「私、実は霊感あるんだよね…」

 みんなも生きてて一度はこの台詞を聞いたことがあるのではないだろうか。
 とっておきの内緒話をするように、どこか得意げに、自分がまるで特別なのだとでも言いたげな顔で、胸を張りながら告げられたことは?誰にも言っちゃだめだよ、あなただから言うんだよと謎の信頼を差し出されたことは?あっ…今そこに……と自分の後ろに意味深な視線を向けられたことは、ないだろうか。
 私はある。まだそう長くない人生だというのに既に3回、それぞれ別の人間にそうカミングアウトされてきた。
 曰く、昔からそういうのに敏感で、視えるのだと。曰く、ほら、あそこにも迷える魂が。少しアンニュイな雰囲気で、特別な自分に酔いしれながら、得意げな顔で霊感があるのだと彼らは囁く。
 そんな彼らに私が思うことといえばひとつだ。他人のふりしたい。これに尽きる。
 できれば関わりたくないというのが素直な気持ちだった。だって無理だ。そんなこと言われても困る。せいぜいだから何?と返すのでいっぱいいっぱいだ。私の手に余るどころの話ではない。幽霊が視えるだと?よくもまあ平気な顔でそんな事が言える。

 しかし、第三者から見れば斯く言う私も結局は彼らと同じ穴の狢なのだろうなと思う。彼らのように口に出したりなんてしないけれど、所謂私も、霊感持ちというやつだった。
 幽霊の類は昔からよく視る。だから幽霊がいるというのはよく知っていた。そんなこと言われても、というのは別に幽霊の存在を否定しているのではない。
 私が否定したいのは彼らのあり方だ。
 幽霊が視えるから、一体なんだというのか。それがどうした。何故そんなことを口にする。それは墓まで持っていくべき秘密ではないの。幽霊が視えることを、まるで特別なことのように自慢げに話す彼らが苦手だった。
 だから自分にも視えていることを棚に上げて、視界の端にちらちら入り込む他の人には視えないそれらを見ないふりして、そういうのが視えると豪語する彼らとは距離をとってきた。少しでも「周りとは違う特別な自分」を演出する香りがしたら、それまでどんなに仲良くしていた相手だったとしても尻尾を巻いて逃げてきた。
 だって、一緒にいたら私まで仲間だと思われる。自分を飾り付けるファッションの様にそれを語る彼らと、昔からこれに苦労し悩んできた自分を、一緒にされたくはない。こちとらお遊びじゃないのである。何より、周囲に引かれるのが嫌だった。
 そう、彼らが本当に幽霊が視えるかどうかはあまり関係ない。全員の目に見えないものを否定するのはとても難しいし、私の視る世界と彼らの視る世界が違っていたとしても、それはおかしい事ではないと思うから。
 問題なのは、そんなことを堂々と言えるというところにある。正気の沙汰じゃない。初めて他人の口からそれを聞いた時はつい「おい正気か?」と心の声を漏らして相手を怒らせたけど、正気を疑うほどに有り得ないと思ったのだ。
 だってこれは、私の最大の秘密だ。

 大体において、聞かれもしないのに自ら霊感があるのだと周りに吹聴する人間のそれは嘘っぱちであると思っていい。いや、探せば稀に本物もいるかもしれないが、しかし概ね思春期の黒歴史だと言っていい。所謂厨二病と呼ばれるものだ。今まで私にカミングアウトしてきたその全員、私と同じものは見えていなかったと認識しているし、一定期間経つとその発言自体すっかり忘れたかの様に振舞っていたことから、本当に視えていたわけではないのだろうなと思っている。
 恐らく10年も経てば過去の自分の発言を思い返して頭を抱えて転げ回ることになるのだろう。霊感があるだなんて、未来の自分を思うならば決して言ってはならない、とんでもなく恐ろしい言葉だと思う。言われた方だって引く。大体ものすごくドン引く。
 そして非常に残念な事に、それはなんと、本当に幽霊が視えていた場合にも適用される反応だった。

 先ほど霊感持ちを自称する人のそれは殆どが嘘であると述べたけれど、結局のところ、真偽はどうであれ、大抵の人間は霊感があるだなんて言われたら引くものだ。どんなに仲が良くても、関係が深くても、血の繋がった肉親だったとしても、そりゃあもうドン引くのが普通なのだ。
 だって視える私ですら、堂々と視えるんです!という人には少し引いてしまうのだから、視えない人たちの反応は推して知るべしというものだ。もっとも、私と他の人とでは少し引くのニュアンスが違うかもしれないけれど。
 でも、ほら、正直さ、引くでしょう。こいつ何言ってるんだって思うでしょう。
 いいんだよ、それが普通だもの。わかるわかる、引くよね。自分に見えないものが視えるなんて言われても怖いよね。そりゃ引くよ。わかる〜。

