狐の神域

 自宅のベッドでうとうとしていると、リビングでインターフォンが鳴った。

(……誰だ?)

 本宅では無いが、この場所を知っているのは『黄昏の会』のメンバーだけだし、そもそも彼らにインターフォンを鳴らすという殊勝な心がけはない。
 誰も知らない名義で借りているため、例え公安で調べても、ここの住所にたどり着く事は不可能。
 尾行しようにも、私はこの場所に来るのに玄関を使った事がない。

 時刻は午前一時。

 宅配業者でもないとすれば、一体誰なのか。
 音を立てずにインターフォンのモニター前まで移動して、画面を見るが誰もいない。

(霊障か?)

 自宅でひとりのため、赤と青のままだった目を凝らす。
 ドアの外にも通路にも、誰もいない。
 過去視を使っても、何も見えなかった。

(……故障? いや、違うな……遠隔か?)

 何者かに、試されている。
 家の中は結界域なので、安全だが。

(……この部屋、結構気に入ってたんだがな……)

 ため息混じりに部屋の廃棄の予定を立てて、再びベッドへと潜り込んだ。

 *

 私の能力『矢避けの加護』は、飛び道具無効の効果がある。この能力を無効化するには、また別の能力、よく私が使う認識阻害にもこれなんだが、物質や物事に対する確率を変動させることができる『神の賽子(サイコロ)』で能力阻害しなきゃいけないんだが……まぁ、つまり、意識してないと『矢避け』は自動発動するわけだ。

「……千影? どうした」

 臨場要請があり、いつもの通り捜査一課に同行した先の公園。私が顔を顰めたのを見たミヤが、小声で話しかけた。
 ミヤだけに見える位置で、そっと左手を開く。その中には、親指ほどの大きさのスラッグ弾。

「うげぇ……銃声はしなかったが、狙撃にしてはえげつねぇチョイスだな」
「殺す気でやったんだろ。死なないけど」
「お前はクソトカゲより丈夫だからなぁ……で? 誰がどっから狙ったんだ?」
「さぁな。心臓の裏側に現れた」
「現れた、か。物体移動だとしたら、めんどくせぇな」
「物証残すような馬鹿だ。後でとっ捕まえてギチギチにシメ上げてやる」
「おー、こわっ!」

 けらけら笑うミヤに呆れの視線を返し、薬莢をポケットに忍ばせる。

「……私を狙うとは、怖いもの知らずな」

 昨晩のインターフォンの事も関係があるだろう。私だけを狙うのならむしろ好都合。死の神(タナトス)に宣戦布告とは、大したものだと思う。

 *

 特派の部屋は、ドアを閉めると完全防音になる。

「能力者が見つからなかった? お前(タナトス)が探したのに? 珍しいな」

 ミヤがコーヒーの入ったマグカップを傾けながら、少しだけ驚いた声を出す。

「あの空薬莢、警視庁の証拠品保管庫にあったヤツだったんだよ」
「そりゃあ……色々ツッコミどころがあるな」
「緊急時以外で警視庁(この中)で異能を使うのは会の禁則事項だし、どうしたものか」
「しっかし、何でお前が狙われてんの? お前の異能を知っててやってんだったら、相当無謀だと思うがなぁ。フルヤくんたちから情報漏れたか?まさか俺ではないだろうし」
「……ミヤは会でちゃんと対ミーム処置してるからな。スピリタス関連は情報露顕時にわかるようにしたから……私の能力が漏れたわけではなく、最初から知っていたか、誰かに教えられたか」
「だとすると、個人じゃなくて組織か……うーわ、めんどくせぇ」

 ほんとにな。めんどくさい事この上ない。

「で? どうすんの」
「とりあえず放置だな。今のところ私以外の実害は無いし」
「随分と悠長だな。まぁ、その方が相手も油断するか?」
「どうだかな……他にやる事あり過ぎて構ってやれないとも言う」
「はっは、かーわいそ!」

 何がそんなに楽しいのか、ミヤはまたけらけらと笑った。

 *

 降谷には最近、悩み事がある。

 他人に相談するには些細な、気のせいと言われてしまえばそれまでの、些末な悩み。
 数あるセーフハウスの物の位置が、帰るたびに若干変わっているのである。
 誰かが侵入した形跡はない。
 無意識のうちに自分で触って動かしたか?
 微弱振動によって動いたか?
 とりあえず、疲れてるか思い違いかな、で片付けられる程度の違和感の、数センチの記憶の誤差。
 それが一週間ほど続いたある日、雨音が久々に『ゼロ』の捜査室の扉を開けた時である。
 彼女が、盛大に眉根を寄せたのは。

 *

「……成る程、狙いは降谷か。そうか」

 雨音の口から、なかなかに聞き捨てならない言葉が漏れた。ちょうど側にいた風見が怪訝な顔をする。

「雨音? 何のことだ?」

 問われると、目線で『ちょっといつもの場所に来い』と言われる。
 ヒロも連れていつもの電波暗室へ入ると、雨音はいきなり俺の背中に向かって指を鳴らした。

「……『ばろう』だな。どういう事だ?」

 ぐちゃり、と湿った音を立てて床に落ちた赤黒い半透明の……透けてる……何だこれは。
 絶句する俺たちを無視して、雨音はしゃがんでそれを赤と青の瞳でじっと見つめると首を傾げた。

