安室さんのこと。男の幽霊のこと。手を引く子供。ぐるぐると頭の中を情報が飛び交っている。一度に色んなことがあったせいで、うまくものが考えられない。ただ、私が色々なことに下手を打ったことだけが事実として手元に残っている。それがたまらなく不快だった。
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。きっと考えなくてはいけないことは沢山あるのに、色んな所に散らかって無造作に積み上げられてどうしても見つけられない。私は何をしていたのだっけ、何をするべきなのだっけ、何がしたかったのだろう。今、何をしなくちゃいけないんだったか。何を考えようとしても、先程の男の言葉が蘇る。私のせい。私のせいで安室さんが死ぬ。なんて勝手な言葉だ。ああだけど、気持ちが悪い。吐いてしまいそうだった。掌で額を押さえつける。それに意味など何もなかった。
 くんと、再び手を引かれたことで我に返る。のろのろとそちらに視線を下ろすと私を見上げ続ける眼鏡越しの丸い目があることに気が付いて、それで漸くコナン君を無視する形になっていたことに思い至った。慌ててコナン君と視線を合わせるようにして屈むと、こんばんは、と取って付けた挨拶を今更吐き出す。取り繕っている感が拭えない、何ともわざとらしい行動であると自分でも思った。


「うん、こんばんは名前さん。疲れた顔してるけど、大丈夫?」
「ああ……うん。平気平気。大人なんてね、子供と比べたらくたびれて見えるものだから」


 不可解そうというよりは、心配そうに私の顔を覗き込むコナン君にどうにかへらへらとした笑みで返すと、眉を寄せられてしまう。子供にそんな顔をされるほど分かりやすいのだろうか。いや、確かに相当酷い顔をしていることは想像に難くないけれど。
 そんなことよりもだ。先程のあれは、この子に見られてしまっただろうか。そう、私は何よりもまずこのことを気にしなくてはいけなかったはずだ。そうだ、そうだった。徐々に脳みそが正気を取り戻して、ゆっくりと稼働を始めた様だ。頼りにならない頭である。今はいつも以上にしっかりしなくてはいけないというのに。私を守れるのは私しかいないのだから。

 確率で言えば、コナン君に一人で話しているのを見られた可能性は高い。いくら暗いとはいえ開けた道で一人で話していれば嫌でも目に入る。それでも近付かなければ電話をしているのだと誤魔化すこともできるが、コナン君はこうして私の手に触れられるまでの距離まで来ていた。その手に携帯が握られていないことはきっとばれてしまっている。
 しかし幸い、今のコナン君の関心は私の顔面にあるようだった。ならば早急に話を逸らさなくては。コナン君はまだ何か言いたそうな顔をしているが、なるべく早くこの話題から離れたいし、この場所にもあまり長くは留まっていたくなかった。
 私は無理矢理話題を変えようと視線を彷徨わせて、ふと彼の背後に目を向けた。私達から10メートルほど離れたところには歩美ちゃん達がいる。楽しそうな笑い声と犬の鳴き声も聞こえるので、その辺りの家で飼っている犬と戯れでもしているのだろう。全員が楽しそうに笑っているのを見て、よい話題を見つけたと私は彼らの話を切り出した。


「それよりさ、あの人が前に歩美ちゃん達が言ってたお友達?思ったより歳は離れてるみたいだけど、随分仲が良いんだね。凄く楽しそう」
「え?」
「ていうか本当に綺麗な銀髪。目の色も違うんだっけ?流石にここからだと見えないなあ」
「………」


 コナン君が繋いだままになっていた手を再度控えめに引く。どうしたのだろうとそちらに視線をやると、コナン君は何とも言えない顔をして私の目を見つめていた。
 おかしいな。無難な話題を出したと思ったのだけど、何故何も答えてくれないのだろう。コナン君だけはあの人と友達じゃないとか?いや、あの子たちはそんな仲間はずれみたいなことをするようなタイプではないし、コナン君も物怖じせずに他人とコミュニケーションをとっていくタイプだからきっと違う。では一体どんな理由があって彼はこんな顔をしているのか。
 私が首を傾げると、コナン君は少し迷うように口を開閉し、けれどすぐに意を決したような目で私をまっすぐに見据えて言った。


「いないよ」
「え?」
「あそこには元太と光彦と歩美しかいないよ。その人は、いない。少し前に亡くなってる」


 その言葉を聞いて、呼吸をするのを忘れる。次いで、すぐにその意味を理解すると、ざっと顔から血の気が引いていった。亡くなっている。それの意味するところはつまり。

 やらかした。またやってしまった。まさかこうも立て続けに、同じ失敗を。ええと、ええと、何が、どうして。頭が働いていないにもほどがある。だってあの子たちが話してたから、ついこの間のことだったから、いいや、そんなことは今はどうでも良くて。
 ああ、駄目だ、駄目だ、致命的だ。言い逃れなどできるはずがない。この状況から誤魔化す方法など知らない。分からない。駄目だ。逃げないと、何かを言われてしまう前に、ここから早く逃げないと。どくどくと心臓が嫌な音を立てて鳴っている。吐き気は今やピークに達していた。
 私は繋いでいた手を力任せにばっと振り払って立ち上がる。急に動いたせいでくらりとしたが、そんなことにかまけている余裕はない。一歩足を後ろに引いて、しかし辛うじてコナン君がいるであろう方向へとぼそりと呟く。顔なんて見られるはずがなかった。


