走ったわけでもないのに息が上手くできない。人はここまで気が高ぶると呼吸の仕方を忘れてしまうらしい。まるで陸に上がって初めて呼吸をした魚のように荒い息を何度も吐き出す。どくどくと血が体中を巡る音が聞こえてくるほどに、全身が怒りに包まれていた。
 20年と少しの人生でこんなにも激しい感情を誰かに向けるのは初めてだ。そう即座に思えるほどに、目の前の男が憎かった。


『気は済んだか?』


 男は自身をきつく睨み付ける私をやれやれとでも言いたげな顔で見下ろしている。私がこうして威嚇したところで男は少しも怖くないのだろう。腹立たしいことに。
 私はぎり、と歯を食いしばって先程男の頬へと振り下ろした掌を睨み付けた。確かに頬へ向けて打ち付けたはずの手には何の感触もない。それが、目の前の男が幽霊であるという、何よりの証拠だった。
 ぶつけ損なった怒りがぐるぐると体中を駆け巡るようだ。どうにか吐き出したくて拳を握ると、今度は近くにあった電柱にだんとぶつける。拳からはじんとした痛みが伝わってくるが、それでも気が晴れることはない。
 ああ、ああ、こんなにも幽霊に触れたいと思ったことなど今まで一度だってなかった。これに触れられさえすれば今すぐにでも私が殺してやるのに!

 見えるのに、聞こえるのに、何故私は唯一、触れることができないのだろう。何もかもが腹立たしくて、憎らしくて、頭の中が沸騰してしまいそうだった。畜生、畜生、畜生。ああそうか、きっと誰かを殺したことがある人は、この激しい感情をそのまま暴れさせた結果なのだ。
 人殺しなんてくだらないと馬鹿にしていた私はこの時、初めて殺人犯に対しての共感を覚えた。同時に羨望も抱く。殺せることのなんと羨ましいことか。私はそれすらできないのに。
 男は怒りをぶつける手段すらない私を前にして薄っすらと笑っている。何故これが私の目の前に立っているのかなど私には到底理解できない。ただただ馬鹿にされているようにしか感じなくて不愉快だった。
 これ以上これと同じ空間には居たくない。幽霊であることを抜きにしてだ。このまま何も言い返せずに去ったのではこの男から逃げるようでむかつくが、ここに居たってどうせ得るものなど何もないのだ。早く離れた方がいくらかマシだ。死人に愛想よく付き合う義理もない。それが例え安室さんの知己だとしてもだ。
 未だ燻る怒りは更に拳を握りしめることでどうにか飲み込んで、即座に踵を返して男の立っている方と反対側に歩き出す。けれど一歩足を踏み出したところで、男が私の背中に向かって声を投げた。


『君に頼みたいことがある』


 それは、あの日にも聞いた言葉だった。旧友にでも話しかけるような軽いその声にぴたりと思考が停止して、急速に頭が冷えていく。

 頼みたいことが、あるだと?私に?たった今、この男のせいで、平和な日常を崩されかけている、この私に?
 なんて厚かましい。なんて図々しい男なんだ。一度ならず二度までも、性懲りもなくよくそんな言葉が吐けるものだ。男の正体を知った今、私が協力するはずもない。そんなことも分からないのだろうか。随分と残念なおつむをしている。ものも正確に考えられないすかすかの頭しかないならば、そんなもの捨ててしまえばいいのに。
 私は男に視線を向けると、馬鹿にするように鼻で笑って言葉を返す。


「なんで私がおまえの頼みを聞かなきゃいけない」
『必要なことだ』
「私には必要ない」


 いつになく強気でそう言った。相手がその気になればこちらを害することのできる幽霊だとわかってはいたが、しかしそれよりも怒りの方がずっと強かった。
 だってこいつのせいだ。今まで上手くやれていたのに、私はそれが幸せだったのに、こいつのせいでその幸せに罅が入ってしまっているのだ。安室さんは頭の良い人だ。今回のことできっと私に対して何か引っかかりを覚えてしまうだろう。
 彼の傍なら、幽霊なんて視なかったから、普通の人間でいられたのに。彼にとってはきっと、普通の人間でいられたはずなのに。
 けれど私はミスをした。こいつのせいでミスをした。そのたった一つのミスは彼に違和感を抱かせてしまうには十分すぎるほどだろう。その後私がどんなに取り繕ったところで、その違和感を取り除くことなどできはしまい。
 そうなってしまったが最後、最早辿る未来は一つしかなかった。一つしかないのだ。それから逃れることなどまずできない。だって今まで、何をしても、そうなってきたのだから。

 許せない。許せるはずがない。生まれて初めて、私は、幸せだったのに。
 淡く優しい記憶の数々が、黒く塗りつぶされていくような錯覚を覚えた。いや、実際にもう真っ黒に汚されてしまったに違いない。
 だって何を思い出そうとしても、あの時の信じられないような顔をした安室さんの顔が浮かんでくるのだ。思い出せない。優しい笑顔が、確かにあったはずなのに。もう見られない。

 だから頼みなんて聞いてやらない。呪われたって殺されたって、絶対に叶えてなどやるものか。おまえに幸せが壊された。平穏が奪われた。ならば私がおまえを傷つけ嬲っても、構わないでしょう。
 けれど男は少しも堪えた様子を見せず、平然とした顔でそこにいた。感情がぐちゃぐちゃにされるのはこちらばかりで、男は相変わらず軽い調子で続ける。


