月×日(晴れ)
妹の目が覚めた。
小さく身動ぎした後、妹がゆっくりと目を開けた。自分と同じ鳶色の瞳が、ぼんやりと虚空を見詰めたあと、俺たちの方に向く。
「……あら……? ここ……どこ?」
発せられた言葉に、月夜が僅かに眉を顰める。
「気分はどうだ? ……ヒナ」
「あまり良くないわね。いつもの事だけど」
「……ヒナ、今自分が何歳か覚えているか?」
「変な質問。この前二十歳になったでしょ。ミヤと一緒にお祝いしてくれたの、忘れた?」
「そう、か……」
ミオが口元に手を添え思案顔をする。思った通り、この妹は“前の”妹だ。
「ねぇ、何かあったの? さっきから変よ」
「……まぁ、色々な。それより腹減ってないか? 何か食えそうなら今のうち食っとけ」
「うぅん、要らない。それより、ここは何処? 病室じゃないわよね?」
視線を巡らせた妹が、少し不機嫌そうに訊ねる。その質問に、ミオが答えた。
「此処は、我々のセーフハウスだ」
「セーフハウス? 病院で何かあったの?」
「いや……そうだな、ヒナ。今から説明するが、体調は大丈夫そうか?」
「たぶん……大丈夫よ」
そう言って頷いた妹に、俺たちはゆっくりと説明を始めた。
* * *
一通り事情を聞き終えた妹は、疲れたのかまた眠りに就いた。
「なぁ、ミオ。確か前にアイツは輪廻の輪に還ったって言ってたよな? どう言う事だ?」
「その筈なんだが……単純に考えれば、残滓が表層に出たか、誰かが故意に引き戻したか、の二択になる。だが、思考を読んだ限りでは、“今の”ヒナの記憶は見当たらなかった」
「見当たらない? それって……」
「別個体の可能性も、ある」
別個体。つまり、違う世界軸の妹がこの世界に存在してしまったのか。だったら、この世界の妹は、一体何処に?
「……お前の能力で探せないのか?」
「流石の私でも無数に枝分かれした世界軸を総当たりで探すのは無理だ。せめて座標の手掛かりがあれば良いんだが」
「ヒナはいつでも病院暮らしだったからな……本人から手掛かりは出ないだろ」
「だろうな……さて。本当に、困った事になった……」
噛み締めるように、ミオが呟く。ミオの能力は万能だけど完璧じゃ無い。それは仕方ない事だし、俺には到底出来ない事だ。
「兎に角、私も手掛かりを探しに行ってくる。ミヤが一番わかっていると思うが、ヒナの体調には充分気を付けてくれ」
「あぁ。頼む」
俺と妹だけが残されたリビングに、規則正しい電子音と溜息が虚しく響いた。
*
今日一日様々な鳥に変身して目標を尾行していたわたしは、高層ビルの屋上でヒトの姿に戻り、思わずその場にへたり込んだ。
「はぁ……疲れた……」
合流地点であるそこに居た月夜が、携帯端末片手に呆れの視線を寄越す。
「運動不足じゃねぇの、引き篭もってばっか居るからだ」
「うるさいな、運動量の問題じゃないでしょう」
ムッとして言い返すと、月夜の隣に居た青年が、まじまじとわたしを見ていた。指を弾いて禁書の『言語』を取り出し、空中で彼の目の前に広げる。
【こんな夜更まで付き合わせてごめんね。眠くない?】
「えっ、と。大丈夫」
些か緊張した面持ちでそう返したのは、白き罪人の衣装を纏った黒羽快斗……もとい、怪盗キッド。わたしの協力者として月夜に頼んで紹介して貰ったのだ。彼には、これから一仕事していただく予定だ。
「それにしても、ホントに何にでも変身出来んだな。すげぇ羨ましい……」
【キミの変装も中々のものだと、珍しく月夜が褒めていたけれど?】
「えっ!? マジ!?」
「うるせぇ。褒めてねぇし。嘘つくんじゃねぇよ、エレ」
「全く、素直じゃないな。それより、準備はいいの」
「今やってる。お前こそトチんじゃねぇぞ」
「誰に言ってるの? まさか、わたし?」
「フン……オイ、カイト。手順は分かってんな?」
「勿論だって! こんなにワクワクすんの、久しぶりだな……オレはいつでも行けるぜ?」
ニヒルに笑った怪盗キッド。でもその瞳は子供みたいにキラキラしている。聞くに、
