その人がふと、視線を上げて、私の後ろを見た瞬間。爪で黒板を思い切りひっかいたような大きな音がその場に響いて、私は咄嗟に両耳を塞いだ。それでも隙間から入ってくるそれに全身が竦むようで、少しでもそれから逃れられるようにぎゅっと目を閉じて身体を小さくする。幽霊相手にそんなことでどうにかなるなんて思っていないのに、反射的にそうしてしまうのだから、なんとも頼りない防衛本能だ。
 数秒か、数分か。体感時間は随分と長いように感じたけれど、多分実際にはそう経っていないのではないだろうか。その不快な音が止むと、耳をふさいでいるせいで無駄に大きく聞こえる自分の鼓動の音だけがした。どくんどくんとリズムを刻むそれは耳障りだったけれど、自分がまだ生きているのだという何よりの証明で、微かに安堵を覚える。
 耳に痛いあの音が鳴り響いていた短い時間で何が起きたのかは、分からない。確かめなければと思いはするが、緊張で全身が固くなってしまっていて、どうにも上手く動かすことができなかった。つい数秒前まで命の危険を感じていたのに、無防備にそうしていることを我ながらやばいなと思うけれど。
 だけど不思議と、もう大丈夫だと、そう思った。

 どうにか気持ちが落ち着いてきて、温かな手が私の背を優しく擦ってくれているのに気付いた時には、既に鳥肌も吐き気も収まっていて。さっきまで確かに後ろにいたはずのあれの気配もぱったり消えていた。
 空気ですらも、さっきとはどこか違っているように感じる。そっと目を開けて、横目で辺りを窺ってみるけれど、近くに幽霊のゆの字もない。辺りには穏やかな静寂が広がるばかりだ。
 それを確認して漸く、がちがちだった身体からゆっくりと力が抜けていった。ああ助かったのだと、本能的に理解した。

 あの脅威から生きて逃げ果せたことにひたすら安堵して、けれどすぐにはっとする。ここまできてやっと、未だ背を擦り身体を支えてくれている彼のことを思い出した。
 慌ててその人を再び見上げる。彼は私のことをしっかりと支えながらも、心配そうな顔で見守ってくれていたようで、私は急いで姿勢を正した。漸く頭が諸々を処理し始めて、滞っていた情報が一気に入ってくる。
 しまった、と思った。この人にだけは変に思われたりしたくなかったのに。
 すいません、と消え入るような声で呟いた。羞恥と後悔で顔が上げられない。しかしそんな私に、彼は大丈夫ですよと言葉を返してくれる。急にぶつかってきた、怪しい動きしかしない様子の可笑しい女相手に、なんて優しい言葉をかけるのだろうと思った。
 こんなにも優しい人だから、神様にも好かれるのだろうか。ふっと柔らかく微笑む彼には今日も、神様の加護がある。

 そこで漸く、もしかしたらと思い至る。さっきのあの気味の悪い音は、あの悪霊の断末魔だったのでは、と。周りの空気はただの路上だと思えないほどに清浄だ。
 気まぐれか、それともこの人にあれが近づいたからだろうか。正確な理由など私には知る由もないけれど。
 守って、くれたのだ。
 そう理解した瞬間、私の涙腺は実にあっけなく崩壊して、ぼろぼろと大粒の涙が止まらなかった。突然本格的に泣き出した私に彼が驚いたのが分かったけれど、どうにも止めることができない。

 死ぬかと。今度こそは、死んでしまうかと、思った。
 何の力も持たない私に、できることなど逃げる以外にほとんどない。頼れる人すらもいない。だからきっと、このまま誰も知らないところで、その死すら認識されないままに一人ぼっちで死んでいくのだと。思ったのに。
 助けてくれた。何故かなんてわからない。これっきりかもしれないし、今回が奇跡のようなそれだったのかもしれない。はたまた結果的にそうなっただけなのかもしれない。
 分からない。私には何も。けれど、確かに、助けてくれたのだ。
 それは、どんなに幸せなことだろう。

 みっともない泣き顔を両手で覆って、ありがとうございますと、からからの掠れた声でどうにか言葉を紡いだ。頬を伝う涙が酷く熱い。
 届いただろうか。伝わっただろうか。溢れんばかりのこの気持ちが少しでも、彼に、神様に、届くといい。
 神様、神様。こんなにも幸せだと思ったことは、今まで生きていて一度だって。