『いいや。君にも必要なことさ』
「だからっ…!」
『安室透の生死に関わることだからな』


 その一言に咄嗟に息が詰まった。次いで唇を噛み締める。男の笑みが確かに深くなった。
 ああ、畜生、馬鹿か。こんなに分かりやすくては相手の思うつぼではないか。だけど、だって、到底無視できる言葉ではなかった。安室透の生死に関わるなどと言われては、例えそれが冗談だったとしても聞かなかったふりなどできはしない。
 私は男に向き直ると、再度正面から男を見据える。冗談を言っているような顔ではなかった。


「………言うことを聞かなければ安室さんを呪い殺すとでも?彼の後ろに御座す方を知らないの?おまえ如きに何が出来る」
『そうじゃない。ああ、面倒臭いな』


 男はそう言ってため息を吐く。初めてこれに会った時の人の良さげな態度など欠片もない。それに更に苛立ちが重なったが、男はそんなことはどうでもいいのだろう。面倒臭そうにおざなりな説明を付け加えた。


『あいつは今やばい組織に潜入して調査を任されている。それが組織にばれれば殺される。長引いてもつまんねー理由で殺されかねない。俺もその組織に殺された。あいつが生きる道はただ一つ、一日でも早く有益な情報を手に入れてとんずらすること』
「は………」
『だからお前が必要なわけだ』


 分かったか?と首を傾げて聞いてくる男に、舌打ちで答える。ああ、やっぱりこいつは幽霊なのだと、改めて思った。理性があるだと?とんでもない。あるのは他の幽霊どもと同じ、未練と欲望だけじゃないか。
 この男は表面上はまるでまともに理性があるように見せておいて、その実自分の心残りである安室さんとその組織のことしか頭にない。
 他と違って見えるのはそれが「自身の為の望み」ではないからだ。もう死ぬという時に自分のこと以外を考えられる人間はそう多くない。死ぬ間際、余程強く思いでもしていたのだろう。安室さんの心配と、組織を暴けなかった後悔を。そしてこの幽霊はそれを消化する為だけに存在している。
 だから生きているように振る舞うこともできるし、謀ることもできる。だから、私にこんなことが言える。そのやばい組織が本当にあるのだとして、少し話を聞いただけの私だってこの件に深入りすれば恐らくその組織とやらの標的となりえると分かるのに、私を使おうとする。全ては己の未練の為に必要だから。
 そして私の意思も生死も、こいつの勘定には少しだって入っていないのだ。
 どうだっていいのだろう。私のことなんて。
 私が幽霊が視える人間であることを隠していることもどうでもいい。それがばれようが何しようがどうでもいい。私の生活が壊れてもどうでもいい。私が死んでも、どうでもいい。安室さんと組織のこと以外、全部全部どうだっていいのだ。
 何故ならこいつの時は、こいつが死んだその時点で止まっている。時が止まった後で出会った私の事などこいつにとっては道端の石ころ以下、とるに足りないものでしかないのだから。
 逆に未練の一部を担う安室さんへの気持ちは生きていたころのしがらみが消えた分ずっと純度も増し強くなっていることだろう。だからこその伝言、だからこそ私を利用した。そしてきっと、これからも。

 けれど、そんなの冗談じゃない。安室さんの為とはいえ、何故私がこの男に利用されなくてはいけないというのか。その上私がそれを承諾すれば、安室さんとの別離はいよいよ避けられないものとなるだろう。
 だって潜入して探らなくてはならないほどの情報を、その辺の女子大生が持っているのは明らかに可笑しい。伝え方を間違えでもすれば、私もその組織の構成員であると思われてしまう可能性すらある。
 けれど正しく伝えることができたとして、幽霊なんてとち狂ったものが視える頭の可笑しい人間であると、安室さんにばれてしまうのでは意味がない。それは隠さなくては。でもじゃあ何故私が情報を持っているのかなんて、上手い言い訳は思い付かない。
 きっとこれに関わればあの人に嫌われてしまう。そんなのは嫌だ。嫌。絶対に。だからはいと言うわけがなかった。当然だ。
 例えもう今までの様に行かなくたって、少しでも長く、傍にいたいのだ。


『断れるのか?断ったら、君のせいで安室透が死ぬのに』


 一向に頷かない私に焦れたのか、男が放ったその言葉は、私の心をごっそりと抉りとるようだった。聞かなかったことには出来ないと言いつつ、目を逸らして避けていたことを突き付けられる。死ぬ。安室さんが。私のせいで。
 咄嗟に違うと声が出た。けれどそんなの聞こえていないように男は言葉を畳み掛ける。


『君のせいだろ?お前は自分のためにあいつを見捨てるんだ』
「違う、そんなの、勝手なことばかり言うな!」
『違うならできるな。今探っていることが分かったらお前のところに行こう』
「待っ……!」
「名前さん?」
「っ!?」


 私が静止の言葉を吐ききる前に、くんと後ろに手を引かれる。それに息を呑んで振り返ると、きょとんとしたコナン君が立っていた。ぽかんとしながら繋がれた手を見下ろして、それからはっとして男の方へと顔を向ける。
 けれどそこには既に誰もなく、相変わらずの薄暗い道が広がるのみだった。




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