よく晴れたある日のことだ。バイト帰りにてくてくと歩いていたら、道のど真ん中にキーケースが落ちているのを発見した。
 見たところ革でできたそれは使い込まれているのか独特の味が出ていて、しかしくたびれているという印象は受けない。きっと持ち主に大切にされてきたのであろうことが、素人目にもはっきりと分かるようなものだった。
 まだ落とされてから時間が経っていないのか、綺麗なまま道にぽつんと置き去りにされているそれを、見て見ぬ振りもできずに拾い上げる。これが大したものでなかったら不用意に触ったりなんてしないのだけど、流石にこんな高そうなものを放置するのは良くないように思えた。ここは素直に交番に届けた方がいいだろう。
 私は拾ったそれを片手で弄びながら一番近くの交番へ向かおうと、来た道を戻ろうと踵を返した。しかし歩き出す直前、真後ろから突然聞こえた声に、私は反射的に足を止める。そのまま自然とその声の方へ振り返ってしまった。


『おねえちゃんのだよ』
「……」
『おねえちゃんのなの』


 キーケースをじっと見つめる幼い少女は、可愛らしい声でそう繰り返した。目測で5歳もいっていないように見える。周りに保護者の姿は見当たらない。おまけに年のわりに表情を少しも浮かべていない彼女は違和感の塊だった。
 不自然を感じて、というよりは半ば確信している嫌な予感を覆したくて、その少女をよく観察してみる。しかし残念ながら努力の介もなく、嫌な予感は的中してしまったようだ。
 そう、彼女は予想通り、幽霊だった。
 一見すれば少女は普通だった。怪我もなければおどろおどろしい感じもなくて、何もおかしなところなどない。けれど一つだけ。今は屋外で、これだけ晴れているにも関わらず、その足元に影が見当たらないことが、その少女がこの世のものではないことをはっきりと表している。
 それをしっかり確認して、私は少女が幽霊であることを確信した。
 確信したと同時に、しまったな、と思う。それもそのはず、私は先ほどあの少女の最初の呼びかけに反応してしまっていた。
 それはつまり、この幽霊には私が視えていることがばれていることを意味する。思わず内心で舌打ちした。腹立たしいことに、私は今日もまた失敗したのだ。
 何度繰り返しても学習しない自分に激しく嫌気がさす。これで何度死にかけたか分からないというのに。

 こういうことは、甚だ遺憾ではあるものの、私にとっては非常によくあることだった。
 だって、呼ばれたら普通は振り返るでしょう。話しかけられたら何だろうと思うでしょう。普通は一々相手が生きているかどうかなんて、確認したりしないでしょう。
 私には話しかけてくる相手が生きてるか生きていないかなんて、振り返るまで判断する術はない。生きていても死んでいても声は同じように聞こえるのに、どうやって判断すればいいというのか。
 こちらへ話しかける声のすべてを無視できれば、話は早いのだけど。しかし相手が生きていた場合、無視すると面倒事が発生する可能性が高いのだ。幽霊とは別のベクトルで、非常に厄介なことになることはとっくの昔に経験済みだし、なんならトラウマになっているとも言っていい。
 だから明らかにそれと分かるもの以外には極力答える、というより勝手に身体が反応してしまうことが多かった。
 だけど相手が幽霊の場合、それと知らずうっかりで反応を見せてしまったが最後。未練を消してくれだの成仏させてくれだの、見えるだけの私に付きまとってきて迷惑をかけられることとなる。
 それだけならまだましな方で、それを叶えてやれない私を恨んだり呪ったりする奴もいるし、理不尽なものだと反応したから殺すと言わんばかりに追いかけてくることもある。本気で理不尽極まりないが、幽霊とはそういうものだ。そのへんはもうとっくに諦めてしまっている。