「……周辺電子機器の同調完了。エレ、始めていいぞ」
「わかった」
頷いてから、両翼を解放する。羽根を撫でる夜風が気持ちいい。
大きく息を吸い込んで──
* * *
[──……昨夜起こった大規模な停電は、突如現れた怪盗キッドの犯行とする考えを、警視庁の捜査本部が会見で表明しました……──]
セーフハウスのTVニュースを横目に見つつ、換気扇の下で紫煙を燻らせる青年に意識を向ける。はっきりとした目鼻立ちに、一際目を引く鮮やかな海色の瞳。パンキッシュな髪型や服装は少し軽薄そうに見えるが、性格は至って合理主義だ。
『雨宮雫』──黄昏の会の協力者。経歴は不明。戸籍はあるが、それ以外の情報は全く出てこない。ウィザード級ハッカーとして三本の指に入る『
「……いくら何でも吸い過ぎだ。一日に何箱空けるつもりだ?」
「んー? これでもだいぶ減らしたけどなぁ……今は、一日三箱くらい?」
「嘘だろう……?」
ヘビースモーカーも大概にしてくれ。見ているこっちが心配になる。片手にタバコ、逆の手に携帯端末。先程から視線も上げずにそれを弄る姿に、自分の協力者である双子の兄の方が脳裏を過ぎる。確かに口調は似てるが……まだあの兄の方が、協調性はある気がする。気がするだけだ、気のせいかも知れない。
(……そう言えば、最近連絡が無いな)
そんな事を考えていると、シズクが「はぁー?」と不満げな声を上げた。
「何かあったのか?」
「いや……うーん……マキちゃん、暫くお休みだってさ。その代わり……」
シズクがそこまで言った時、まるでタイミングを見計ったかの様に、玄関が開く音がした。
*
「何だその鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔は。頗る心外だ」
「……た、タナトス……」
「ご機嫌よう。それよりシズク、ミヤからの報告には目を通したか?」
「ついさっきな。何でよりによってお前が? サポートならミヤビか月夜でも良かったんじゃねぇの」
「矢張りそう思うか? 私もそう思う」
軽く肩を竦めながらソファーに陣取ったタナトスに、シズクが心底面倒そうに後髪をかき混ぜる。
「まさか監視か? 俺が何したっつーんだよ」
「おや、心当たりがあるのか? それは上々、態々来た甲斐が有ると云う物だ」
「へーへー、心当たりしかねぇですよー」
ケッ、と悪態をついたシズクを無視して、タナトスはローテーブルに持参したノートPCを開く。
「……今日の任務は武器取引の襲撃だったな。標的側の警護に連邦の軍人上がりが居る筈だから、呉々も怪我にだけは気を付けるといい」
「そこまで分かってんならさぁ、アンタも前線に出てくれりゃあ助かるんだけどな?」
「それだとお前たちの仕事が無くなるだろう。バックアップは完璧なんだ、有り難く思え」
「何この暴君。ねぇアムロサン、なんか言ってやって?」
「…………タナトス……君は……」
何故、どうして。その先の言葉に詰まって居ると、赤と青の双眸が俺を見た。
「……その疑問に対して、私は答えを用意して居る。それより先に、この任務を遂行する責がキミにある。……理解出来るか?」
「そ、れは……いや、そうだな。必ず成功させる。そしたら……」
「その先は不要だ。ほら、そろそろ出ないと遅刻するぞ。五分前行動厳守」
急かされた俺とシズクが準備を終え指定地点へ向かいながらも、先程の言葉が頭から離れない。
(答えを用意している、か……何もかもお見通しという訳だ。相変わらずだな)
その答えを聞く為にも、今日の任務は成功させなければならない。気を引き締めて、目的地である都内の商業ビルの空きテナントに、シズクと共に忍び込む。あと数時間後に、この下の階で武器取引が行われる。こんな街中で堂々と取引しようなど呆れてしまうが。
暗い室内に、事務机が並んでいる。前は小売店の事務所だったその場所には、当然ながら人気は無い。窓際の床に座りノートPCで作業を始めたシズクに声を掛ける。