「ごめん、」
「まっ……名前さん!」


 一言言うや否や走り出した。名を呼ばれたが、それに振り返ったりなんてできない。そんな恐ろしいことをする勇気は持ち合わせていなかったし、そうすることで突きつけられる現実に耐えきれるほどの強さも私は持っていなかった。
 私には逃げることしかできない。今までずっとそうだったように。

 走った。走って、走って、誰にも私が脅かされない場所に行きたかった。目はかすんで、息は切れて苦しい。それでも足を止めることだけはしたくなかった。ただがむしゃらに安穏の地を求めた。
 ここから早く逃げなくては、と。
 頭の中にはもうそれだけしかない。何をするのも後回しだ。もうここにはいられないという事実だけが私を追い詰めてくる。
 ここにいることはできない。ならば逃げなくては。どこか遠くに。誰も私を知らないところに。心の底から安心できるところに!
 でも、そんなところ、一体どこにあるというの。

 そう考えた途端、足がずんと重くなる。まるで重しでも付けられたみたいに上手く足を動かせなくなった。
 逃げるなど、できるはずがない。だって行く場所のあてすらないのだから。それでも少しでも遠くに行きたくて懸命に足を動かすけれど、ぴたりと止まってしまうまでにそう時間はかからなかった。逃げるだなんて笑ってしまう。どうせどこに逃げたところで、同じことを繰り返すだけだと分かっているのに。
 進む先を見失った足を再び進めることもままならず俯く私の隣を、突風と共に電車がガタンガタンと音を立てて通り過ぎて行った。カンカンカンと響く踏切の音も近い。視線だけをそちらに動かせば、暗い中ぼんやりと線路が浮かんでいるのが辛うじて見て取れる。がむしゃらに走って、いつの間にかこんなところまで来ていたらしい。
 いっそ電車でどこか遠いところにでも行ってしまおうか。それがなんの意味もない行為だと、分かってはいるけれど。
 浮かんだ馬鹿らしい考えにはっと鼻で笑う。そんなことをしたってどうしようもない。どうすることもできない。ぎゅっと目に力を入れて、両手で顔を覆った。そうでもしないとみっともなく泣き出してしまいそうだった。怖い。苦しい。辛い。つらい。つらい。襲い掛かる現実が、恐ろしい。
 何もせずとも頭の中はぐるぐると忙しなくこの僅か1時間の事を繰り返し再生してくる。それが不快で、何より怖くて、何も考えなくていいように顔を覆った手に力を入れて、爪を立てる。この不安をかき消してくれるのならば、痛い方が百倍はマシだった。ぎちぎちと、額に、頬に、爪が食い込む。痛い。痛い。痛い。誰か。誰が。


『可哀想に。つらいのね?』


 鈴のなるような可愛らしい声が聞こえた。知らない声だ。誰だろう。さっきまで誰もいなかったはずだ。その上まるで背後から抱き着かれて耳元で囁かれているような距離で聞こえてくるのだ。こんなのは明らかに可笑しい。少なくとも振り返っても誰もいないし、誰かに抱き着かれてもいなかった。普通の状態ではない。可笑しい。これは可笑しいことだ。
 いや、そうだったっけ。これは可笑しいのだっけ。本当に可笑しかった?可笑しいのは誰だ。可笑しいのは、不可解なのは、他の誰でもなく。
 分からない。分からない。でもそうなの、辛くて、苦しい。何もかもが恐ろしくて怖い。それだけが真実だ。


『誰もあなたを理解してくれない。酷いことばかり言ってあなたをいじめる』


 そう。誰も私のことを分かってくれない。みんなと違う私はみんなの輪に入れない。誰も私を理解しない。私はずっとひとり。ずっとずっとひとり。だけどひとりは嫌だ。ひとりじゃ寂しい。誰かに傍にいて欲しい。誰でもいい。誰でもいいから、私のことをひとりにしないで。ずっと怖いの、ずっと寂しいの。ひとりはいやだ。いやだ。いやだ。
 お願いだから、否定しないで。傍にいて。ただ、それだけでいいから。


『可哀想な子。でも大丈夫。これからは私が一緒にいてあげる。どんなにつらくても苦しくても二人なら寂しくないわ。そうでしょう?』
『だからおいで。こっちにおいで。一緒においで。私とおいで』
『さあさあさあさあ早くおいで。こっちよ、こっち。分かるでしょう?』
『もう何も心配いらないわ、私が一緒だもの。私があなたを助けてあげる。だから安心していいのよ、可哀い子』


 その声に導かれるように止まった足を動かし始める。ふらりふらりとおぼつかないが、確かに前へと進んでいる。私は進む先を見つけたのだ。これでもう怖くない。辛くない。寂しくない。それはとても、幸福で。


「ねえ、私をたすけてくれる?」


 手を伸ばした先には女の人の影。カンカンカンと音がする。彼女の後ろから見えた目が眩む程に眩い光が、私には確かに救いに見えたのだ。



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