 だから私は生きてる人だけでなく、幽霊にだって、なるべく視えることを悟られてはいけない。
 しかしながら気を付けようとは思っていても、一日中緊張状態で警戒し続けることなんてできるわけもなく。こうしてうっかり関わってしまうことも少なくなかった。本当、私の人生だけ難易度高すぎませんかねと思わざるを得ない。
 今回の少女はぱっと見たところどうやら善良な(と言っていいか分からないが、少なくとも悪意を振りまくことはしていない)幽霊の様だけど、例え善良そうに見えたとしても何を要求されるか分かったものではないから、今すぐ逃げたいというのが正直なところだ。こいつらは自分の魂の思うがままにしか行動しない。それは私にとって、害以外の何者でもなかった。
 しかし、どうやら少女は私の持つこのキーケースに用があるらしい。こんなことなら例え高そうなものでも拾わなければよかったと内心でさっきの自分をボロクソ言う。余計なことはしないに尽きるとそろそろ学習すべきだ。
 けれど少女にとっては私の様子などどうでもいいらしい。キーケースだけをじっと見つめながら、道の向こうをすっと指さした。


『あっち』
「…………」
『あっち』
「……わかったよ」


 じっとこちらを見上げながら無表情に繰り返す少女に、私は諦めたように溜息を吐いた。持ち主が向こうにいるのだろう。
 今のところ私に対する敵意はないようだ。恐らく下手にキーケースを置いて逃げるよりは、素直に持ち主のところへ連れて行ってもらった方が平和に解決するだろう。このまま知らんぷりして帰ることもできるとは思うが、届けてくれなかったから、なんて理由で恨まれてはたまったものではない。

 あっち、こっちと短く告げながら先行する少女の案内に従って道を行けば、そう経たないうちに青色の制服を身にまとった女の子の元へと辿り着いた。中学生にしては大人っぽいから、恐らくこの近くの高校の生徒だろう。
 明るい色の短い髪を上げて額を全開にしている彼女は、どこか勝気な表情をしているからだろうか。見ているものに明るく活発な印象を与える。
 幽霊の少女があまりに無表情だからはっきりと断言することは出来ないが、彼女らは顔立ちがどこか似ている気がした。もしかしたら血縁だったのかもしれない。
 その女子高生が下を向いて、きょろきょろと視線を忙しなく動かしていることから、何かを探しているのだろうことが察せられた。探し物は間違いなくキーケースだろう。
 思っていたよりも落とし物の持ち主が若かったことに少し驚きはしたものの、幽霊に案内されたのだから彼女を疑う余地はない。私は彼女にすみません、と声をかけた。
 呼びかけに反応してこちらを向いた彼女に、手の中のキーケースを見せる。それを見た彼女はあっと声を上げた。
 些か不安の色が強かったその表情が、一瞬でぱっと明るいものに変わる。表情豊かな子だなと思いながらあなたの?と続けて聞くと、彼女はこくこくと頷いて小走りでこちらへと駆けてきた。道案内をしてくれていた少女は、いつの間にかいなくなっている。


「はい、どうぞ」
「見つかって良かった〜!ありがとうございます!」


 彼女の手にキーケースを乗せてやると、彼女はぎゅっとキーケースを胸に抱いた。なんとなく分かってはいたけれど、よほど大切なものなのだろう。それを知っていたから、さっきの少女もわざわざ私に道案内なんてものをしたのかもしれない。
 安心した顔で本当に嬉しそうにお礼を言う彼女の姿に、ここまでくる間にだだ下がっていたテンションが少しばかり回復する。あの幽霊に関わりたくないと思ったのは嘘じゃないが、この子のこの顔を見れたのだから、無理矢理連れてきたことは水に流してもいい。今後はこういうのは遠慮してもらいたいが。
 自分のミスを棚に上げてそんなことを考えながら別れのタイミングを計っていると、彼女がにこにこと明るい顔で私を見上げた。あの、と話を切り出すので、大人しく耳を傾ける。


「今って時間ありますか?お礼にお茶の一杯でも奢らせてください」
「ええ?そんな、私はそれを拾っただけだし、奢ってもらう程のことじゃないよ」
「でもでもそれじゃ私の気が済まないんです〜!」


