滲む視界の中どうにか笑った。もしかしたら笑顔など少しも作れていなかったかもしれないが、けれどきっと私が今までの人生で浮かべたどんな表情よりも幸せそうに見えたに違いない。事実、どんなことがあった時よりも幸せだと思ったのだから。
 ずっと辛かった。ずっと怖くて、ずっと寂しかった。これからだって、いつ何が起きるかわからない恐怖と共に生きていかなければならないし、私の理解者が現れることはきっとないのだ。
 けれどもしかしたら、例えばいつかこの少年と別れることになったとしても、もう私は、辛くはないのかもしれない。だって、それでいいと、言ってもらえたのだ。それだけで良かった。私にはもう、それだけで十分だった。


「………そっか」
「うん」
「そっかあ…………」
「そうだよ」


 否定されてばかりの人生だった。はじめてそれでもいいのだと言ってもらえた。
 例えそれが自分よりずっと年下の男の子の言葉でも、言った本人がいつかそれを忘れてしまおうとも、私はこの時救われた。救われたのだ。
 私の人生は、あってよいのだと。



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