一昨日、東都水族館で大規模な事故があった。どこも翌日の朝からその話で持ちきりで、ニュースもネットもそれ一色という感じだ。少なくとも東都にいてこの件を知らない人間はいないだろう。それほどまでに東都水族館の一件は人々をざわめかせていた。
 現に昨日の今日で様々な考察や推測がなされており、点検に問題があったという指摘やそもそも設計の段階で無理があったのではという声、挙句の果てには何者かがテロ目的で爆弾をしかけただの、ヘリコプターから狙撃されただのという馬鹿げた話すら上がっている程だ。そこまで行ってしまうと流石に漫画や小説の見すぎというやつではないだろうかと思うけど、一番有力なのがヘリコプターからの狙撃なのだから笑ってしまう。どうせネットで好き勝手言っているだけなのだろうが。
 スパイもののアクション映画でもあるまいし、というかそもそも本当にそういったテロ行為であるならば一言くらい政府から報告があっていいはずだ。それがないのだからきっと事故なのだろう。直接現場を見たわけでもない私に分かるのなんてその程度のことだけだ。
 不幸中の幸いなのは、この事故で死人が出なかったことだろう。私も機会があれば一度くらいは東都水族館には行ってみたいと思っていたので、そこで人が死んでないならラッキーというものだ。グロテスクな幽霊を見てしまう可能性はなるべく低い方がいい。
 まあそもそもの話、いつ運営が再開されるか分からない現状、今後年単位で行けないのではないかと思うけど。
 とにかく今言えるのは東都水族館の事故はビックニュースであるということと、そのせいか誰も彼もが浮き足立っているということだ。
 それにしても、ここまでの規模のものは中々ないのは事実であるものの、今までだってこういった事件や事故はちょくちょく起きているのだから、死亡者もいないのにここまで話題に上がるのは些か不可解だった。得体のしれない何かの力が働いているような気がして薄気味悪い。少なくとも、こんな都市伝説めいた噂が立つほどの事故というのは今までになかったと思う。
 今回の事故に関して私が思うことといえば、気味が悪いというのに尽きる。東都全体に広がるやけに落ち着かない不自然な雰囲気に、こちらまでそわそわしてしまうのがなんだか嫌だった。関係者には悪いが、早く事故のことなんて記憶の彼方に行ってしまって、日常の空気に戻ってほしいものだ。
 休憩室で延々流れるテレビから聞こえるアナウンサーの言葉を聞き流しながら、そんなことを考えた。


「お先失礼しまーす」
「はーいお疲れ様ー」


 休憩室の片隅に申し訳程度に設置されている更衣室で手早くバイト先の制服から私服へと着替えると、未だ働いている同僚たちに軽く声をかけて裏口から表に出る。雑な見送りの言葉と共に後ろ手でドアを閉めつつふうと一息つけば、一日の疲れがずしりと背中に乗しかかってくるような気がした。たかが6時間の労働で酷く疲れていた。早く帰って休みたい。布団が恋しくて気が狂いそうだ。
 だけど今日は生憎とまっすぐ帰宅するわけにはいかない。何を隠そう、近所のスーパーで月に一度の安売りがあるのだ。バイトで生計を立てる貧乏大学生としてはこの機会を逃すわけにはいかなかった。
 だって気落ちすることがあっても、大きな事故があっても、私は変わらず明日も生きていかなくてはいけないのだから。
 今朝見たチラシでは確か、洗剤と卵が安かったはずだ。冷蔵庫に冷凍の海老が入っていたはずだから、今日の夜は海老と野菜のオムレツを作ろう。あとはコンソメスープでも作って、残った分は明日のお弁当に持っていくとして、そういえば米がもうすぐなくなるのだったっけ。米は安くなってないけど、ついでだし買って行ってしまおうか。だけど今日は疲れてるし、洗剤と合わせるとそれなりの重量になってしまうだろう。日を改めたほうが楽かな。うん、米は後日。決定。

 そんな取り留めのないことをつらつらと考えながらスーパーへの道を歩いていると、ふと背後から小さく名前を呼ばれた。私はそれに反射的に振り返って、声の方へと顔を向ける。考えるよりも先に身体が動いてしまっていた。
 だって、仕方がない。道で誰かに話しかけられるという行為が大の苦手である私ではあったが、その声には素直に反応する以外に選択肢はなかった。
 考えるのを止めようと思っても、考えないように努めても。あの日からずっとずっと、彼のことばかり考えていたのだから。