 ね、ね、と私の様子を窺ってくる彼女に、遠慮する私。その状況になんだか既視感を覚えた。それもそのはず、つい先日、私は彼女の立場で安室さんと話している。
 私的には、本当に大したことはしていないのだ。気まぐれに落し物を拾っただけだし、その後は幽霊の少女についてきただけだ。あの幽霊に何をされたわけでもない。
 どれだけ考えたところで、私のしたことはわざわざ改めてお礼をされるほどのものじゃなかった。けれど、彼女にとってはそうではないのだろう。
 まったく同じことを安室さんにした身だ。彼女の気持ちはよく分かるが。あの時の安室さんも、もしかしたらこんな気持ちだったのかもしれないな、と今更ながらに思って苦笑した。
 彼女はそんな私の様子に気付かなかったのか、胸に抱いたキーケースを見下ろして、大事そうに指でなぞりながら言葉を重ねる。挙動のひとつひとつが慈しみに満ちていて、いくら高そうなキーケースとはいえ、まるで宝物のように扱っているのが印象的だ。きっと彼女にとっては宝物と同等の価値があるのだろう。


「これ、小さいころに祖母に貰ったものなんです。ずっと大切に使ってて、ないって気付いた時私、頭が真っ白になっちゃって。本当に感謝してるんです」
「…それは、十分伝わってるよ。でも年下の女の子に奢ってもらうのは気が引けるし、本当に大丈夫。私にお金使うより、お友達と遊びに行くときの為にとっておくのがいいと思うな」


 ね?と彼女を諭すようにそう言う。彼女の方も、まだどこか納得はしていなさそうだったけれど、それでもこれ以上はしつこいと思ったのか、素直に引き下がってくれた。それに内心で安堵する。いくらお礼とは言っても、流石に年下に奢らせるほどがめついつもりも、お金に困っているつもりもない。
 しかしあからさまに残念そうな顔をする彼女に、安室さんにお礼を断られた時の自分がだぶって見えて、やっぱり苦笑してしまう。私も安室さんみたいに、この子が気を遣わなくていいような上手いことが言えればよかったのだけど。

 少しだけ考えて、昔どこかで聞いた話を思い出す。今私にお礼をするより、今日のあなたみたいに困ってる人がいた時に、今度はあなたがその人の力になってあげてね、だったか。人助けの輪を広げる素敵な言葉だなと思ったのをよく覚えている。
 それをそっくりそのまま、いい人ぶって言ってみせた。私はこの話のオリジナルの人の様に綺麗な心根はしていないが、偽善でもなんでも、この子の気持ちが少しでも昇華できたらいいなと思った。あの時言葉で私の気持ちを軽くしてくれた安室さんの様に。
 そう、たったあれだけの言葉で安室さんは私を笑顔にしてくれたのだ。あっという間に、魔法のように。やっぱり安室さんはすごいなあ、と心の中で安室さんのことを思い浮かべて拝んだ。
 そんな私をよそに、彼女はその目を瞬かせて、それからあははと明るく笑う。次は私が目を瞬かせる番だったが、それでも笑ってくれたことにとても安心した。


「お姉さん、いい人ですね!」
「そう?受け売りだよ」
「私、園子っていいます。鈴木園子。お姉さんのお名前は?」
「私?苗字名前だけど…」
「名前さん!お礼は諦めますけど、良かったらお茶はしましょうよ!もう少し名前さんと話したくなっちゃったし…実はこの近くに、入ってみたいカフェがあって」


 にこにこと眩いばかりの笑顔で私を誘う彼女に、私は苦笑をして降参の意を伝える。そこまで言われて断るわけにはいかない。何より単純に、もっと話したいと言われるのは嬉しかった。
 どこのカフェかと聞くと、案内します!と上機嫌な声で返ってきて、つい笑う。先ほど私を案内してくれた少女の様に、こっちですよと指を刺す彼女にやはり血筋のようなものを感じながら、私達は並んで歩き始めた。



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