「あの日あなたに伝言を伝えた人を探しているんです」
私の歩みに合わせながらゆっくりと隣を歩いてくれている安室さんは、静かにそう切り出した。私は予想できていたことだったために素直に頷く。やはりあの時の伝言についての話だったらしい。緊張が表に出ないように、静かにゆっくり息をした。
しかし協力は惜しまないにしても、探していると言われても困ってしまう。私があの時の彼について知っていることなどもう殆ど安室さんに伝えてしまっているし、あれ以上の情報を絞り出すとなると中々に難しいというのも事実なのだ。あれが誰かなど私にも分からないし、どこに行ってしまったのかも分からない。伝言以外で受け取ったものなどないのだから。私が力になれることなど皆無に等しい気がした。
私に言われずとも安室さんもそれは分かっているのか、少し困ったように笑うとこちらに視線を落とした。きっと分かってはいても、ということなのだろう。彼はゆっくりと口を開く。私は次に安室さんから飛び出る言葉をほんの少しだけ警戒して、微かに身体を強張らせた。
「詳しいことはお話出来ないんですが、実はあの伝言、暗号になっていまして。あれのお蔭で大切なものが盗まれるのを未然に防ぐことができたんです。本当にありがとうございました」
「え…いえ、私は伝言を伝えただけですから……」
「十分助かりましたよ」
そう言ってにこりと笑った安室さんの予想外の言葉に、私は目を瞬かせた。どんなことを言われるのだろうと思えば、ありがとうと、助かったと言ったのか、今。
私はじわじわとその意味を理解すると、ゆっくりと肩に入っていた力を抜いて、ほっと息を吐く。どっと安心感が押し寄せてきて、その場で脱力しそうになるほどだった。
なんだ。ああ、なんだ。あれは本当に安室さんのためになったのか。私がしたことは決して間違いではなかったのかと。心にかかっていた靄が今度こそ全てなくなったようだった。よかった。本当に。
安室さんの言葉からするに、どうやら私が想像していたよりは、あの伝言のせいで悪いことにはなっていなかったようだった。それに心の底から安堵する。あの時の安室さんの表情が優れなかったから、てっきり何かまずいことをしてしまったのだと思っていたけれど。でも、なんだ。杞憂だったのか。安室さんのためになれたのならば、こんなに嬉しいことはない。
久しぶりに気が軽くなったせいだろうか、自然と顔が緩んで、安室さんと目が合うともう抑えきれなかった。安室さんを見上げてにこにこと笑う。安室さんも私にうっすらとほほ笑んでくれた。
しかしすっとその笑みを消すと、まっすぐな視線を私に向ける。相手を射抜けるのではと思う程の眼力に私も自然と顔を引き締めた。まだ何か、あるらしい。一先ず喜びを引っ込めて大人しく続きを待つと、安室さんはその褐色の長く綺麗な指をぴっと立てる。
「けれどひとつ、問題があるんです」
「問題…ですか?」
「はい。ここで伝言を残したという人物の話に戻りますが、あなたが目撃したその人。確かに僕にはその外見に該当する友人に覚えがあります。しかしそれは同時に有り得ないことでもある」
「………?」
そこまで言うと、安室さんは言葉を言いよどむように視線を一度彷徨わせ、けれどすぐに私に視線を戻して口を開いた。
「何故なら彼は、すでに死んでいるから」
瞬間ひゅっと音がした。数秒経ってからそれが自分が息を呑んだ音だったことに気が付く。ざあっと顔から一気に血の気が引いていくのが自分で分かった。倒れなかったのが奇跡だと思えるほど足元が覚束無い。
今、彼は何を言ったのか。
本当は一言一句理解しているくせに、脳がそれを飲み込むのを拒否した。けれど状況はそれを許さない。逃げることは許されていない。安室さんの瞳が、私を捉えている。
ああ、死んでいる。死んでいるだって?何故。そんなはずがない。だって、彼が幽霊であるはずがない!
