いつものようにポアロに行く途中で、優しそうなお兄さんに話しかけられた。一体何だろうと思っていれば、唐突に安室さんへの伝言を頼まれる。なんでも彼は時間がないらしく、どうしても自分で安室さんの元へと行って直接伝えることができないらしい。
 何故見ず知らずの私がポアロに行くことを知っているのかと一瞬不審に思ったが、彼はそんな私の様子をすぐさま察したのか苦笑しながら訳を話した。聞いてみれば何のことはない、彼もよくポアロに行くから私のことを見たことがあったのだそうだ。
 その割には私は彼に全く見覚えがなかったので些かひっかかるが、しかしポアロにいる時なら安室さん以外を見ているはずもなかったので彼のことを知らなくても不思議ではない。それでも彼が次に行くときに伝えれば良くないかと思いはしたものの、急いで伝えなくてはいけないのだと言われてしまえばそれ以上反論の言葉は出てこなかった。
 とはいえ普通ならいくら相手が優しそうだとしても知らない人からの伝言なんて断るのだが、安室さんとは仲の良いお友達だと言うし、安室さんにとっても大事なことだと言われてしまえば、いよいよ私に断れるはずがない。だから二つ返事で伝言を任されて、その人とは別れた。よろしくな、と言ったその人の声がやけに耳に残った気がしたけれど、まあ気のせいだろう。
 そしてそのまま幽霊のひとりにも出くわすことなく順調に向かったポアロで、人がいなくなったすきを見て安室さんに少しだけ時間をもらってそれを伝えた。人に聞かれないようにというのが伝言を伝えてきた彼の要望だったので、恐れ多くも耳を貸してもらって、こっそりと。


「0時にキュラソーが届く、だそうです」


 小さく囁いたその瞬間、安室さんの空気が僅かに変わったのが分かった。
 初夏の爽やかな空気が一瞬で真冬の早朝の冷え冷えとしたそれになったような錯覚を覚える。ぞくりと背筋が凍りついたのを感じた。
 どうして。だって、ここにいるのは怖いものなんかではない。安室さんなのに。
 私は思わずぱっと身を引いて、安室さんとの距離をとる。怖いと、本能が叫んだのを確かに聞いた。

 しかし瞬き一つの間。次に私が安室さんを見上げた時には、既にいつも通りの安室さんになっていた。先程のは気のせいなのだと錯覚しそうなほど、そこには普段通りの安室さんがいた。
 私はいつの間にか止めていた息を、恐る恐る吐き出す。ゆっくりと呼吸を整えて、早くなった脈を落ち着けようと必死だった。どうにか平静を保っているように振る舞おうとするけれど、他の誰でもなく安室さんに対して恐怖を覚えたということを未だ受け止めきれない。どうしても落ち着きがなくなってしまうのを堪えてなんとか表面上だけは繕いはしたが、安室さんの目を誤魔化せるほどうまくできているとは思えなかった。
 だっていくら平気そうな顔をしたところで、自分の手が微かに震えているのが分かるのだ。こんなに分かりやすいものに安室さんが気付かないとは思わなかったが、それでも気付かれる前にどうにか止めたかった。私のことで無駄に彼の気を揉ませることはしたくない。そう思うのに、もう片方の手で押さえつけるようにしても震えはとても止まりそうもなかった。
 どうしよう。どうして。頭の中にはそんな言葉しか浮かんでこない。今の私は酷く混乱しているようだった。
 そんな私をよそに、にこりといつも通りの輝くような笑顔を浮かべた安室さんはすらすらと言葉を並べる。いつもならば私だってそれをにこにこと聞いているのに、今はとてもできそうにない。うろうろと忙しなく視線を彷徨わせながら、行き場のない手をそわそわと動かした。


「そうですか。いえ、久しぶりに飲みたいなと友人数人に話していたんですが、すっかり忘れていました。伝言ありがとうございます」
「……い、え。あの、何かまずかったですか?」
「とんでもない。でも、誰がここまで伝えに来てくれたのか僕にも心当たりがないんです。どんな人でしたか?」
「え?ええと……」


 私はこの時になってやっと彼の名前を聞いていなかったことを思い出す。相手のいかにも急いでいますという空気に流されて、すっかり忘れてしまっていた。
 けれど、よく考えてみれば伝言を頼む時は自分から名前くらい言いそうなものだけど、どうして彼はそうしなかったんだろう。急ぎ過ぎて失念していた可能性もなくはないと思うけれど、安室さんの様子を見る限り、それはどうにも違うような気がした。
 名前を聞いていないことを伝えたきり、安室さんは少し難しそうな顔で考え込んでしまっている。そんな彼の様子に申し訳なく思って、私は必死に覚えている限りの情報を伝えた。


