たまに急に、これ食べたい!と思い立つことはないだろうか。私はそういうのがわりとあって、今日は朝から何故だか無性にシチューが食べたい気分だった。
 シチューが食べたい。美味しいシチューが食べたい。鶏肉とジャガイモが沢山入ったやつが食べたい。できれば北海道の美味しい牛乳を使って作ったやつが食べたい。白髪のまんまるくて優しそうなおばあちゃんが作ったようなのが食べたい。
 大学でもバイト先でも一日頭の中がシチューでいっぱいだった。シチュー食べたい。お腹いっぱいシチューを食べたい。そんなことばかり考えていたから、お昼を過ぎたころにはもうお腹が完全にシチューしか受け付けなくなっていて、家に帰ったら即効でめちゃくちゃ美味しいシチューを作ろうと心に決めていた。
 しかしいざ急いで家に帰ってみると、冷蔵庫の中が非常に寂しい上に、シチューのルーも買い置いていないではないか。つい舌打ちが出た。そういえば、そろそろ買い物に行かなければいけないんだったっけと思い出す。家に帰ってシチューを食べることしか考えていなかったので、すっかり失念していた。
 折角家に帰ってきたのに、食材がないのでは話にならない。このままではシチューなんて夢のまた夢。今の冷蔵庫の状態で作れるものなんてたかがしれている。この状況にもう若干面倒くさくなってきてはいたものの、しかしそれでもやっぱりシチューが食べたいのに変わりはなかった。
 ここはやはり、買い物に行くしかないだろう。せめて家に着く前に思い出していればと思わずにはいられないが。おかげで二度手間だ。
 そんなこんなで、家に帰ったばかりだというのに財布と携帯を引っ提げて、近所のスーパーへと逆戻りすることになったのだけど。


「あ…」


 思わずぽろりと声を零した。私の視線の先には、片時も忘れることのなかった麗しいお姿。
 スーパーの籠を左手に、買ってくるものが書いてあるのだろうメモを右手に持つ神々しいあの後ろ姿は、間違いなく安室さんだった。
 まさかこんなところで安室さんに遭遇することになるとは微塵も考えていなかったので驚いたが、しかしそれを軽く上回る喜びで心が踊った。安室さんだ、安室さんがいる。
 なんてついているんだろう。家に帰る前にスーパーに寄っていたら、恐らく入れ違いになってその存在に気付くことはなかった筈だ。一旦家に帰ってから来たからこそ安室さんに会えたのだ。なんという幸運。棚からぼた餅。物忘れの激しい自分にこれ程感謝したことはない。
 先程までの微かな苛立ちは吹き飛び、世界が虹色に輝いた。ありがとう一時間前の私。ありがとう朝からシチューを食べたかった私。ありがとう世界。おかげで私今、とってもとっても、幸せです。


「あむ、………」


 しかしだ。その喜びのままに声をかけようとした私は、浮かんだ考えにぴたりと動きを止める。
 一度迷惑をかけたっきりの私に気安く声をかけられて、果たして安室さんが喜ぶだろうか。わあ久しぶり、会いたかったよ元気にしてたかい、なんて、にこやかに言われると思うのか?
 答えは否だ。そんなことになる筈がないことは、考えるまでもなく明らかである。寧ろ急に話しかけたら困らせてしまうかもしれない。それはいけない。私は出かかった言葉を飲み込んで、きゅっと唇を結んだ。
 いやだけど。またしても私は考える。
 挨拶くらいはしないと、逆に不自然なのではないか?一度きりとはいえお世話になった相手だし、道でばったり会ったとしても、声をかけるのくらい許されるのではないだろうか。というか、一応顔見知りなのに挨拶しないと、失礼に値するんじゃないか。安室さんに礼儀知らずの糞野郎だと思われてしまうのは避けたい。
 ああだけど、安室さんはあれほどのイケメンなのだから、声をかけられることにうんざりしている可能性だって無きにしも非ずだ。というか、そっちの可能性の方が高いんじゃないだろうか。きっと逆ナンは日常に組み込まれているに違いない。
 そして安室さんはとてつもなく良い人だから、それを嫌と言うことも、不快な思いをしていると表に出すことも、きっとできないのだ。
 ならばやはり、私は安室さんの為にも声をかけるべきではない。安室さんに私なんかの自己満足のために、嫌な思いをさせたくなんてない。そんなことをするくらいならば死んだ方がマシだ。
 でも、待てよ。安室さんほどのいい人ならば、もしかしたらそんな考えを持つことすら、ないのではないだろうか。だって、神様が愛するほどの人だぞ。そんな器の小せえことなんて考えつきもしないのでは。
 そうしたら、私が挨拶をしないことによって、無視されたとか嫌われているとか考えて、傷付いてしまうかもしれない…?なんてこったそれは駄目だ。駄目が過ぎる。私は安室さんを傷つけたくないのだ。それは何より避けたい。
 だけど、でも、じゃあ、一体どうするのが正解なのだろうか。

