空が分厚い雲に覆われてなんとなく薄暗く感じる中、私はせっかくの休日だというのに大学へ向けて足を進めていた。明後日が提出期限のレポートの存在をうっかり忘れて、資料の一つもろくに用意できていないためだ。先程そのことを思い出して、慌てて家を飛び出してきたのだ。
 勿論ネットでお手軽にぱぱっと資料を出すこともできる。しかしネットの情報はどれが正しいものであるか分かったものではないし、そもそも専門的なことになってくると大した情報は得られない。何よりこのレポートを書くようにと指示した教授は、きちんとした文献を使用したレポートでないと点数をばっさりと落とす人だった。慈悲もない。
 だから点数を稼ぎたければ図書館で文献を見繕わなくてはいけなかったのに、昨日すっかり忘れて帰ってきてしまったせいで、こうしてわざわざ授業もないのに出てくる破目になってしまった。昨日の朝までは確かに覚えていたはずなのに、どうして忘れてしまったんだろう。まったく不思議でならない。
 今日はバイトもなかったからのんびりしようと思っていたのに、と思うとため息ばかりが出てくるが、自分のせいではあるので仕方ない。面倒くさいからやらないというわけにはいかないのだ。学生にとって単位は何よりも大事なのだから。
 しかし他の学生に後れを取ったのは事実。まだ資料になりそうなものが残っているだろうかと、気を抜くとどんどん溢れてくるため息を飲み込みながら駅に向かった。
 せめてもっと晴れてくれていればもう少し気分も上がるのにと思いながら歩いていると、ふいに前方に見知った人影が現れて、おやと思う。そりゃあ住んでいるところが近いのだから生活圏が被るのは当たり前なのだけど、彼女はあまり見かけない。珍しい子に会った。
 休日の朝からこんなところで何をしているのだろうと思いながらも歩いていれば、あちらも私の存在に気が付いたらしい。なんだか浮かない顔をしている哀ちゃんと私の視線がばっちり合わさった。
 むこうが気付かないようならそのままスルーしようかなと思ってはいたけれど、これだけお互いに認識しているのだから声をかけるのが自然だろう。別に嫌いな相手でもない。私はにこりと笑うと、哀ちゃんとの距離を詰めた。


「こんにちは、哀ちゃん。今日は一人なの?」
「…こんにちは苗字さん。見ての通りよ」


 つんと澄ました態度でそう言った哀ちゃんに苦笑する。相変わらずクールだ。嫌われているわけではないと思うが、まだ私に慣れないのか少し警戒されている気がする。まるで野良猫を相手にしているような気分になりながらも、視線を合わせるためによいしょと屈んだ。そうして近くなった顔を改めて眺めてみても、やはりなんだかすっきりしない顔をしているように見えた。
 何度か話はしたものの、彼女とは歩美ちゃんと比べると交わした言葉も少ないし、そう親しいとはいえない。それなのに彼女に気がかりがあると分かるのは、それほどまでに彼女の中に何か引っかかることがあるのか、それともこう見えて意外と分かりやすい子なのか。
 どちらでも構わないが、こうして話しかけてしまったのだし、何か憂いがあるのならば放っておくわけにもいかないだろう。子供が困っている時に、助けてあげるのが大人の義務だ。大人とはそうあるべきであると思う。だから私は大人ぶって哀ちゃんへと尋ねた。


「元気がないけど、どうかした?」
「別に、何もないわ」
「そう?」
「ええ…」


 何かあるのはその様子から明らかだったが、言いたくないことを無理に聞き出したりなんてしたくないので、そのまま大人しく引き下がる。求められてもいないのに手を差し伸べるのは余計なお世話というものだ。何より、仲が良いわけでもない知人程度の人間に、あまり踏み込まれたくない問題なのかもしれない。
 例え小さな子供だとしても、踏み込まれたくないラインはある。それは大人も子供も関係ない。私にだって、子供の時からそのラインがあった。誰にも暴かれたくない秘密。不用意に触れてほしくないところ。何も知らない人間に、軽々しく踏まれたくないものは誰にだってある。
 自分がされて嫌なことは相手にもしない。これは結構真理であると私は思う。

 私はそっかそっか〜と軽い調子で言いながら、哀ちゃんの頭を軽く撫でた。唐突なスキンシップにもっと嫌がるかと思ったが、意外と大人しくしている。顔に出したら機嫌を損ねてしまいそうだから平然と撫で続けたけれど、内心わりと驚いた。この子は親しくない相手には壁を作るタイプだと思っていたから。まあ、大人相手だから諦めているところもあるのかもしれない。
 哀ちゃんが抵抗しないのをいいことに、調子に乗っていい子いい子と頭をかき混ぜると、流石にじとりとした目で見られた。あからさまな子ども扱いはお嫌いらしい。ふんと鼻を鳴らして手を叩かれてしまった。少しも痛くないそれに思わず笑うと、哀ちゃんはそれにも不愉快な表情をしてみせた。
 しかしそれでもどこかへと行くそぶりは見せない哀ちゃんに、私は首を傾げる。この子なら嫌になったらするりと躱して逃げそうだと思ったのだけど。私の思い違いだろうか。人を見る目はあると思っていたのだが、哀ちゃんは一向にそういうそぶりを見せない。
 不思議に思ってよくよく観察してみると、哀ちゃんは一見平然としているように見えるが、そわそわとどこか落ち着きがないようだった。かといってトイレを我慢しているようでもないし、何か約束があるわけでもなさそう。意味のないことを好んでするような性格にも見えなかったし、一体どうしたというのだろう。なんだか今日の哀ちゃんは以前あった時とはやはり様子が違っているように思う。疑問に思ったので素直に口に出した。


