メシウマ彼女

彼がその店を知ったのは偶然だった。と言うより、最早奇跡に近い。

彼はそれを女神の導きと信じてやまない。

女神?と人は言うだろう。そう、女神。彼にとってその人はまさしく女神に他ならなかった。


自分を好きだと言ってくれた女性と付き合い始め、人生初の恋人に舞い上がり、あなたと一緒に暮らしたいの、という言葉に人生の絶頂にいると感じながら頷いた。

一緒に暮らし始めると女性には意外なほどお金がかかるのだと知った。化粧品、洋服、アクセサリー、香水、お菓子…。彼にはよく分からなかったが、彼女に可愛らしくおねだりされると全てがどうでも良くなり、望むだけのお金を渡してあげた。

やがて2人の家には物が溢れかえるようになり、足の踏み場にすら困るようになった。

流石に困った彼にそのことを伝えると、彼女は一瞬ぞっとするほど冷たい瞳で彼を睨んだ後、無言で荷物をまとめ始めた。怒らせてしまったのかと気付いたが、今まで恋人などいなかった彼に異性のご機嫌取りなど出来るわけもない。

明日になれば機嫌を直しているだろうかと思って早めにベッドに入ったのだが、朝目を覚ました彼は愕然とした。

部屋の中はまるで物取りにでもあったかのような有様だったのだ。金目のものは全て消え失せ、戸棚の中に隠しておいた現金までもが綺麗さっぱり消えていた。

彼女に相談しようと部屋を探し回ったところで、ようやく気付いた。

部屋が異常に片付いている、違う、物が減っている。

金目のものだけではない。彼女のものが減っていた。玄関を所狭しと埋めていた靴も、クローゼットからはみ出し天井のロープからぶら下がっていた服も、引き出しから溢れかえっていたアクセサリーの数々も。まるで夢のあとのように無くなっていた。

ここでようやく友人の言葉が思い出された。

彼の数少ない友人達は彼女の話をするたびに顔をしかめて言ったものだ、そんな女とは付き合うべきじゃない、お前は金蔓としか見られていない、さっさと別れるべきだ、と。可愛い恋人に恵まれなかったやっかみだろうと聞き流していた。

彼はどうしているだろうか。最後に会ったときは彼女のことで喧嘩別れになってしまったのだった。

「それにしても…部屋が広くなったな…」

彼に言えたのはそれだけだった。


給料日までまだ日がある。当面の問題は食費だった。

家にはいくらかの買い置きがあったが、到底次の給料日までもたない。今月分のお金は全て彼女に使い切られ、明日のパンを買う余裕も無かった。一日一食の日が始まりそうである。



「腹が減ったなあ…」

昼休み。職場にいると同僚たちの昼食にみじめな思いをするだけだと分かっていたのでこっそりと抜け出してきた。路地に積み上げられた木箱に座り、することもなく空を見上げる。

ちょうど昼時で、通りに漂う美味しそうな匂いが益々彼の腹を切なくさせた。ああ空が青い。あの雲がパンだったらなんて大きくて幸せなんだろう。

「空にパンが浮いてるって幸せだなあ…」

腹が減り過ぎて何も考えられない。

空に浮かんだパンを食べようと手を伸ばしかけて目の前を歩く女性が目を見開いてこちらを凝視していることに気付き、慌ててその手をおろした。

「あの、あの、そのですね、えっと、」

「お腹が空いているんですか?」

しどろもどろに説明を試みた彼に、救いの手が差し伸べられた。

長い髪が彼女の首を傾げる仕草に合わせてさらさらと零れ落ちる。日差しを受けて黒髪がきらきらと輝いて見えた。

艶やかな、けれども例の恋人よりも自然な色合いの唇から紡がれた言葉に答えたのは彼の腹の虫だった。

ぐうぅぅぅぅー…

盛大に鳴り響いた空腹を訴える音に彼女はまたもや目を丸くしたものの、すぐに目元を緩めて慈愛に満ちた表情になった。

「すみません、食べるものはさっきリヴァ…知人に渡してしまって…」

すまなそうに眉を下げて謝る女性の姿に彼はぼーっと見とれていた。彼が付き合っていた恋人は、果たしてこんな言葉をかけてくれただろうか。

「大丈夫ですか?…もし良ければこれをどうぞ」

そっと差し出された手は恋人の見慣れた手より黄みがかっていたが、子供の肌のように滑らかに見えた。

「い、良いんですか?!」

最早藁にも縋る勢いだ。いい年をした成人男性が一日一食で耐えられるはずも無い。良いんですか、と問うておきながら彼の手は差し出された小さな包みを握りしめていて。今更断られてもその包みを返せるかは自信がなかった。

「もちろん。どうぞ」

女神は彼にその包みを渡し、それでは、と優雅に立ち去った。



その場で渡されたサンドイッチを完食した彼が同僚にとても美味しいサンドイッチを食べたと自慢したところ、それは最近人気の店ではないかと教えられることになる。その店では食材こそ普通のものを使っているが、味が他店とは比べ物にならないのだと言う。サンドイッチを扱っているかは知らないが、それ程別格の味ならばそこしか考えられないらしい。

半信半疑で店を訪れた彼はそこに立つ女神の姿に文字通り腰を抜かし、同僚に呆れられることになる。

事情を知った女神は彼に同情し、次の給料日までの間仕事終わりに店を手伝ってくれないかと提案してくれた。御礼は現物支給。店の売れ残りを渡してくれるのだという。
正直ご飯さえもらえるなら何でもいい。そしてそれがあんなに美味しい天上の食べ物なら文句などあるはずもない。
彼は是非も無く同意し、しばらく店を手伝うことになった。

女神は子どもの頃を思い出す、と懐かしそうに笑っていた。どうやらこの人は幼少期から料理の才能に溢れ、パンを売っていたらしかった。そこで知り合った顧客の少年が護衛役をしてくれるお礼に商品のパンを渡していたのだそうだ。
少年が護衛?とは思ったが、女神の思い出を汚すのは本意ではなかったので黙っていた。

これが、彼の女神との邂逅である。


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