「……レムは、まだ来ていない様ですね」
「そのうち来るだろ。それよりさぁ、バーボン、アイツと仲良いの?」
「アイツ……? タナトスですか?」
「そー。で? どうなの?」
「別に、顔見知り程度ですけど……何故そんな事を聞くんです」
「んー……念のため?」
「念のため……とは」
訊き返すと、シズクは一拍置いてから口を開く。
「……
流暢なドイツ語でそう言ったシズクは、画面から顔を上げ、真っ直ぐ俺を見た。暗闇の中だというのに、鮮やかな海色が妖しく煌く。
「……異能ってのは、本当は誰にでもあるモンなんだよ。それが芽吹くかどうかの違いだけだ」
「つまり、タナトスたちに触発されて、僕にも異能が目覚めるかも知れないと?」
「そー。それが『アタリ』な能力だったら良いが、もし『ハズレ』だったら……下手すりゃ死ぬし、良くて廃人コースだな。気ぃ付けろよ」
「前例があるんですか?」
「さて、どうだったかな……“こっち”ではまだ無ぇと思うけど」
この話終わり、と呟いて、シズクはまた画面に視線を下ろす。
「……それにしても、ドイツ語がお上手ですね」
「まぁ、一応クォーターだからな。うちの爺さん日本語出来なかったし」
「成る程。だからそんなにネイティブな発音なんですね。羨ましい」
そう言えば、ミヤビはありとあらゆる言語を流暢に話していたが、あれは独学なんだろうか……と考えて居ると、通路の方から人の気配がした。
「……そろそろ始まる様ですね。レムは……」
「お待たせ。遅くなってゴメンね、ちょっと野暮用があってさ」
入り口の方から、レムが足取り軽くこちらへ向かって来た。いつの間に? 全く音も気配も無かった。
「あれ? もう一人は?」
「今日は体調不良でお休み。別に俺たちだけで充分だろ?」
「そっか。お大事にって伝えといて」
「電気系統と通信関係はハックしてあるから、いつでも行けんぞ」
「ありがと。ちゃんとブキは持って来た?」
「えぇ、持ってます」
「そっか。じゃあレッツゴー!」
まるでピクニックに行くみたいに軽い言動で、レムは通路へと出る。
「僕がドア開けたら三秒間だけ電気落として。キミたちは外で見張りね」
「見張り、ですか」
「まぁ誰も来ないんだけどね。後始末の方はもう頼んであるから、終わったら帰っていいよ」
じゃあね〜、とレムが取引現場の事務所のドアを開けると、シズクが携帯端末を操作してフロアの電源がきっちり三秒間落ちてから、すぐに復旧する。事務所の中から音はしない。息を呑んで居ると、レムがドアから出てきた。
「終わったよ。あ、取引相手の名簿とか、資金とかの資料だけ回収しといてくれる? 後で内容だけ送ってくれれば良いよ。もう十分くらいしたら後処理班が来る手筈になってるから、それまでに頼むね。じゃあ、おつかれさま」
そして、あっという間にレムはエレベーターに乗り込み姿を消した。
「相変わらずだな……ほら、バーボン。さっさと終わらせよーぜ?」
「えぇ……そうですね」
シズクの後を追って事務所の中に入り、その光景に絶句する。
「どうした、まさか初めて死体見た訳じゃねぇだろ?」
「いえ……ですが、これは一体……」
首と胴体が離れた死体が無造作に転がる室内に、血は一滴も付いていない。そしてその頭部のどれもが、ポカンと呆けた表情を浮かべていた。
「電子機器関連は俺がやるから、バーボンは紙媒体の方頼むわ」
「……了解しました」
平然と作業を始めたシズクに内心戦慄を覚えながらも、必要な資料を揃える為に自分も手を動かす。
(……朱に交われば赤くなる、か)
その言葉の意味を噛み締めながら。
*
「お帰り。軽食を作っておいたから食べるといい」
「おっ、やった! ミオのメシ美味いんだよなー」
「まず手を洗ってからだ」
「へーへー、わかりましたー」
セーフハウスで待っていたタナトスが、ソファーで優雅にコーヒーを飲みながら俺たちを見た。
「……“ミオ”?」
「……昔の名だ、気にするな。ほら、ゼロも手洗いうがいして来い」