なぜなら安室さんを知っていた。ポアロを知っていた。幽霊ならばそれはありえないはずで。だって幽霊は安室さんには決して近寄ることなどできないのだから。ならば、いや、ああ、違う。生前からの知り合いであるならば、死後彼に近付けなくとも問題はないではないか。でもなんで、そう。それよりもっと前。
あの人と出会った時。曲がり角から飛び出てきた彼は、私とぶつからないように避ける仕草をした。まるで生きているかのように振る舞ったのだ。
幽霊はそんなことしない。だって幽霊は本能で動く。欲望に忠実に動く。理性でもって考えることなどしない。そんなものを見たことはない。ありえない。ありえないと、思っていて。
だから、だから私は、あれが生きていると、思わされた?
なんで。どうして。いつから。いつから私は、利用されて。咄嗟に手で口元を覆う。
気が狂いそうだった。叫び出してしまいそうだった。けれどできない。安室さんが近くにいるのだから。何よりも誰よりも失いたくない神様。私の神様。あの人の前で、そんな真似ができるはずない。
急に顔色を変えた私に、安室さんが心配そうな顔で呼びかけてくる。応えなくては。変に思われる前に、何か言わなくては。微かに残る理性がそう訴えるから、震える声でどうにか口を開く。
「そ、れは、ええと、つまり……おばけ、とか………?」
「ああ、すみません。怖い話をしたわけではなく。話はもっと現実的で、誰かが彼の姿を騙っているのではないかと思うんです」
「………」
安室さんの声が随分と遠くに聞こえる気がした。まるで水の中にいるみたいに音も光も不明瞭で、ぐわんぐわんと世界が揺れる。吐き気すら込み上げてきた。
けれどそんな状態になっていることを安室さんには気付かれたくない。気付かせたくない。気付かれてはいけない。いけない。いけない。いけない。安室さんにだけは、絶対に。
ならば笑え。
いつもみたいに。
何もおかしいことなどないように。
普通の人に見えるように。
私は可笑しくない。可笑しくない。可笑しくなんかないのだから!
「……そんなことって、あるんですね」
スパイ映画みたい、なんて。苦笑を浮かべてそう言った。声は震えていない。
あまり深刻さのない私の言葉に安室さんも苦笑を零す。真面目に話している安室さんには失礼だったかもしれない。けれど安室さんは不快な気持ちなど少しも表情に出さずに前を見据えて言葉を続けた。
「伝言を頼まれただけのあなたに無理を言っているのは分かります。けれど、どうしてもその人物を見つけ出さなければならない。直接接触したのがあなただけである現状、あなたに話を聞くのが一番です。勿論、僕の方でも調査はしますが」
「はい、わかりました。会った詳しい場所や時間なんかも必要ですか?」
「ええ、とりあえず覚えていることはなんでもいいので教えて頂けると助かります。それから、万が一またあなたに接触があったら、すぐに僕に連絡をください。これ、僕の連絡先です」
「……、ありがとうございます」
連絡先を渡されると、今は生憎ゆっくり話を聞いている時間がないからと言って安室さんはその場を後にした。とても忙しいのだろう。後で詳細をまとめてメールするようにと頼まれたので、忘れないうちにメール画面を開いて、登録したばかりの安室さん宛のメールを作成した。
まずは何から書き始めようかと考えてみる。しかし思うように言葉が出てこなくて、画面には何の文字も表示されていない。暫く粘ってみたが結果は同じで、私は諦めてその画面を開いたままにスマホを鞄へ放り込んだ。家に帰ってから考えよう。…考えられるだろうか。
安室さんが去って行った方を振り返る。もうその背中はどこにも見えない。
誰もいない薄暗い道をぼんやりと眺めながら、先程の出来事を頭の中で反芻してみる。胸の中をぐるぐると駆け巡る感情の処理に迷った。頭がずきずきと痛む。
何も、考えられなかった。
そんな時、その暗い道の向こうから、誰かが歩いてきたのが目に入る。何の気なしに視線を上げて、その人を見た。
彼は私から3メートルほどの距離まで近寄ると足を止める。私はその男が見覚えのある顔をしていたことに気付いて、ぎっと睨み付けた。殺意すら抱いたように思う。
怖いだとか、報復されたらだなんてことは少しも考え着かなかった。私はただ、怒りのままにその男へと近付くと、手を振りかぶって男の頬へ向けて叩きつけた。