「短髪ですけど前髪をこっちに軽く、流してて、ええと…目がぱっちりしてて優しそうな若い男の人で、白いシャツにジャケットを着てました。あと…こう、長くはないけど耳のところまで髭が生えてて……」


 身振り手振りで伝言を頼んできたあの人の説明をする。気を抜けば消えそうな記憶をどうにか手繰り寄せたそれは酷く心もとない。伝わるだろうか。
 自分の説明の拙さと語彙力のなさに嫌になる。けれど下手でもどうにか伝えなくては。伝言を受けてしまったのは私なのだ。それにそう、誰だか分かればきっと、安室さんの憂いも少しは晴れるに違いない。そうとでも思っていなければやっていられなかった。
 けれど言葉を重ねれば重ねるほど、私の思いとは裏腹に安室さんの顔は険しくなっていく。それに内心でびくびくしながらも、しかし私はこの状況をどうにかする術を持っていなかった。分からないことばかりが増えていく。

 伝言なんて伝えない方が良かったのだろうか。それとも私はなにかまずいことでもしているのだろうか。あるいは他に原因が?
 分からない。分からないが、安室さんを困らせてしまっているのだろうことだけは確かだった。
 安室さんのためならと引き受けたはずだったのに。こんな顔をさせてしまうだなんて思ってもいなかったのに。一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。やはり軽々しく行動するべきではないのだと思い知らされる。自己嫌悪で死にそうだった。
 すっかり考え込んでしまった安室さんの隣で私はうなだれる。けれどまだ伝えていなかったことがあったのを思い出した私は、伝えるべきか少しだけ悩んで、結局それを口に出した。
 状況もよく理解できていないのだ、せめて彼に情報くらいは渡さなくてはという使命感と罪悪感が、私の胸の中を渦巻いていた。


「あの人、無理ばっかしてんなよって言ってました」
「え……?」
「こうやって、左手で耳たぶ触りながら」


 きっとこれは伝言ではなかったけれど、ボヤくように言っていたそれは確かに安室さんを心から案じていたみたいだったから、伝えれば何かの手掛かりになるのではと思った。耳たぶを触るのが癖なのか、特徴的なそれは記憶に残りやすかったみたいで、やけにはっきりと覚えている。
 頭の中でその様子を再生しながら自分の耳たぶをあの人がやっていたみたいに指で触れながら伝えると、安室さんは今度こそ目を見開いて、ひゅっと息を呑んだ。誰か思い当たる人でもいたのだろうか。それならば、いいのだけど。
 しかし気になるのは安室さんの顔が一向に晴れないということだ。相手が誰なのか見当が付けば少しくらい気が楽になるかと思ったが、どうやらそうではないらしかった。
 もしかしたら、あまり好ましい相手ではなかったのかもしれない。信じられないものを見たような顔で安室さんは私を見つめている。でもどうしてそんな顔をしているのかなんてやっぱり私には分からなくて、微かに首を傾げてみせることしかできない。
 そんな私に安室さんは何かを言いたげに口を数回開きかけて、しかしどうにもうまく言葉にすることができないでいるみたいだった。いつも巧みな話術で会話の主導権を握っている安室さんのそんな姿を見るのは初めてで、私もうろたえてしまう。私はこれ以上どうすればいいのだろうか。分からない。ただ、黙って彼の言葉を待つしかできなかった。


「あなたは……、………」
「…?」
「………いえ。ありがとうございます。家に帰ったら確認してみますね」


 やがてそう言って表情を無理やり緩めた安室さんに、私はやはり、何も言うことができず、どうにか頷くことで意思表示をした。ちろりと見上げた彼は私の様子に苦笑をして、恐がらせてしまってすみませんと謝ってくる。少し気になることがあったから、考え込んでしまったのだと。
 それに慌てて首を横に振った。どう考えても謝るのは私の方だ。何か厄介ごとを運んできてしまったのは、安室さんの様子からして一目瞭然なのだから。安室さんが私に謝る理由なんてひとつたりとも存在しないのだ。
 だから私も頭を下げて、心の底からの謝罪を返した。そして僅かに迷った後、きっと答えてくれなどしないと分かっていたのに、それでも。そっと、聞いてしまう。


「安室さん、あの」
「はい?」
「私は、何か余計なことをしましたか?」
「……いいえ。何も。あなたは何も、していませんよ」


 私の言葉にふっと微笑んでそう言った安室さんの声は、いつも通り優しい。けれどその眼差しが微かに強張っていることに、悲しいかな私は気付いてしまっていた。
 私は、何をしたのだろう。




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