「お家には帰らないの?遊んでるわけじゃないんでしょう」
「………いえ、その。なんて言ったらいいのかしら。なんとなく、帰りたくないような気がして」
「なんとなく?」
「ええ…でも、本当に大した理由はないのよ。そろそろ帰るわ」
「うーん」


 なんとなく。なんとなくね。成る程、そりゃあ聞かれても何でもないと言うわけだ。理由なんてないんだから。
 だけど理由も根拠もないそれは、意外と見落としてはならないことかもしれないと、どれくらいの人が知っているだろうか。なんとなくというものは案外馬鹿にできないのだ。
 なんとなく、嫌な予感がしたり。なんとなく、良いことが起こりそうだと思ったり。
 そういったことは誰にだって間々あるだろう。どんな人でも生きていれば一度くらいはぱっとひらめくものだ。特に勘が鋭いなんて言われるような人のそれは、実に正確だったりする。
 そういうものをシックスセンスと呼んだり、その現象自体を虫の知らせとも言ったりする。誰にでも起こるからこそ、広く認知されているそれ。けれど勿論、これにだって理由はあったりするのだ。
 やけに勘が鋭い人。なんとなくが当たる人。そういう人たちには大体、とても強い護りがついている。

 私は帰ると言いながらも未だ浮かない顔をしている彼女をちらりと見る。どうしようかなと少しだけ考えてから、そうだと口を開いた。


「哀ちゃん。私今から大学の図書館にね、レポートに必要な資料を探しに行くのだけど。一緒に来る?」
「え?」
「まあ、大学の図書館なんて哀ちゃんにはつまらないだろうし、無理にとは言わないけど。気分転換にはなるかもね」


 そう提案して、如何?と首を傾げる。しかし言っておいてなんだが、色よい返事が来るとは思わなかった。当然だろう。だって図書館だ。
 図書館なんて堅苦しくてつまらなさそうなものに、テレビやゲームやネットなんかに慣れ親しんだ最近の子が興味を持つのは稀だ。しかも大学の図書館。普通の図書館でも堅苦しい印象なのに、大学のときたらなおさらだ。私だったら行かない。
 私は別に本も読書も嫌いではない。嫌いではないし、読み始めれば楽しいのだが、読み始めるまではどうしても腰が重くなってしまうのだ。相当好きでなければ図書館なんて早々行くものではないだろう。あくまで私は、という話だが。
 仮に気軽に図書館に行くにしても、漫画や絵本なんて子供向けの娯楽はあまり置いていないとなると、小学一年生が楽しめる要素は少ないと思う。哀ちゃんがゲームや漫画を好むようには見えないし、頭の良さそうな子に見えることは確かだが、それでもまだ小学校低学年の少女には図書館なんて早い気がする。そもそも読める字だって限られてくるのだから、本を十分に楽しめないのは仕方がない。もう少し漢字が読めるようになればまた違うのだろうけれど。
 なんにせよ、どうせ断られて終わりだろう。我ながら下手なナンパをしたものだと思う。しかし私としては、ここで哀ちゃんが来ようが来まいがどちらでも構わないのだ。

 これを機に少しはご近所さんである哀ちゃんとの心の距離を縮めてみようかなとは思うものの、それだって別にどうしてもというわけではない。今後もこうしてばったり出くわすかもしれないが、親しくなくとも問題はないのだから。
 懐いてくれるのは嬉しいし、もっと話したいと思ってくれるのも嬉しい。またねと言ってもらうのも好きだし、会って嬉しそうにしてもらうのも好きだ。そういう人との温かな繋がりは、あれば生活も心も豊かになる。が、しかし。なくても別に困らない。どうせいつかはなくなるのだから、最初からなくても何も問題はないのだ。私にとって人付き合いとはそういうものだ。
 私はじっとこちらを見上げて何か思案している哀ちゃんを眺めながら、なんて返してくるのかなとのんびりと返事を待った。


「白昼堂々と誘拐?」
「いやちょっと勘弁してください」


 のんびりしてたら耳に飛び込んできた物騒な言葉に思わずぎょっとした顔で哀ちゃんのことを見た。それからついきょろきょろと周りを確認する。今の会話聞かれてないだろうな。誰かに聞かれてたら通報待ったなしなんじゃないの。なんてことを言うんだこの子は。
 けれど最近は通学中の小学生に挨拶をしただけで通報されたという話も聞く。これが今の普通の反応なのだろうか。軽い気持ちでこんにちはと言ったら防犯ベルを鳴らされるなんて切ないにもほどがある。これじゃ気軽に挨拶の一つもできやしない。警戒するのは確かに大切だと思うけれど、それはあんまりじゃないか。こっちにやましい気持ちは何もないのだ。
 しかし誘拐だのなんだの穏やかではない事件が少なくない数あるのもまた事実ではある。子供に警戒心を持たせるのは間違いではない。間違いではないが、なんだろう。やっぱり切ない気持ちでいっぱいになる。私が子供の時はもう少し大らかだった気がするけれど、これが時代が変わったということなのだろうか。私も年をとったものである。
 遠い目をして黄昏る私に、哀ちゃんは肩を竦めると苦笑しながら言葉を続けた。


「冗談よ…大学の図書館には興味があるわ。連れて行ってもらえる?」
「それはいいけど、親御さんにちゃんと連絡しておいてね。誘拐だと思われたら困っちゃうから」
「どうしようかしら」


 くすりと笑う哀ちゃんに、今度はこちらが苦笑する。しっかりした子だから大丈夫だとは思うが、さっきの今だ。通報されませんようにと願わずにはいられなかった。もしや先程哀ちゃんで遊んだ仕返しだろうか。報復がまさか社会的抹殺だとは夢にも思わなかった。怖いにもほどがある。あとでちゃんと連絡とったか確認しようと心に決めた。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -