その日私は走っていた。縺れそうになる足をなんとか前へと推し進めて、立ち止まってしまわないように前だけ見て。一番近くにある神社を目指して、必死に走っていた。そんな私の後を、血走った眼でついてくる男とも女とも分からないそれ。振り向くことはしない。どうせどこへ逃げたとしても憑いてきているのは分かっている。
 割れた頭からだらだらと血を流し、欠けた腕を振り回しながら狂った様に笑っているそれは、懸命に逃げる私を馬鹿にするようにたまにわざと距離を開けて、安心させたところで一気に近付いてきたり、触れそうで触れない距離を保ったりと、気まぐれにこちらの心を揺さぶってくる。しかし決してこちらの視界からは消えないのだ。どこにいても必ず目に入る距離にいて、こちらの反応を見て楽しんでいる。
 非常に腹立たしいことに、ああいうのはこちらの恐怖を煽るために、こうしていつでも捕まえられる相手をじわじわと追いつめてくることが多い。恐怖を煽って煽って、そうしてそれがピークに達したところでとどめを刺すのだ。
 日本のホラー映画のあのゆっくりと追い詰めてくる感じはあながち間違いではない。多分最初にああいう演出をした人は視えていたのではないかと私は思っている。それはさておき、とにかく性格が悪いとしか言えない。悪趣味にも程がある。
 いくら私が幽霊に追いかけられるのにある程度慣れているからといって、恐怖を感じないなんてことは全くないわけで、つまりは今この性格の悪い追い詰め方にめちゃくちゃ煽られまくっていたりする。いやだって普通に怖い。勘弁してくれ。

 あれに自分の存在を認識されたと理解したとき、まずいのに目を付けられたなと思った。そう思った時にはもうすでにあれは私を追いかけ始めていて、私は一も二もなく走りだしたのだけど。そんな私の逃走虚しく後ろから不気味な笑い声が付いてきたのに気付いたときは泣くかと思った。何故私なんだと思わずにはいられない。
 ああいうのは、誰でもいいのだ。不幸にできるなら、目に入っただけの人でも、すれ違っただけの人でも、何でもいい。理由なんていらない。自分の前で笑ったから。幸せそうにしていたから。生きているから。とにかく誰でもなんでもいいから、不幸にしたい。自分と同じにしたい。多分、それしか考えていない。
 特定の人物を呪う幽霊だって十分厄介だけれど、そういう幽霊の方がまだ自衛できるという意味で楽ではある。そうでないのは、本当に厄介。いつどこで、こうして突然狙われることになるか分からないから。
 何か心残りがあるわけでもないので説得も難しい。その上無差別に人を呪い殺すから、その道の人でも簡単には祓えないような、無駄に力の強いものが多いのだ。迷惑が過ぎる。道端で突如始まるボス戦だなんて流石の勇者もびっくりだ。せめてダンジョンの一番奥にいてくれ。

 ああいうのに見つかってしまったら、とにかく最寄りの神社や寺へと向かうに尽きる。というか私にはそれしかできないのだが。
 そこに逃げ込めさえすればすぐとは言わずともいつかは諦めてくれることが多いし、どうしても諦めてくれない場合はそこの神主さんや和尚様なんかに相談をすると、普通の人よりは理解を示して何らかの手助けをしてくれることが多い。勿論、場所や人にもよるから、全員が全員頼りになるとは限らないのだけど。
 まだ経験はないが、万が一逃げ切れなければ、翌日のニュースに変死体発見という見出しが載ることになるのだろうなと思う。呪われて死んだ人のことを見たことがないわけではない。どんな末路を迎えるか、そこらへんの人よりは分かっているつもりだ。だからこそ、呪い殺されるのなんていやだと思う。あんなに苦しい死は、多分ない。

 ひゅうひゅうと頼りない音を鳴らす喉を唾液でどうにか湿らせるが、気休めにもならない。渇いた喉が張り付いて息がし辛かった。苦しい、苦しいと心の中で叫びながら、それでも殺されたくない私は、足を止めることができない。
 昔からこうして逃げ回っていたから体力はある方だと自負しているけれど、今回のやつは随分とねちっこい追いかけ方をしてくる上に、周りの目がプレッシャーになって、心臓が落ち着かない。
 人通りの少ない道を選んでいるとはいえ、まだ明るい時間帯だ。普通に歩いている人だっているだろう。そんな中で、いい年した女が全力で走っていたら注目を浴びてしまうのは当然だ。幸いまだ人には会っていないけれど、どこで見られているかなど分からないものだ。また近所で頭がおかしい女だと噂になってしまうだろうか。けれど、いくら引かれるのが嫌だといっても流石に命には変えられない。
 がくがくになってきた足を気力だけで前に進めながら、頭の中で周辺の地図を思い描く。このまま次の角を曲がってひたすら直進すれば、5分とせずに神社に到着する筈だ。問題は、いかにそれをあれに悟らせないか。
 むこうはその気になりさえすればいつでも私を殺せるのだ。助かるかもしれないと、悟らせてはいけない。やみくもに、がむしゃらに、走っているように見せなければならない。神社があれの視界に入ってからが本当の勝負だ。

 本当ならば目的地を悟らせない為にまっすぐ向かうのではなく徐々に神社へと行きたいところだが、残りの体力的にもここで曲がるのが一番だと判断した私は、その角を曲がった。しかしその瞬間、死角から歩いてきていたらしい誰かに思い切りぶつかる。突然の事に自分の勢いを殺すことができなかった私は、そのまま後ろに盛大にしりもちをついてしまった。強打したお尻が痛い。
 まさか人がいただなんて思いもしなかった。人の気配にはそれなりに敏感なはずなのにどうして、と疑問が頭を過るも、後ろから迫ってくるあれの笑い声にすぐさまはっとする。今はそんなことを考えている場合でも呆けている場合でもない。逃げなければ。慌てて立ち上がり、けれど自分からぶつかった手前、相手に謝罪だけはしようと顔を上げて。

 言葉を紡ぐことなく、私は息を呑む。走り出す筈だった脚は硬直して、ぴくりとも動かなかった。


「ああ、転ばせてしまいすみません」


 穏やかな、声だった。
 けれど、その顔は見えない。まるで白い画用紙を黒い絵具で思い切り塗りつぶしたように、その人の、肩から上だけ、真っ黒くて。


「しかし飛び出してきたのは貴女…過失の割合は50:50だから、お互いさまです」


 頭を丸ごと抱きかかえられているのだと気付くのに、随分と時間が掛かった。その人の後ろにぺったり隙間なく張り付くそれが、大事に大事に、抱えているのだ。人の、頭を。すっぽりと覆い隠すように。
 気持ちが悪い。悍ましい。なのに目が。離せなかった。
 見てはいけないと思うのに、分かっているのに、貼りついてしまったかのように、そこから目を逸らすことができない。かたかたと恐怖で身体が震える。それの姿をはっきりと捉えた瞬間、叫びださなかったのは奇跡だ。
 もとからそう良くなかっただろう顔色が、今この瞬間最悪になったであろうことがはっきりとわかった。震えは止まらないし、吐き気はするし、いっそ気でも失えたらと思うほど恐ろしい。きっと意識を失くしたら最後、もう二度と目覚めることはないだろうから、しないけれど。

 その人に憑くそれ。それは、なんと形容すればいいのか。今まで視てきたどれよりも恐ろしく悪質で、性質が悪いどころの話ではなかった。魔王か何かかと思ってしまうほど強烈で醜悪な、それ。
 常人ならばまず間違いなく一日と経たずに死ぬだろう。こんなのに憑かれて無事でいられるはずがない。呪われている本人ではないはずの私ですら、こうして近くに寄っただけで、こんなに影響されているのだから。
 それほどの力を持っているのだ、そこにいるのは。一体何人殺せばこんなことになる。洒落にならない。こんなものがこんなところにいるのなんてどう考えてもおかしい。意味が分からない、こんなの太刀打ちできるわけがない。現に、先ほどまで私の後を追いまわしていたやつは、とっくに逃げ出している。
 なのに、この人はどうして。


「な、んで……生きて………」


 それが、こちらを見て、笑った気がした。気がしただけだ。だってどこが顔かもわからない。だけど、間違いなく、私は見られた。まずい。頭の中で警報が鳴り響いている。
 最初に私を追いかけていたやつとは比べ物にならないほどの不気味さに、自然と後ずさる。逃げなくては。ここから、逃げなくては。ここにいてはいけない。駄目だ。逃げなくちゃ。逃げろ。死にたく、なければ。


「名前さん!?」


 震える身体をどうにか動かし、限界を伝えてくる足を無視して、私は駆け出す。どこに逃げればいいのかも、どうすればいいかも分からないまま、けれど無我夢中で走った。脚はもつれて息は苦しくて、殆ど体力もなかったけれど、それでも。

 真逆に逃げてしまったせいで、頼みの綱の神社からはどんどん離れていく。しかし戻ることもできそうにない。怖くて後ろが振り返れないけれど、すぐ後ろに何かの気配を感じる気がした。
 必死に消そうとするのに、さっきの化け物の姿が脳裏に焼き付いて離れない。無理だ。こんなの、どうすれば。
 私はすっかり混乱していて、まともに思考することも出来そうになかった。考えるのはどうしようというのと、死にたくないということだけ。対策なんて何も思い浮かばないまま、けれど恐怖に駆られて、足だけは止めなかった。

 そんな私の必死の足掻きを嘲笑うかの様に、ひたりと、首筋に冷たい何かが触れた。それは、私の間違いでなければ、指の、様な。
 ひゅっと息を呑んだ。足が止まりかける。状況を確認しなくてはと思うのに、怖くて、振り返れない。だけど、いる。確実に。
 ああ、今日は、今日こそは、殺されてしまうかもしれない。自分で浮かべた恐ろしい想像に背筋が凍った。
 けれどどうにかそれを頭の中から追いやって、なんとか気持ちを持ち直す。駄目だ。最悪なんて考えるべきではない。前を向け。足を止めるな。

 殺されてなんか、やるもんか。
 最初から最後まで幽霊に振り回されたままの人生なんてまっぴらごめんだ。死ぬときは病気か老衰と決めている。
 生きることを諦めてはいけない。諦めたら付け入られてしまう。逃げなくては、もっと、遠くへ。

 せめて少しでも距離を取りたくて、差し掛かった十字路を右に曲がる。一瞬でもあれの視界から逃げたかった。けれど今日はとことんついていないのか、再びどんと誰かにぶつかってしまう。先程よりも私に勢いがなかったためか、突然飛び出したにも関わらず、いとも簡単に抱き止められたが。
 転びはしなかったものの、この状況にデジャヴを感じる。まさかまた厄介なのがいるのでは、と咄嗟に相手の顔を見上げた。


「おっと、大丈夫ですか?」


 優しく紡がれる言葉と柔らかな声。ぶつかったというのに少しも気にしていないようで、驚きはしているものの、私を見下ろすその瞳は温かい。
 ぽろりと、私の頬に涙が一粒、落ちた。


「か、」
「ん?」
「神様……」
「…はい?」



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