「名前さん、安室さん」


 背後からかけられた聞き覚えのある声に、びくりと肩がはねた。それを機に一気に現実に引き戻されて、我に返った私は慌てて手の甲で涙を拭う。やばい。まだ上手く頭が働いていないのだろうか。
 百歩譲ってぶつかって挙動不審するところまではまあ、まあまあ良しとして。だけど突然号泣するのはいただけない。完全に情緒不安定の怪しい女一直線である。今更ながらどうしよう、と顔を青ざめさせた。おかげで涙は無事に止まりそうだが。
 一先ず涙を止めようとぐいぐい乱暴に目元を擦る私に、なんと親切なことに彼はハンカチを差し出してくれる。私がお礼を言いながら受け取ったことを確認すると、彼は声の方へと顔を向けた。その視線の先にいた人物を見て、彼は静かに口を開く。


「コナン君」
「えっコナン君?」


 彼の呟いた聞き覚えのありすぎる名前に咄嗟に振り返ると、コナン君と一人の男性の姿があった。恐らくコナン君の隣にいる彼が、先程ぶつかってしまった人だ。さっきは少しも見えなかった顔が今ははっきりと見える。やはりあの悪霊はもうどこにもいないようだった。
 私を追いかけてきたらしいその眼鏡をかけた男性は、いい人そうな顔をしていた。少なくとも強面と呼ばれる類のそれではない。そんな人から全力で逃げ出した先ほどの自分を思うと頭が痛くなってくる。とても一目散に逃げ出すような顔はしていなかった。どうやって誤魔化せばいいのだろう。
 その上コナン君までいる。何故ここにコナン君がいるのかは皆目見当もつかなかったが、私が気付かなかっただけでさっきのところにもいたのかもしれない。そういえばさっき、誰かに名前を呼ばれたような気がする。


「どうして君が?」
「安室さんこそ…」
「この近くにちょっと野暮用があってね」


 あむろさん。きっとそれが彼の名前なのだろう。安室さん。そうか、安室さんというのか。
 気付かれないように心の中で彼の名前を繰り返して、そんな場合ではないというのに少しだけ嬉しくなる。こんなところで知ることになるとは流石に予想外だったが、やっと知れた彼の名前に、どうしても、心が弾んでしまった。
 しかし喜ぶのもつかの間、安室さんはまるで私を庇うように彼らの前に立ちはだかって、真剣な声で話を切り出す。


「ところで…彼女は何かに怯えて、逃げているように見えたのですが」
「えっ」
「あなた、まさか彼女を追いかけていたんですか?こんなに怯えさせて……警察に連絡をした方が良さそうですね」


 そう言った安室さんに、さっと血の気が引いていく。今の私の顔は青を通り越して真っ白になっているに違いない。安室さんの身体越しに、コナン君まで少し顔を青くしているのが見えて、余計に焦ってしまう。
 警察に連絡だなんて、そんなことしたらよく分からないけど逮捕とか、そういうあれになってしまうのでは。それはまずい。彼に何かをされたわけではないのだから。何か言わなくては、何か、何を。
 確かに怯えて逃げてはいたのだけど、眼鏡の彼には全く非はないことで、いやまああんなものに憑かれていた彼のせいではあるのかもしれないけれど、そういうことではなくて。ええと。ええと。
 どう説明しよう。まさかあの人に憑いている幽霊が恐ろしくて死ぬかと思って逃げましたなんて言えるわけがない。けれどこのまま何も言わないと、余計に面倒くさいことになってしまうことは目に見えている。
 何か上手い言い訳は、と頭を悩ませる私をよそに、眼鏡の彼を庇うようにコナン君が声を上げた。


「ごっ誤解だよ!」
「誤解?」
「僕たちが一緒にいたら名前さんがぶつかってきたんだけど、そしたら沖矢さんのこと見て急に逃げちゃったから。どうしたのかと思って、二人で追いかけてきたんだ」


 ね?とこちらに尋ねてくるコナン君に、私は慌てて首を縦に振る。6つの目がこちらに向いていた。説明を求めているのがわかる。ぶつかるわ追いかけさせるわで、ものすごく迷惑をかけてしまっている自覚はあったので、申し訳なさに縮こまった。私は悪くない、幽霊が悪いんだ!と言えたなら良かったのに。
 しかしまさかそんなことを本当に言えるはずはない。けれど、何か言わなくてはと、緊張で震える口を開く。

 上手く辻褄が合わせられるだろうかと不安で仕方がなかった。コナン君は子供のくせにやけに鋭いし、安室さんもさっきから見ていて状況把握能力は高そうに思う。沖矢さんとやらは分からないけれど、眼鏡かけてるし、なんとなく頭よさそうに見えた。そんな相手をなんの準備もなしに、誤魔化せる自信がない。
 けれど最悪なことにここは地元で、相手には顔見知りがいて、その上あんまり変な印象を持ってほしくない安室さんがいる。自信がなかろうがなんだろうが、死ぬ気で誤魔化さなければ、と決意してそれらしい言葉を並べた。


