「すぐにコーヒーお持ちしますので、少し待っていてくださいね」
「はい。ありがとうございます、安室さん」
「いえいえ、お安い御用です」


 にこりと人好きする笑顔でそう言った安室さんは、カウンターの奥へと消えて行った。私はその背中を見送ると、無言で自分の頬をつねる。痛い。夢じゃなかった。

 私は今、喫茶店ポアロに来ている。心身ともに疲れ果てて大人しくコナン君に慰められている時に、そんな私を見かねたのか安室さんが声を掛けてくれたのだ。そのままお一人で帰るのが不安なら、アルバイト先の喫茶店に寄っていきませんかと。
 断る理由はなかった。
 あんまり彼らと一緒にいるとボロが出そうだから、早く離れはしたかったものの。一人になるのが不安ではないかと言われると、そんなことはなかったから。いくら日々追いかけまわされているからといって、一人は心細いし、寂しい。
 それでもいつもならばここで別れて、安全で安心な神社へと向かうところだった。そうするのが一番だと知っているからだ。こういう時に誰かと一緒にいることは、私にとってとてもリスキーなことなのだ。
 けれど私にそう言ってくれた安室さんは、私にとって特別だった。彼の傍もまた、私にとって安全で、安心できるところである。その上心細さまでなくしてくれるというのなら、これほどありがたいことはない。安室さんの神様にまた守ってもらえる保証などどこにもないことは重々承知しているが、それでも彼の傍にいられることは、神社で一人うずくまるよりもずっと魅力的なお誘いだった。
 なにより、名前を知りたいと思っていた相手と、あろうことかこうして会話までできてしまったのだ。もう少し安室さんのことを知りたいと、欲が出てしまったのもあった。もうこうして話すのもこれっきりかもしれないと思えば、いつもの自分よりも少しだけ図々しくなれるというものだ。

 コナン君と沖矢さんとは、その場で別れた。勘違いだった(という設定)とはいえ、ストーカーにそっくりな顔でこれ以上一緒にいない方が良いと判断されたのかもしれない。すんなり私の話を信じてくれたことで罪悪感がひしひしと押し寄せてはくるものの、非常にありがたかった。
 その場を離れる前に、最後にもう一度だけ謝ると、沖矢さんはやっぱり苦笑していた。ひたすら申し訳ない。警戒していたコナン君もあれ以上は何も聞いてくることもなく、またねと言って沖矢さんの隣で小さな手を振っていた。それにひらひらと手を振り返しながら思う。
 どうやら「また」があるらしい。彼と会った時のあれこれを思えば、そろそろ気味悪がられても可笑しくなさそうなのに。勿論また仲良くしてくれるならば嬉しいけれど。あの子も不思議な子だ。

 そういえば、別れてからもやけに視線を感じるなと思って、一度だけ彼らの方を振り返った時に、気が付いたのだけど。あの時、こちらを見送る沖矢さんの背後に、薄気味悪い影が見えたのだ。
 辛うじてシルエットだけはぎりぎり人の形をしていたと思うけれど、ちぐはぐに肉塊を繋ぎ合わせたというか、崩れ過ぎていてそうと思わなければ人とはとても思えないような、気持ちの悪いそれ。一体どこから現れたのか、ぴたりと沖矢さんに張り付いていた。さっきの今でとんでもないものを背負っている沖矢さんに、思わず二度見かましてしまったのだけれど、変に思われなかっただろうか。
 安室さんを守る神様が祓ったものとは多分、別のものだと思う。さっきのものとは見た目があまりにも異なっている。しかしあれと同等の悍ましさを醸し出している時点で、さっきものだろうが別のものだろうがさほど状況に変わりはない。どちらにせよ、人にとって非常に良くないものである。
 沖矢さんはさっき一度安室さんの手によって綺麗になっていたはずで、いわくつきの場所に行ったわけでもないのに目を離した数秒であんなのひっ付けているのは些かおかしい。いや、正直に言おう。大分変だ。
 ゲームや漫画の様に召喚なんてできるわけないし、無理矢理呼ばない限りあんな性質の悪いものが何人もそうそう近くにいるはずはない。じゃあ何故彼はそういうものばかりをくっつけているのか。引き寄せやすい体質とまとめてしまえば簡単だけれど、引き寄せやすいにもほどがある。ダイソンも驚きの吸引力だ。あれは異常だとしか言えない。
 たまに幽霊に好かれやすい人は見るけれど、あそこまで極端に酷いのだけを引き付けるのは見たことがなかった。なんというか、一言で言うとやばい。なんであんなのくっつけてて平気な顔をしていられるのか分からない。とても正気の沙汰とは思えない。あれだけの悪意の塊ならば、普通は視えなくても感じるはずなのに。鈍感なのだろうか。

 ひたりと沖矢さんの身体に不自然な手のようなものが絡みつくのを見た私は、それっきり彼から急いで視線を外した。
 今日はちょっと、もうお腹がいっぱいだ。これ以上何かに巻き込まれるのは勘弁願いたい。普通ならば見殺しにしたと少しくらいは後ろめたく思うところだけど、なんか、あの人平気そうだし…。
 なんにせよ、彼のそのやばいもんに好かれやすいという体質に気が付けたのはラッキーだったと思っておこう。それさえ分かっていれば、もう二度と彼には近寄らないように気を付けられる。今回はうっかりしてしまったけれど、あれだけ存在感出してる幽霊をくっつけているなら近くに来れば分かるはずだ。避けるのは簡単だ。そもそもそんなに意識しなくとも、コナン君はともかくとして、ばったり出くわすなんて早々ないだろうけど。
 沖矢さんのことも今後のことも真剣に考えると胃が痛くなりそうだったから、全てのことに目を瞑って楽観的なことだけ考える。心を守るためにはこういうのもまた必要なのだ。
 関わらなければ問題ないんだから大丈夫。無理矢理自分に言い聞かせると、ふうと息をついた。

