「安室さん、なんだかご機嫌ですね」


 そう言った私の声はさほど大きなものではなかったけれど、その場にやけに響いた気がした。ポアロはいつ来ても居心地が良い店ではあるが、今日は珍しく他に人がおらず、いつにも増してまったりとした空間となっている。だからだろうか。
 他に人のいない店内は酷く静かで、私の声以外には耳に心地の良い音楽の音色しか聞こえない。まるでここだけ外の喧騒から切り離されたかのような、穏やかな空気が流れていた。神社のような安心感、というと他の人に共感してもらえないかもしれないが。
 誰もいないし、せっかくだからと案内してもらったカウンター席に座りながら、私はその向かいに立って作業をしている安室さんへと声を掛けた。安室さんに入れてもらったコーヒーはまだほんのり温かく、カップを持つ私の手にじわりと熱を移す。ごくりと飲み干せば口の中いっぱいに苦味と酸味が広がった。それを楽しみながら視線を移せば、目の前には安室さん。たまに目が合うと微笑みかけてくれるとてつもない特等席だ。最高であるとしか言いようがない。ナイスタイミングで足を運んだ自分のことを最大限に褒めてあげたかった。今夜はご馳走である。

 一方で安室さんは私の言葉を聞くと、ぱちりと一度瞬いた。その反応に、もしかして自覚がなかったのだろうかと頭の片隅で考えつつも、僅かな沈黙の後に少しだけ照れくさそうに頬を緩めた安室さんのその顔に、そんなことはどうでもいいなと全ての思考を投げ捨てる。安室さんが嬉しそうならばなんでも良いだろう。それより今はその顔を見ていたい。
 珍しい安室さんの表情をほくほくしながら眺めていたが、しかしやはりというか、すぐにその表情を隠してしまった安室さんは、何でもないことの様に肩を竦めて見せた。そういう仕草も嫌味なほどに似合っている。安室さんだから嫌味なんて少しもないんだけれども。


「ばれてしまいましたか?名前さんはやはり良く人を見ている」
「安室さんだからですよ」
「おや、殺し文句だ」


 そんなことを言いながらも、安室さんは少しも照れる様子を見せない。平然とした様子でコーヒーのお替りを尋ねてきた。それに頷くと、底の見えていたカップに直ぐに新しいコーヒーが注がれる。香ばしい匂いがふわりと漂ってきて、うっとりと目を細めた。
 私はそうコーヒーは飲まない人間だが、安室さんの淹れてくれるコーヒーだけは別だ。安室さんが淹れてくれればそれは苦いとか香ばしいとかそういうのを超越した美味しい何かになるのだ。彼が淹れてくれたのだと思うだけで、この世の何よりも美味しくて特別なものに感じる。
 こくりと一口口に含んで、美味しいですと零すと、安室さんはそんな私の姿にふふふと笑った。穏やかなその笑い声に、ふと、彼は休めているのかなと思う。例え休めていなくとも、良いことがあったらしい今ならば、彼も少しくらいはリラックスできているだろうか。そうであってくれたら嬉しい。いつだってなんだか忙しそうにしているのは知っているのだ。張り詰めすぎて弾け飛んでしまわないか、心配だった。きっと彼にとっては余計なお世話だろうけれど。
 安室さんは微笑んだままに、何かを思い浮かべるかの様に遠くを見つめていた。その瞳に浮かぶ感情はどうしてか明るいものではなく、とてもリラックスできているようには見えない。今もなお、何かに心を割いているのだろう。それを残念に思うものの、しかし嬉しいと思っているのもやはり本当ではあるらしい。
 きっと何か言葉に言い表せないような複雑な事情でもあるのだろう。探偵だなんて特殊な職にもついているのだ。そう簡単に表現できるものではないのかもしれない。そしてそれは、私ごときが踏み込んで良いところではなかった。
 それでも十分だ。安室さんが嬉しいのなら、それだけでいいのだ。安室さんが喜んでいて私が喜ばない理由はない。私も安室さんにつられるように笑った。