「ご…ごめんなさい。昔、その…私をストーカーしてた人に、沖矢さん…があんまりそっくりだったから。驚いてしまって……」
「ああ、そういうことでしたか」
「でも名前さん、沖矢さんにぶつかる前から逃げているみたいに見えたけど。何かあったの?」


 その言葉に、こいつ本当に重箱の隅を突いてくるなと咄嗟に思う。かわいくない。非常にかわいくない。この子は細かいことに気付きすぎる。本当に小学生なのだろうか。一体彼は人生何回目なんだ。
 私はコナン君の突然の攻撃に一瞬言葉を詰まらせてしまう。しかしすぐさま持ち直すと、不自然でない程度に混乱を装って言葉を続けた。


「えっと…そうなの、大学を出てからずっと、誰かに追いかけられてて。姿は見てないんだけど。それで曲がった先に、見覚えのある顔があったから、怖くなって。お騒がせして本当にすみません」


 私はそう締めくくると、三人に向かって深く頭を下げた。全部が全部嘘ではないから、さほど不自然はないはずだ。大学を出てからストーカーされていたのは嘘じゃないし。相手幽霊だけど。

 沖矢さんは私の言い分にとりあえず納得してくれたのか、頭を上げるようにと声をかけてくれる。それに甘えて姿勢を戻して、けれど最後にもう一度謝ると、あまり気にしないでくださいと苦笑された。
 簡単に言ってしまえばお前の顔ストーカーに似てると言われているのに怒らないで話を聞いてくれるだなんて、なんて出来た人なんだろうと内心でこっそり感動する。表に出していないだけかもしれないが、怒鳴られることも覚悟していたのでほっとした。
 続いて安室さんにも巻き込んでしまった事への謝罪と諸々のお礼を伝える。安室さんは気味悪がるでもなく、爽やかに微笑んで、貴女が無事ならそれで良いですよと言ってくれた。まさかとは思うのだけど、安室さんは聖人か何かなんだろうか。
 安室さんは思っていた通り優しくて温かくて神様に愛されるのも分かる人だったし、沖矢さんもいい人だ。一日で一週間分の怖い思いをした気持ちだったけれど、そう悪い事ばかりでもないのかもしれないと思った。命の危機を感じていたくせに、我ながら現金なものである。

 とりあえず、どうにかなったことにほっと息を吐いた。これ以上おかしな事には、多分ならないだろう。あとは穏便にさようならをすれば、きっともう大丈夫だ。でもまっすぐ帰るのはやっぱり少し怖いから、神社に寄ってから帰ろう。
 そんなことを考えていた私に、コナン君がてててと寄ってきた。まさかまだ何か聞きたいことでもあるのだろうか。
 警戒しながら、けれどこちらからもコナン君に近寄れば、安室さんからも沖矢さんからも少し離れたところに手を引かれる。内緒話ならまあいいかと大人しくそれについて行って、コナン君が立ち止まったところで私もしゃがんだ。
 コナン君は近くなった私の耳元にそっと顔を寄せて、小さな声で尋ねてくる。


「あのね、別に名前さんを責めてるわけじゃないからね」
「…うん、どうしたの?」
「どうして沖矢さんを見て「なんで生きているの」って言ったの?」


 ひゅっと、息を呑んだ。
 私そんなこと言ったのか。いつ。確かにこんなのに好かれて生きてるとか化け物かよみたいなことを思ったような気がするけれど、まさか声に出てた?沖矢さんにも聞かれただろうか。初対面で失言して逃げ出すって失礼にも程がある。というか、さっきの話を踏まえても流石に不審だ。
 ひくりと口元がひきつった。コナン君はじっと真剣な顔で私を見上げて、私の言葉を待っている。
 ―――ああ、いやだな。


「………さっき、ストーカーされてたって話をしたでしょう」
「うん」
「その人ね、私の目の前で自殺したの。ぼくを永遠に覚えていてって言って」
「………」
「あの時、確かに私の前で死んだはずだった。なのに、顔を上げたらそっくりな人がいたから」


 ちゃんと、誤魔化せているだろうか。誤魔化せていると良い。誤魔化せなくても、知らんぷりして、できれば私の言動全部忘れてくれたら、それが一番いいのだけど。
 少しだけ、仲良くなれたかもしれない少年に、気持ちが悪いと、頭が可笑しいと、罵られるのは嫌だった。


「お化けが出たんだって思っちゃったの」


 コナン君は何も言わなかった。ただ、そっかと一つ呟くと、怖かったねと言って私の頭を優しく撫でてくれた。



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