「こんにちは、名前さん」


 微笑みと共に落とされた耳に馴染む優しい声。いくら幽霊が怖いからといって、この人の声を私が聞き間違える筈がない。人は誰かを忘れる時、まず声から忘れていくと言うけれど、私はきっとこの声を生涯忘れることなど出来ないだろう。それほどまでに私の頭に刻み込まれた人のそれ。
 他の誰でもなく彼に声を掛けられたのだということに、最早反射でぶわりと歓喜が湧き上がる。たったそれだけのことで心にぱっと光が射し込んで、ここ最近ずっと私の頭を悩ませていたことなんて吹き飛んで消えてしまう勢いだった。
 嬉しい。うれしい。うれしい!変わらずに微笑んでくれるのが、何よりも嬉しい!
 しかし次の瞬間にはあの時の安室さんの顔を思い出して、素直に喜ぶことを躊躇する。
 だって、いいのだろうか。安室さんを困らせてしまったくせに、自分で会いに行くことすらできない私が、喜ぶ資格なんてあるのだろうか。結局自分からは何一つ動くことのできないこんな私に、そんなものがあるとはとても思えない。
 どう応えるのが正解なのか散々言葉を探して迷った挙句、結局正しい答えを導き出すこともできず、私は困惑した表情のままに口を開く。それでも言葉の端々に喜びがにじみ出ている気がして、自制の気持ちを込めてぎゅっと手を強く握りしめた。


「安室さん、」
「突然すみません。あなたを探していたんです」
「……私を?」


 いつも爽やかに微笑んでいる安室さんが、その微笑みをすっと消していつになく真剣な表情でそう言った。他の話題でクッションを挟むことすらしないその様子で、今の安室さんには随分と余裕がないことが窺える。事態は恐らく、私が思い描いていたよりも余程深刻なのだろう。
 安室さんらしからぬ些か早急なその言葉にただ事ではないことを察した私は、緊張からかつい背中に力を入れた。握りこんだ手のひらにじわりと汗がにじむのを感じる。
 小さく深呼吸をして速る心臓をどうにか落ち着かせようと試みるが、あまり効果は感じられない。あまりに高鳴るものだから、このままでは死んでしまうのではと錯覚するほどだ。それをどうにか気付かないふりして、私は安室さんを見返した。

 安室さんが私を探していた理由は、十中八九この間の伝言に関することだとみて間違いはないだろう。というか状況からしてそうとしか考えられなかった。
 しかしそう分かっていても、これから一体何を話されるのか私には皆目見当もつかない。私の預かってしまった言伝に何か問題があったのか。それとも私に疑わしいことでもあるのか。厄介事を運んでしまった事だけは確かな気がする。
 悪い想像ならいくらでもできたけど、この件の向こうにあるものが良いものであるとは到底思えなかった。この雰囲気で愛の告白をされると思い込めるほど馬鹿ではない。気分がぐんと重くなる。
 しかしそれでも、私がこの人を拒否する理由にはならないのだ。


「少しだけ僕に時間をくれませんか?」
「それは、勿論です」
「よかった、ありがとう。このまま歩きながらで構わないかな」
「はい」


 それじゃあ行きましょうかと微笑みながら言う安室さんに、私は頷いて返事をした。相変わらずどくどくと忙しなく動く心臓はうるさい。いつの間にか喉がからからに乾いていて、小さく唾液を飲み込んでみるけど渇きは少しもなくならなかった。けれど逆に先ほどまで感じていた疲れなんかは微塵も感じなくなっていて、今ならばフルタイムの出勤でも笑顔で出来そうなほどだ。緊張で身体が変になっているのかもしれない。
 歩きながら、そっと息を吐く。私の先を行く安室さんの背中はいつもの様にすらりと伸びていて且つ逞しく、綺麗だ。
 私はポアロのカウンター席に座って、カウンター越しに眺める彼の背中が好きだった。そうして忙しなく動く彼を見つめるのが、何よりも楽しみだったのだ。
 だから、この景色を眺めることが、どうか今日で最後にならないことだけを今は祈る。どうか、些細な私の幸せを奪ってくれるなと。未だ見えた事の無い神様に願いながら、私はその後に続いた。




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