言われた通りにしてからリビングに戻ると、ミヤビのタブレット端末を覗き込んでいたタナトスが何やら難しい顔をしている。
「……何を見てるんだ?」
「シズクが取引現場の事務所に予め仕掛けて置いた暗視カメラの映像を見て居るんだが……このレムと云う子供、
「カマイタチって、妖怪だろ? アイツ自分のこと死神系って言ってたけどなぁ?」
「まぁ確かに、この威力で攻撃出来る鎌鼬は稀だが……死神の系譜であれば、“影が出来ない”筈だ」
「影は……あったな、確か」
自分も記憶を掘り返して頷く。通路で先頭を歩いていたレムには、確かに影があった。
「鎌鼬……姫御前の所か……行きたく無いな」
「姫御前?」
「正式には玉藻御前と言う。妖の管理は今も昔も彼女がしているんだ」
「相変わらず滅茶苦茶な人脈だな……」
「それは心外だ。不可抗力なだけだ」
タナトスが不満そうに声を上げていると、シズクの携帯端末が鳴った。ベランダに移動したシズクを目で追った後、タナトスが小声で話しかける。
「……少し話がある。この後時間は取れるか」
「わかった。何処に行けばいい?」
「私が合流する。出来れば……ヒロも連れて来てくれないか」
「……わかった」
* * *
家に帰ると、何だか困り顔のクチナシちゃんが出迎えてくれた。
【お帰り。晩ご飯出来てるよ。あと月夜の機嫌最悪だから気を付けて】
「ただいま……って、えっ? こわっ!」
帰って早々気が休まらないんだけど。自分の家なのにそろりとリビングに行くと、心なしか黒いオーラを纏った仏頂面の月夜がソファーに座っていた。キッチンに居るクチナシちゃんの横に避難して、小声で話しかける。
「ねぇ、何かあったの?」
【まぁ、少しね。気にしなくて良いよ】
「いや、気になるんだけど……」
チラッと月夜を見ると、ギロリと睨まれる。ちょっと!? こわすぎるんだけど!?
「こら、月夜。そろそろ機嫌直しなよ。研二くんが困ってるだろう」
「うるせぇ。知った事か」
「全く……八つ当たりも大概にしなよ。さもないと……そろそろわたしも怒るぞ」
ひんやりとした声色でクチナシちゃんが言うと、月夜は少しだけ視線を泳がせたあと、ツンとそっぽを向いた。なるほど、流石の月夜もクチナシちゃんに怒られるのはこわいらしい。怒ってるところ想像できないけど。
【研二くん、気にしないでご飯食べなよ】
「あぁ、うん。わかった」
重苦しい空気の中でもクチナシちゃんの手料理は美味しい。俺の向かいに座ってお茶を飲みながら雑誌を読んでいるクチナシちゃんに、まだ不機嫌そうな月夜がそっぽを向いたまま声を掛けた。
「……エレ」
「駄目だ。もうこれ以上は手伝わない」
言い掛けた月夜の言葉に、ぴしゃりとクチナシちゃんが被せると、月夜はぐっと口を噤む。雑誌に視線を落としたまま、クチナシちゃんは小さく溜息を漏らした。
「……約束通り、妹の保護はした。わたしの能力を宛てにして、これからも会のいざこざに巻き込むの?」
「そう云うつもりじゃねぇ。ただ……今回はオレたちだけじゃどうしようもねぇんだよ」
「へぇ、神獣すら名を聞くだけで恐れ慄く饕餮殿が随分弱気だね。下界に長く居過ぎた影響なのかな?」
「……あ?」
聞いたこともないひっくい声で、月夜が凄む。うわ、急に寒気が……こわっ。
「たかがヒトの小娘ひとりに執着して……嘆かわしいな」
せせら嘲笑う様にクチナシちゃんが月夜を煽る。えっ、ちょっ、待って? 何か……例えとかじゃなく、ゆっくりと立ち上がった月夜を中心に、空気がビリビリと震えている。俺の手から箸がこぼれ落ちる。何だこれ。心臓を無理矢理氷水に突っ込まれたみたいな……身体が、動かせない。ヒュッ、と喉が鳴る。息が、できない。
「ほらね、この程度で擬態が解けるなんて、幾ら何でも絆され過ぎでしょう」
呆れた様な表情のクチナシちゃんが、まるで映画で見た狼男みたいに爪と牙を尖らせ、禍々しい角まで生えた、獣の様に低く唸り声を上げる月夜を見た。これが、月夜の正体なの? 悪魔とかじゃなくて?
