安室さんの顔を曇らせてしまったあの日から、私はポアロには行っていない。当然安室さんにも会っていなかった。だって、一体どの面下げて会いに行けばいいというのだろう。安室さんに会わせる顔がない。気を付けようと気持ちを新たにした矢先の出来事だっただけに、余計に行けないというものだ。
 何をしてしまったのかは未だに分からないままであるが、私が彼を困らせてしまったという事実だけで会いに行けない理由は十分だった。何もしていないと言ってくれた安室さんを信じないわけではないが、その言葉をそのまま受け取れるほど鈍くもないつもりだ。
 安室さんに迷惑はかけたくない。負担もだ。

 けれどあの日から私の気分はひたすら落ち込むばかりだ。朝起きて自己嫌悪をしては大学へ通い、幽霊から逃げる日々を送っている。そして最寄りの神社へ逃げ込みその度に安室さんを思い出しまた自己嫌悪するのだ。
 そうして暮らす日々の中に楽しいことなど一つもなかったけれど、そういえば安室さんと会う前は大体こんな日が続いていたなと考えて、気を取り直そうとして更に落ち込む。安室さんはクソのような私の人生に差し込んだ希望の光だったのだ。その太陽のような彼の顔を、私は他でもない自分の手で、曇らせた。死にたい。生きるけど。
 はああと重たいため息が口から飛び出る。そんな私に最初の方は心配そうに声を掛けてくれていた大学の友人たちも、私がいつまでも立ち直らないのを見てすっかり諦めてしまったようで、今では言葉もなくスルーされる始末である。なんて冷たいのだろう。でも励ましてほしいわけではないのでその辺の扱いはどうでもよかった。所詮私の手の届く友情なんてこの程度のものだというだけの話だ。


「そういえば2、3日前に大規模な交通事故あったじゃない?あの時私の彼氏が近くにいたみたいでさあ…」
「えー大丈夫なの?」
「本人は軽い打ち身で済んだんだけどね。車がひっどいの、横がぼっこーへこんでて」
「大変じゃん。この間車買い換えたばっかって言ってたよね、ご愁傷さま〜」
「ほんとそれ!来週になったら東都水族館までドライブしようねって言ってたのに!」


 ざわざわと騒がしい大学のカフェテリアで同じテーブルに着いた友人たちが何やら話しているが、内容はするすると耳を通り過ぎていくだけで少しも興味が持てない。私は友人たちの声をバックに、大して美味しくもない安いコーヒーをちびちびと啜りながら椅子の背もたれに身体を預けて、ぼんやりと遠くに視線をやった。いい天気だ。
 窓に近いこの席からは我が大学が誇る無駄に綺麗で広い中庭が一望できる。今日は晴れているので温かな陽射しも差し込み、私に一縷の悩みもなければこの穏やかな空間の中でのんびりまどろんでいたことだろう。今の私には生憎と喧嘩を売っているようにしか感じられなかったが。見上げた青空が目に染みる。
 いよいよ憂鬱さに押し潰されそうになった私は、耐えきれないと椅子を引いて立ち上がった。かたんと椅子の脚が床を蹴る音が響く。それさえどうしてだか腹立たしくて、人目がなければ舌打ちのひとつでも漏らしているところだ。心が大分荒んでいる。生理二日目なんて目じゃない。
 そんな自分の苛立ちを、小さくため息を吐くことで抑える。これ以上ここにいて周りに鬱陶しい空気をまき散らしても仕方がない。今日はもう授業もないし、バイトの時間には少し早いが向かってしまおうと、手早く荷物を纏めた。恐らくここで何もしないでいるよりかは、まだ動いている方がましだろう。
 底に僅かに残っていたコーヒーを一気に煽ってから、空になった紙コップを握りつぶす。そんな私の一連の行動に、友人たちは顔を上げてこちらを見た。