「実は、ずっと探していたものが見つかりそうでして」
「それは良かったですね!安室さんが嬉しそうだと私も嬉しいです」
「…そうストレートに言われると、いくらなんでも照れますね」
「またまた、慣れていらっしゃるでしょう」
「意外とそうでもありませんよ」


 そう言いながら、しかしやはりその表情が変わることはなかった。どう見たって慣れているようにしか見えないが、そういう謙虚なところも安室さんの美徳だ。いつ見ても素晴らしい人である。私の顔にはやはり自然と笑みが浮かんだ。
 どれだけ安室さんの機嫌に左右されているのだと思うだろうか。だけど鼻歌でも歌いだしそうなくらいににこにこしている安室さんを見ていれば、どうしたって私も気持ちも高まってしまうというものだ。
 だって本心をあまり他人に曝さないらしい彼は今、感情を我慢しているわけでも作っているわけでもなくて、私にも分かるほどに素直に表現してくれているのだから。これで嬉しくならないわけがなかった。
 安室さんが業務中でなかったらの酒の一杯でもご馳走したいくらいだ。ああだけど、彼はお酒を嗜むのだろうか。あまり安室さん自身にお酒のイメージはない。甘いカクテルしか飲まなさそう。それとも意外と強めのお酒もいけるタイプなのだろうか。あまり想像できない。
 甘めの顔がそう見せているのかもしれないが、普段の様子を見る分にはお酒よりも紅茶が似合う気がする。高いところからカップに目がけて紅茶を注ぐのが巧そうだ。コーヒーを淹れるのがとても上手な安室さんのことだ、きっとそれもまたとても美味しいのだろうな。
 そんなとりとめのないことを考えながらご機嫌にコーヒーを啜ると、安室さんは困ったような、どこか呆れたような顔で私を見ながら口を開いた。


「初対面が初対面でしたから、好意的に見てもらえているとは思っていましたけど。あなたは本当に僕のことが好きですね」
「ふふ。それ、コナン君にも言われました」
「でも、恋じゃない。そのくらいの年頃だとすぐに愛だ恋だと言うでしょう?しかしあなたのそれは明らかにそういう類のものではない」


 その言葉に一瞬、息が詰まった。そういう類のものではない。じゃあ、どういうものに見えているというのか?そう考えた時に、背筋が凍った。

 コナン君にはどうしてか、これはそういうものではないと零してしまったことがあったが、他の人には特に何も言及していない。そういう話題が出たことはないけれど、園子ちゃんも蘭ちゃんも、きっと私は安室さんに恋をしているのだろうと思っているはずだ。その話をしないというのも、恋愛トークで周りが見えなくなりがちな女子高生とて、私の片思いの相手である安室さんがいるところでその話を持ちかけてこない程度のデリカシーは持っているからで、きっとポアロ以外のところで会ったならば聞かれるはずだ。最近安室さんとはどうですか、と。
 彼女たちのそれをおかしいとは思わない。安室さんも言った通り、その方が自然だからだ。だって、男と女だ。そう深読みせずともそう見られる。私にとって安室さんはそういう意味での好きではなかったけれど、少なくとも周りからはそう見えるようにしていたはずだし、そう思われていると思っていた。そしてそれでいいと思っていたのだ。
 何故なら安室さんに恋をしているのだと思われた方が、このどうしようもない信仰心を隠すのに都合がいいからだ。だってそうだろう。信仰なんて、普通じゃない。
 初対面から異常なまでに安室さんに対して好意的なのも、よく視線が彼を追ってしまうのも、おかしなくらいに盲目なのも、恋をしているから仕方がないのだと。決してそれ以外に深い意味などないのだと、周囲にはそう思ってもらいたかった。だってきっとそれならば、普通の範疇だ。
 だけど、違った。間違えた。周囲はともかくとして、肝心の安室さんが、そうとっていなかった。
 よくよく考えればそのくらい、少し考えれば分かることだ。だって彼は私よりも余程人のことを見ていて、私よりも余程頭がいい人なのだから。しかし私は現状に安心しきって、あろうことか慢心した。