 つまりだ。下手に霊感があるなんて言った瞬間にもう、やだ〜あの子あんなこと言ってる〜え〜きもいんですけど〜なんて陰でこそこそ言われて、遠巻きにされる道しか残されてはいないのだ。その設定で続けようものならぼっち街道まっしぐらなのは間違いないだろう。
 恐ろしい。なんて恐ろしいんだ。こちらの受ける傷は大きいぞ。私には耐えられない。だからある意味では、それを受け入れようという気概を感じる自称霊感持ちの彼らを、尊敬してはいるのだけど。
 正直、視える私からすれば、自称霊感持ちの彼らが何故好き好んで引かれるようなことを言うのか甚だ疑問である。いいじゃないか視えないならそれで。幸せじゃないか。何故自ら社会から一歩外れようとするのだろう。
 私には想像することしかできないが、視えないが故に憧れてしまうのかな。隣の芝生は青く見えるものだもんね。まあ、そういう気持ちはわからないでもないんだよ。私も視えない人が羨ましいもの。だからこうしていつも視えない人になりきっているわけで、もしかしたら心理的には同じなのかもしれない。私は周りに引かれたくないけど。

 何故ここまで頑なに引かれたくないのかと聞かれれば、答えは実に単純である。ドン引きされることにトラウマがあるからだ。
 私はこの周りにドン引きされるという洗礼を、遡ること4歳の時に経験した。恐らく生まれながらにして霊感が強い人はみんなこのくらいの時期に周りの反応を学ぶのではないだろうか。
 詳しいことは思い出したくもないので割愛するが、幽霊が視えるなんて絶対誰にも言わないぞと決意する程度の出来事はあったのだ。あの時、これは人に言うものなんかではないのだと身を持って教えられた。
 これは得意げになれるものでも、自慢できるものでもないのだと。自分を特別な存在にしてくれるスパイスなんて、そんな可愛らしいものではないのだとあの時、しっかりはっきり忘れられないほどに、脳に刻み込まれたのだ。4歳で。社会って厳しい。

 これは私にとって間違いなく、人生における障害そのものだった。コンプレックスと言っていい。
 生まれてこの方、これにはひたすら苦労をさせられた記憶しかなかった。グロテスクなものを見ては泣き叫び、こちらに害をなそうとする悪霊と化したそれに追いかけられては傷を作り、そしてそんな私を見て周りは冷たい視線を投げかける。これがあっていいことなんて一つもなかった。
 流石に私も地獄なんてものは見たことがないけれど、地獄よりも何よりも一番つらくてしんどいのって多分現世なんじゃないかな、と遠い目で黄昏るくらいには、沢山苦労してきたと自負している。勘弁してほしい。
 痛い子扱いされるのも、気味の悪いものを見る目で見られるのももう懲り懲りだった。巷でよく聞く「幽霊は大人になったら視えなくなる」というそれを信じて今日まで生きてきたけれど、未だその瞬間が訪れる気配もなく、そろそろ心が折れてしまいそうである。本当勘弁して。
 毎年七夕や新年のお参りで今年こそ視えなくなりますようにってお祈りするのも切ないんだけど、やめられないのは希望を捨てきれないからだ。幽霊がいるならそりゃ神様だっている。藁にも縋る思いで手を合わせて、けれど結局次の瞬間にはお化けとこんにちはするのだからやってられないけど。頼むよ神様。
 閑話休題。

 そんなわけだから、たとえ厨二病でも、本当に視えているのだとしても、滅多なことは言わないのが賢い選択であると私は思う。この現代社会において、集団生活から逃れることはできないのだから、そこから弾かれるような行動はとるべきじゃない。
 自分が特別だと思う事は悪い事ではない。私に視えて他の人に視えない何かがいるように、その逆もまたきっとあるのだとも思う。今まで私が嘘だと思って来た彼らにしか視えないものも、あるのかもしれない。一人一人視える世界は違うだろう。
 けれどそれを誰かに言うのが良くないのだ。人は自分と違うものを恐れ、迫害するものだ。一度そう認識されてしまえばもう逃げることはできない。人の口に戸は立てられないという。周りの冷たい目に晒されたくないのならば、そっと口を閉じているのが正しいのだ。
 数えきれない失敗を経て、私は学習した。もう間違えない。
 私は賢く、正しい選択をする。
 幽霊が視えるだなんて絶対に、誰にも、言わない。悟らせない。普通の人になりきって、平凡に、この人生を乗り切るのだ。


『帰りたい、帰りたい。帰りたいよう』


 …間違えない。私は間違えないからな。



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