 今にも迷宮入りしそうで、けれど中途半端に上げた右腕をそのままにぐるぐると考え込んでいると、すぐ近くでふっと笑う声が聞こえてきた。それに気付いてはっとする。いつの間にか随分と深い思考の波にのまれていたようだった。
 自分のいる場所がスーパーの、しかも入口近くであることを思い出した私は、慌ててすいませんと謝りながらその声の方に顔を向けた。向けて、えっと声を漏らす。視線の先には、くすくすと笑う安室さんがいた。


「こんにちは、名前さん」
「…!!こ、こんにちは!」
「あはは、別に声くらいかけてくれて構いませんよ」


 この間会った時から気遣い屋さんだとは思っていましたけど、と可笑しそうに言う安室さんに顔が赤くなるのを感じた。声を掛けようかどうしようか悩んでいたことを、よりによって本人に見抜かれるのは流石に恥ずかしい。暫く頬の火照りはとれそうにない。
 けれど話せたことは勿論、その気遣ってくれる言葉が何よりも嬉しくて。ありがとうございますと羞恥にまみれながらも何とか言うと、安室さんはやっぱりくすくすと笑った。


「こんなところで会うとは思いませんでした。お家、近いんですか?」
「はい、すぐ近くで。安室さんはポアロの買い出しですか?」
「おや。よく分かりましたね」
「お店の近くですもん」


 成る程と言いながら微笑む安室さんに、私も無駄ににこにこしてしまう。顔を引き締めなければとは思うのだけど、口元が勝手に緩むのをどうにも止められない。変に思われてしまうだろうか。いや、きっと安室さんを前ににこにこする女の子は多いはずだから、恐らく大丈夫なはずだ。
 けれど、いつまでもこんなところにお忙しい安室さんを引き留めておくわけにもいかない。お仕事中らしいし、多分早いところ戻らないと怒られてしまうだろう。私のせいで安室さんが怒られるのなんてあってはならない。
 残念だけどこの辺で会話を切り上げて、別れるべきだろう。残念だけど。とても残念だけど、でもこうして会えたことをありがたく思わなくては。会いに行く勇気のない私にとって、次にいつ会えるか分からない相手だったのだ。会えただけでなく会話すらもすることができたこの奇跡に、感謝しなくてはならない。でも眉が下がるのくらいは許してほしい。
 しかしそう考えていた私の思考を実に正確に読み取ってくれた安室さんが、視線で店の先へと促してくれた。それにぱちりと一度、瞬く。
 自意識過剰でなかったら、間違いでなければ、どうやらまだ、一緒にいても良いらしい。
 それを理解した途端、ぱっと表情が明るくなったのが自分で分かった。きっと私に尻尾でもついていたら千切れんばかりにぶんぶんと振られていただろう自覚がある。嬉しいという気持ちが抑えきれない。
 ありがとうございますと言いながら、恐れ多くも隣に並ぶ。にこにこ笑いながら、安室さんのその優しさに甘えて一緒に歩き出した。

 以前会った時も思ったが、この人は本当に察しの良い人だ。言葉にしていないことすら汲み取って、自然と気遣ってくれる。相手に合わせるのが上手いとでも言えばいいのだろうか。神様のことは抜きにして、一緒にいてこれだけ心地好いと思う相手は初めてだった。安室さんほど人の機敏に敏感な人に会ったことがない。
 仕草一つ、視線一つ見逃さず、相手の心を正確に汲み取るその観察眼。きっと彼ならば、かの有名な探偵ホームズの様に、歩いている人の姿を見ただけで性格や職業を当てることもできるのではないだろうか。
 すごいなあ素敵だなあ。やっぱり安室さんは素晴らしい人だ。尊敬の念を込めて見上げると、それすらも気付かれてしまっているのか、微かに苦笑された。それに気付いて慌てて気を引き締める。
 我ながら、不自然な程に安室さんを慕っている自覚はあるのだ。他の誰より安室さんに怪しまれたり引かれたりはしたくない。気を付けなくては、と思う。彼に引かれたら、多分立ち直れない。