 どくどくと高鳴った心臓を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐くと、私は恐る恐る安室さんの方を見た。何と思われているのだろう。普段の私のあれこれは、この人にどう見られているのだろう。
 もしも、私のこの気持ちが余すところなくばれていたら。否定の言葉が出てきたら、どうしよう。

 きっと私は普通の顔をしていられないと、そう思った。この人に突き放されて、平気でいられるわけがない。知り合って最初のころならば、もしかしたら、致命傷は負っただろうけれど、だけど今よりはどうにかなったかもしれない。でも今はもう無理だ。だって、ここまで関わって、好きになってしまったのに。
 安室さんが次に何を言うのか分からなくて、告白したわけでもないのにまるで返事を待っているかのような心持ちだった。振られることは目に見えている。ならばせめて先手を打ちたくて、震えそうになる声をどうにか押さえつけて私はゆっくり言葉を発した。そうして予防線を張っていないと、いざという時、きっと立ってさえいられない。


「……ええと。ごめんなさい、その…気持ち悪かったですか?」
「…ああ!いや、すみません。悪い意味ではないんです。僕としては、変に恋愛対象にされるより余程ありがたい。単純に疑問に思っただけですよ。そんなに純粋に好かれることをしたとは……うーん、言いきれないこともないのか」
「……やっぱり慣れてるじゃないですか〜」
「ははは、僕も年齢が年齢なので。ある程度は」


 そう言って爽やかにほほ笑んだ安室さんを見て、私はいつの間にか固くなっていた身体からゆっくりと力を抜いた。ああ、気を遣わせてしまった。けれどどうやらきっと、まだ嫌われてはいない。そのことに心底安心した。
 けれど、嫌われていなかったからって安心しては駄目なのだ。だってこんなの、安室さんの優しさに甘えているだけだ。幸い安室さんは気持ち悪くないと言ってくれたが、大抵の人はわけも分からずにこれほどまでに好意を示されればきっと引く。
 好意的に思っている相手ならばともかく、よく分からない相手にそうされたら誰だって嫌だろう。そして私が安室さんに好意的に見られる要素なんて、特に持ってはないのだ。
 神様と言葉を交わせるようになったからと、調子に乗っていたのかもしれない。駄目だろう、私は。そういうの、一番駄目だ。
 私は今までの人生で一体何を学んできたのか。これだからいつまで経ってもうまく取り繕えないのだ。そうしてまた、同じような失敗をする。
 けれどそれでは駄目なのだ。安室さんで失敗するのだけは、それだけは避けたい。なんとしても、それだけは。

 もっと気を付けて行動するよう心掛けなくてはならないなと新たに決意し、私は顔を上げた。安室さんの目に負の感情は見えない。見せていないだけかもしれないが、そうだとしたら心が折れてしまうので素直に安室さんを信じようと思う。安室さんを信じるということにかけては他の誰よりも自信がある。
 私はにこりと微笑んだ安室さんに甘えて、提示された別の話題へと逃げた。こういう時にも自然と人を気遣ってくれる安室さんには感謝しかない。やはり優しい人だ。優しくて、温かい。
 やっぱり好きだなあと、そう思う。ずっと好きでいたいな、とも。
 そしてそうであるためには、私の努力が必要なのだ。心掛ける、では足りない。もっと徹底しなくては。
 どんどん逸れていくいく会話で心を落ち着かせながら、私はカウンターの下できゅっと手を握った。


「……あれ。そういえば、安室さん今おいくつなんですか?」
「僕ですか?今29歳ですよ」
「29歳」
「もうすぐ三十路です」
「三十路」




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