「相変わらず面倒見が良いのは結構だけれど、わたしたちみたいな異形が理性の分別を弁えなければ、それはどこまで行ってもただの執着でしかない──ただのヒトにとっては抗えない呪いになるんだ。そんな事、わたし何かよりもずっと分かっているでしょう、『』?」
クチナシちゃんが、聞いたことのない言葉……いや、知ってる筈の単語、なんだけど……自分の中の何かが理解を拒む、その呼び方はたぶん、月夜の本当の名前。それだけは何故かわかる、けど……。
「あの子の御霊は……キミたちにとってはさぞかし醍醐味だろうけれど……その
諭すような、慈しむような、そんな声でクチナシちゃんが言う。さっきから息ができなくて、視界がぼんやりしてきた、けど……段々フェードアウトして行く意識のなかでも、凛としたクチナシちゃんの表情だけは、はっきりと覚えていた。
…………………………
「ん、っ……?」
ゆっくりと目を開ければ、見慣れた自分の寝室の天井。そこに、心配そうな顔をしたクチナシちゃんの顔が映る。
『……ごめん、研二くん。辛かったでしょう』
「いや……うん、だいじょーぶ……」
聴き慣れない合成音声は、クチナシちゃんが用意したんだろう。身体を起こそうとして、慌てた様子のクチナシちゃんが優しい手付きでそれを静止した。
『まだ休んでて。お腹空いてない? 食事の途中だったから』
「お腹は空いてないから心配しないで……月夜は?」
『……帰ったよ。しばらくは戻らないと思う』
「そっか……あのさ、クチナシちゃん。ずっと聞きたかったことがたくさんあるんだけど……聞いてもいい?」
俺の言葉に、クチナシちゃんは少しだけ息を呑んだあと……ゆっくりと、頷いてくれた。
『……研二くんには、知る権利がある』
薄水色の瞳が、不安そうに揺れながら俺を見た。
「ん……ありがと。クチナシちゃん……」
そっと、その愛おしい頬に触れる。
「俺はあまり頭が良くないから……質問ばっかりしちゃうと思うけど……それでもいい?」
夜を絞って水に流したみたいな、長く柔らかい髪に指を這わせる。するんと何の抵抗もなく毛先を通り過ぎた指を、何度も何度も確かめる様に、その輪郭を撫で続ける。
『……どこから、話そうか?』
「んー……どこからでも? そうだねぇ、初めから、とか」
『わかった。でも、それだと……きっと……時間が足りないね』
くしゃりと両眼に涙を溜めて微笑んだクチナシちゃんが、どうしようもなく愛しくて──無理矢理奪ったくちびるは、とても柔らかい、涙の味がした。
* * *
ピッ、ピッ、と規則正しい電子音は、彼女がちゃんと生きている証拠の音。
「……モロフシくん。俺が替わるから、いい加減休めって」
「ああ……でも、もう少しだけ……」
最後に触れた時よりも、すっかり細くなってしまった彼女の手を握ったままで、振り向きもせず答えると、ミヤビは溜息混じりに「あと三十分だけな」と言い残し部屋を後にした。
「……ヒナ」
死んだ様に眠り続ける愛しい
「……ごめん、ヒナ……何も、出来なくて」
額に押し付けた彼女の冷たい指先。その薬指には、俺が送った指輪が淡く光る。
「ヒナ……」