「何、名前もう帰るの?」
「うん。また明日ね」
「はいよー」
「ばいばーい」


 彼女たちのきゃらきゃらと笑う楽しげな声を背に、私は歩き出す。畜生。私もあの子たちのように生きることができたなら、どんなに楽だっただろう。


 私の現在のバイト先は家から徒歩約15分程度のところにある。つまりバイト先へと向かうということは必然的に家への帰路を辿ることになるのだが、なんとここからふたつ道をずれるだけでポアロへと行くことができるのだ。気軽に通いやすいいい立地なのである。いつもはそれが嬉しくて、だけど今はそのことを考えるだけでずんと気分が沈んだ。
 気分を変えようと出てきた筈なのに、頭の中は気持ち悪いほど安室さんのことだらけだ。
 安室さんは元気にしているだろうか。この間のことで困ったり大変なことに巻き込まれたりしていないだろうか。普段から忙しそうな人だ。食事や睡眠はきちんととれているだろうか。会いに行きたい。でも、私がそれをして許されるだろうか。
 もし、許されなかったら、私は。


「あっ名前お姉さんだ〜!」


 明るい声に名前を呼ばれてはっとする。沈みかけていた思考を頭の片隅に追いやって、慌てて振り返れば歩美ちゃんと、いつぞやの元太君と光彦君がこちらに駆けてくるところだった。今回はコナン君と哀ちゃんは一緒ではないらしい。
 私の元まで来ると三人して私を見上げるものだから、そのままでは首が痛くなるだろうとしゃがんで目を合わせる。歩美ちゃんは相変わらず人懐っこいようで、私が屈むとにっこり笑ってこんにちはと元気に言った。それに私も笑顔で返す。落ち込んでいてもこんな小さな子供に悟らせるほど大人げなくはない。


「あなたは確か、温泉の時のお姉さんですよね!」
「こんなとこで何してんだ?」
「ああ、私もこの近くに住んでてね。これからバイトに行くんだよ」
「へー!」


 久しぶり〜と言いながら二人の頭を撫でる。元太君の坊主頭が思いの外気持ち良くて、ついざりざりと手触りを楽しんでいると、他の二人もマネをするように坊主に手を伸ばした。そのまま三人でざりざりし続けたせいで、我慢の限界が来たらしい元太君に触りすぎだと怒られたが。ごめんて。
 ぷんぷんしている元太君から笑いながら手を離すと、すぐさま距離を取られる。そんなに嫌がらなくてもいいじゃないかと思いつつそれを見送ったが、しかし歩美ちゃんは強かにもそんなこと少しも気にしていないようで、気を取り直すようにあのねあのねと私に話しかけた。話を促すようにうん、と相槌を打つと、彼女はまた嬉しそうに笑う。コナン君とは違って子供らしい子供だった。


「歩美たちね、これからお友達のお見舞いに行くの!」
「銀色の髪でな、両目の色が違うねーちゃんなんだぜ!」
「とっても綺麗なんですよ!」
「へえ…?日本人じゃないのかな」
「きっと外国の人だと思います。記憶喪失で、自分のこと何も覚えてないみたいなんですけど」
「でもおれたちが何とかしてやるんだ!友達だからな!」


 口々にそう言うと、私が言葉を返す前に彼らは急いでるからまたね、と手を振って駆け足で勢いよく去って行く。止める間もなかった。それをぽかんとした間抜け面で見送っていたけれど、やがて耐えきれなくなってぶはっと笑う。
 まるで台風のような子供たちだ。知り合いを見つけたから挨拶をして、言いたいことだけ言ったら相手なんてお構いなしにさっさといなくなるなんて。
 なんとも楽しそうな人生である。思わず笑みも零れるというものだ。なんて自分勝手。なんて自由気まま。ああ、それはなんて、


「羨ましい………」


 やりたいように振る舞えて。行きたいところに駆けていけて。足取りは軽く、背負うものは何もなく。何をするのも自由なのだとその小さな身体の全身で主張しているかのよう。
 あの子たちが当たり前のようにできるそれが、私には酷く難しい。当たり前だ。状況が違う。環境も違う。私がああするには少しリスクが高すぎて、それから少し、臆病すぎた。
 けれど、いいなと思った。そんな彼らがたまらなく羨ましかった。もしも私も、気持ちのままに動けたならば。それはきっと泣きたいくらいに幸せに違いない。

 立ち止まっていた足を、少し悩んでからポアロの方へと向けてみた。もし私があの子たちのように駆けて行けるならば、今向かう場所はひとつしかない。
 しかし私の脚が一歩を踏み出すことはなく、まるで足の裏が地面に縫い付けられてしまったかのようにぴくりともしなかった。




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