 通路を進みながら、安室さんがメモに書いてあるものをひょいひょいと籠に入れていくのを横目に、私も広告の品と書かれたじゃがいもを手に取った。いつもより安い。2袋いってしまおうか。シチューに使って、あとポテトサラダにもしよう。ジャガバターも食べたい。じゃがいもなら日持ちもするし、使い切れるだろう。我が家のじゃがいも消費率はなかなかのものだ。
 玉ねぎも安いから籠に入れる。葉物は食べきれるだけ。鶏肉は冷凍したものがあるからいらない。あとはルーだけかな。ついでになくなりかけてたマヨネーズも買っておこう、と頭の中で必要なものを並べた。
 安室さんは私が良さげな野菜を選んでいるのを感心したように見ながら口を開いた。


「きちんと自炊しているんですね。若いのに偉いなあ」
「ええまあ、一応。一人なので手抜き料理ばっかりですけど」
「名前さんは今大学生なんですよね?地方出身なんですか?」
「いえ、生まれも育ちも東京ですよ」
「なのにわざわざ一人暮らしを…?」
「はい。あんまり両親と仲が良くなくて」
「ああ成程。すみません、ずけずけと」
「ふふふ、謝ってもらう程のことじゃありませんよ」


 他愛のないことを話しながらそれぞれ必要なものを揃えていく。お互いに必要なものがどこにあるかを把握しているようで、買い物はスムーズに進んだ。
 近所に住んでいる私はともかくとして、安室さんも随分慣れているようだった。よく来るのかもしれない。安室さんが使うスーパーだと思うだけで、まるで遊園地みたいに楽しい場所の様に感じた。


「今日の献立はシチューですか?」
「えっ?すごい、なんでわかったんですか?」
「ルーが籠に」
「あっ本当だ…消費に苦労するのは分かってるんですけど、たまに無性に食べたくなっちゃって」
「分かりますよ。しばらく毎食同じになってしまうのは分かっているのに、どうしても食べたくなっちゃうんですよね」
「不思議ですよねえ」


 ね〜なんて言い合いながら、テンポよく会話をする。そのやりとりは純粋に楽しかった。
 しかし会話をしながらもやることはやっている。用事が済めばすたすたとレジへと向かい、会計を済ませた。財布からお金を取り出しながらはっとする。なんということだ、いつもは少々面倒くさく思ってしまう買い物があっという間に終わってしまった。
 誰かと話しながらだとこんな些細なことでも楽しく感じるんだなあ。昔からこういうところに来る時は大抵1人だったから知らなかった。相手が安室さんだというのもあるかもしれないけれど。

 買ったものをエコバックに詰め込み終えてから顔を上げると、安室さんも丁度袋に詰め終わったところだった。折角なのでそのまま一緒に出口へと向かう。出たところでお別れだ。
 最初は挨拶だけでも、と思っていただけだったのに、当初の予定から考えると随分たくさん話せた。この記憶だけで1ヶ月は頑張れそうだ。本当に幸せな時間だった。感極まったのをどうにか隠して、諸々のことにお礼を言う。
 安室さんが私にペースを合わせてくれていることは、最初から分かっていた。結局それに最後まで甘えきってしまったけれど、時間は大丈夫なのだろうか。不安に思って見上げると、にこりと綺麗に微笑まれる。ウッ笑顔が眩しい。


「安室さんはこの後もお仕事なんですよね」
「ええ、そろそろ戻らないと」
「引き止めちゃってすいません…お仕事、頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。名前さんも、帰り道にはお気を付けて」


 安室さんが軽く手を振ってくれて、私も控えめに振り返す。目の端に映る幽霊なんて気にならないくらいに、幸せな時間だった。今夜はきっと良い気分で眠りにつけるだろう。
 遠ざかっていくその背中が見えなくなるまで見送ると、私は足取り軽く帰路を辿った。



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