震える声を絞り出していると、閉めていた筈の窓から風が吹いた。夜明かりを背景に、もうすっかり聞き慣れた声の主が、ふわりと巻き上がったカーテンの隙間に、その華奢なシルエットを浮かび上がらせた。深いエメラルドグリーンの双眸だけが、闇の中でもはっきり分かる程、強く煌めいている。
「なぁ……オレと、手を組まねぇか。対価は……そうだな、妹だ」
それは、まるで悪魔の囁きにも似た甘美な響きだった。二つ返事で声を上げたくなるのを必死に抑えて、その問いに答える。
「……対価、と言うなら代償があるのか?」
「そりゃ、な。アンタは──総てを……地位や人脈、親兄弟も何もかも……喪う覚悟があるか」
「何も、かも……喪う……」
つまり、俺のこれまでの人生を
「……悪いけど、その取引は受けられない。俺がそうやってヒナを助けても……きっとヒナは、喜ばないから」
そんな事をしても、あの優しい彼女は自分のせいでと傷付くだろう。だから、この魅惑的な提案を、俺は受ける事は無い。
「そう、か……だったら、力尽くでも……!!」
ざわり、と腹の底が荒立つ様な感覚。これまでも幾度となく経験したその感覚は、紛れも無く、命の危険を本能が知らせる感覚。
全身を逆立てる様にしながら、月夜が一歩踏み出す。
(ッ、ヒナ……!!)
この状況でも眠り続けるヒナを庇う様に覆い被さり、ギュッと目を閉じる。
……どれくらい、そうしていただろうか。
何時間もそうして居た様な、一瞬だった様な。しかし一向に何事も無い状況に、薄らと目を開ける。
「全く……世話が焼ける野郎ばかりで困る」
鈴が鳴る様な凛とした声で、“それ”は心底呆れた様に言った。
「初めまして……キミがこの子の“特別”だな? 成る程……理知的な良い眼をしている」
淡く光る両翼は、白色の華飾で彩られ。
「まさか月夜がこれ程まで入れ込んで居るなんて……ニケを隠したのが悪かったのかな? でもなぁ、あれは仕方がなかったし……不可抗力だけれど」
声の主が翳している手のひらのすぐ側で、シャボン玉の様な虹色の膜に包まれた月夜が、胎児のように丸まりながら穏やかな顔で微かに寝息を立てていた。
「……きみ、は……?」
辛うじて絞り出した声に、幼馴染みの瞳にも似た、それよりも淡い薄水色が、ゆっくり俺へと向いた。
「名乗り遅れたね、わたしは……キミたちが『エレ』と呼ぶ者だよ、諸伏景光」
「……! 君が……あの、エレ?」
呼ぶと、春の空みたいな双眸が優しく細められる。
「本当は生涯会いたくなかったけれど……不可抗力、不可抗力」
そう言いながら、『エレ』は翳した手を緩やかに握り込むようにしたあと、まるで
「今、時間を止めているから他の人に気付かれる心配は無いよ。そう、例えば……リビングに居る、タナトスにもね」
「……!! 君……いや、エレ、さん」
「ふふっ……その呼称はただの符号だから、敬称は要らないよ。あぁ、でも……時間停止はまだ慣れて居ないから、この状態は長くは保たない。だから手短に此方の用件を伝えさせて貰うけれど、悪く思わないでね?」
やっと闇に慣れた目が、絵画から抜け出た天使像みたいな『エレ』が淡く微笑むのが見えた。
「……“縁が貴方を導くでしょう。今までも、これからも”……だから、そんな顔をしないで。この子はきっと、それを望まない」
まるで糸が切れたように──そこで、俺の記憶は途絶えている。