 色んなことへの疲れからか、折角落ち着いた雰囲気の喫茶店にいるというのに何をする気にもなれず、安室さんが戻ってくるまでただぼんやりとお店の中を眺めながら過ごす。ゆったりと時間が流れている店内は非常に穏やかな空気で、自然と体中の力が抜けるようだった。居心地の良さに目を細める。素敵なお店だなと素直に思った。
 それにこのお店、安室さんがいるからだろうか。幽霊がいない。
 神社や寺ならばともかく、こういう人が溢れる街中で幽霊を一人とて見ないのは初めてだった。その光景は私にとってとても珍しく、いくら見ていても飽きそうにない。
 視えない人がみる光景はこんな感じなのだろうな、と思うと切なくなると同時に少し嬉しくも思う。
 これが、普通の光景。私の夢見る光景。
 その景色を目に焼き付けるようにじっと眺めた。生きている人だけの気配。温かさに満ちた空間。
 幸せな時間だと、心から思う。凝り固まって疲れ切っていた気持ちが穏やかになっていくのが分かった。この光景をずっと、ずっと覚えていようと思った。

 そうして安らかな気持ちで過ごしていれば、やがて安室さんが注文したものを持って戻ってくる。お待たせしました、と言いながら手際よく私の前にコーヒーとケーキのセットを置いてくれた。ふわりと辺りにコーヒーの匂いが広がる。うっすらと湯気を上げるコーヒーと、瑞々しいフルーツがふんだんに盛られたタルトは店内の照明によってきらきらと光っているようだった。


「わ、美味しそう」
「うちのケーキは甘さ控えめで美味しいですよ。軽食なんかもお勧めなんですが、疲れた時には甘いものがいいと言いますからね」
「ありがとうございます、安室さん。ここ、良いお店ですね」


 私の言葉にそうでしょうと言って安室さんは微笑んだ。その笑顔がタルトのフルーツよりもずっと輝いて見えるのは多分、私だけではないはずだ。
 落ち着いていて居心地は良いけれど都会のお洒落なカフェ、という感じではないこのお店に、妙に女性客が多い気がするのは、きっとこの人の影響なのだろうなとなんとなしに思った。

 そのまま、ではごゆっくり、と言って離れていこうとする安室さんの姿を見てはっとする。ケーキに気を取られている場合ではない。私はまだ彼に本題を伝えていなかった。後日時間を取ってもらうのも申し訳ない。けれど仕事中に呼び止めたら迷惑だろうか。
 私は周りを見回して、店員さんを呼びたそうな人がいないことを確認すると、僅かに迷った後、控えめに安室さんを呼び止めた。
 お仕事中にすみませんと断りを入れてから、なるべく短時間で済ませようと話を切り出す。ここまで来る途中に安室さんの話を聞いた時から、ずっと考えていたのだ。


「あの、お礼…探偵さんなんですよね。今日、本当に助かったので、依頼料…とはちょっと違うかもしれないけど、良かったら払わせてほしいんです」
「いえ、たまたま出くわしただけですし…結構ですよ?」
「でも…」


 確かに彼はそう認識していないかもしれないが、私は彼に命を救われている。あの時安室さんとぶつかっていなかったらと考えると恐ろしい。あんなものに呪われたら、何の耐性も持たない私はその日のうちにぽっくり逝く自信がある。
 それを助けてくれたのだから、何か、何でもいいからお礼がしたかった。何もしないなんてそんなの、神様も安室さんも自分の都合のいいように利用しているみたいで。それだけは絶対に嫌だった。
 神社ならばお賽銭を入れて拝むところだけれど、安室さんには賽銭箱なんて当然ついてないし、安室さんの神様が一体どこのどなたなのかも知らない。大して仲良くもない相手にものを貰ってもきっと持て余すだろうし、ならば本人に直接お金を払ってしまうのが一番だと思ってのことだった。
 しかし安室さんはそうは思わないようで、私の言葉に首を振る。けれど私がまだそれに納得していないのがばれたのか、苦笑しながら安室さんは口を開いた。


「でも、こうして売上に貢献してくださいましたし…どうしても納得できないなら、今回は初回サービスということにしましょう。もし次に何か困ったことがあって、僕の力が必要になりそうなら。その時からはちゃんとお代頂きますよ」
「次……も、頼っていいんですか?」
「探偵ですから。依頼とあらば、なんなりと」


 ぱちんとウインクを決める安室さんに、何がなんでもお礼しようという意気込みが持っていかれ、つい笑みが零れてしまった。上手な人だ。こんなことを言われては、もうこれ以上言えないではないか。
 何よりも、次、と言われたから。次を、望んでもいいのだと言われたから。
 それを許されたことが、何よりも嬉しい。安室さんからすればただの軽口だろうと、これっきりでないことが、私にとって本当に幸福なことだった。
 この人は私に幸せばかりをくれる。普通の人だけど、それでもやっぱり、私にとっては神様のようだなと思った。
 嬉しくてどうにも顔が緩むのを止められない。ふふふと堪えきれなかった声が漏れた。


「……本当に、ありがとうございます」
「…ああ、やっぱり」
「え?」
「やっと笑顔が見れました。思った通り、そっちの方がずっと素敵ですよ」


 花が咲くようにふわりと笑ってそう言った安室さんに、私は天井を仰ぐ。確信した。ようだじゃねえわ。神様だ。安室さんも正真正銘の神様だったんだ。じゃなきゃおかしい、こんな、駄目だ信仰しよ。
 この日私は幸せを知り、尊いという言葉の意味を実感した。



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