「……降谷、これが何に見える?」
「何って……赤黒い、肉塊?ぐちゃぐちゃの」
「そうか。諸伏は?」
「えっと、何かでっかい頭……人間の。ぐちゃぐちゃの」
「風見さんは?」
「子供……二、三才くらいか。ぐちゃぐちゃの」
「うん。間違いなく『ばろう』だな。ちなみにこれの正体は野干……狐だ」

 そう言うと、雨音は躊躇いなくその気持ち悪いナニかを片手で掴み上げた。

「境寿巫が問う。使役は誰か」

 ぐぎゃあ、と何とも耳障りな音を立ててその塊が暴れる。

「……埒が明かんな。消えろ」

 ボソリと低く呟くと、じゅう、と鉄板が焼けるような音と共に、その塊が末端から灰になり……消えた。

「……降谷」

 名を呼ばれ、我に帰る。

「いつからだ?」

 何が、と問わずとも心当たりがあったので、正直に答える。

「一週間ほど前からだ」
「そうか」

 短く言うと、雨音は立ち上がり俺の顔を覗き込む。

「……どこで拾った? あれは地方の山奥に入らないと憑かない」
「は? 山奥……?」
「心当たりなし、か。では憑けられたと考えるべきか」

 得心した様子で頷くと、雨音は黙り込んだ。

「……え、今の気持ち悪いのが狐って……妖怪とかだよな? うえ、初めて見た……」
「降谷さんの背中にあれがずっと……」
「おい風見やめろ。俺が一番ショックなんだからな!」

 あんなものがこの一週間ずっと背中に……考えるのもおぞましい。

「……降谷」

 雨音が些か強張った声色で俺の名を呼ぶ。

「……これから『黄昏の会』の本部へ来てもらう。拒否権はない」

 今度こそ、思考が止まった。

 * 

 雨音──いや、今は『タナトス』なのか。

 漆黒を基調に、所々に繊細な意匠が施され、コバルトブルーのアクセントが効いた、かっちりとしたお仕着せ。軍帽と、黒い革手袋を嵌めた雨音と、『黄昏の会』の本部を歩いている。
 何度か指を弾いて辿り着いたそこは、永遠に続くのではないかと錯覚するほど長く続く、緩く湾曲した通路に二人分の靴音が響く。

「今から会うのは姫御前……正しくは玉藻御前だ。前に声は聞いた事があるだろう?」
「あぁ……俺を食うとか言ってた奴か」
「そうだ。一応言っておくが絶対に本体には触るな。あれは瘴気の塊だからな……ここだ。いいか、姫御前に何を言われても口を開くな。それから間違っても絶対に本名は名乗るな」
「わかった」

 神妙に頷くと、雨音はドアの横にあるタッチパネルに左手の甲をかざす。手袋に何か仕込んであるのだろうか。そして、小さな機械音のあと、無機質な扉が横にスライドして開いた。

 そこは、とにかく広い……五十畳ほどはあるのではないだろうか。
 その真ん中に、絢爛な着物姿の少女が座っていた。見た目で言えば、五、六才と言ったところ。
 そして、畳には杭が穿たれ、少女を囲うように渡された紙垂の垂れた注連縄。そしてその四方の杭からは、同じ様な注連縄が、その少女の細い首に繋がれていると云う、何とも視覚的にも倫理的にも異様な光景が、ただならぬ雰囲気を醸している。
 だだっ広いのに、どことなく息苦しく感じるその空間で、幼い少女が口を開く。しかしその声は、少女などではなく……どう聞いても成人女性のそれだった。

「おぉ、狐巫女。連れてきてくれたと言う事は、その男、喰ろうて良いと云う事じゃな?」
「いいわけがあるか。それより姫御前、この男に『ばろう』が憑いていた。あれは山彦の管理ではないのか」
「ほぉ、ばろう、とな? おかしいのう、アレは彦ので最後だと思うておうたが。逃したとは聞いておらぬな」
「……姫御前もわからないか……となると、心底行きたくないがそうなるか」
「そうさの、銀狐の処へ行った方が早かろうて」
「あぁ。通らせてもらうぞ」
「好きにせい」
「そのつもりだ。安室、行くぞ」

 名を名乗るなと言うのは、よく伝承などにある魂を取られるとか、そういうものなのだろう。
 安室の名で呼ばれ、先に部屋の一角へと向かった雨音の後を追う。先程から気になっていたのだが、畳の上を土足で歩いていいんだろうか。
 入り口から部屋を真っ直ぐ進んだところの壁には、また扉とタッチパネル。雨音は先程と同じ事をして、扉が開いた。
 その向こう側の景色に、足が止まる。

「……呆けてないで早く来い。それとも姫御前と二人きりになりたいか」

 雨音に無表情に言われ、慌てて一歩踏み出すと、背後で扉が閉まる音がした。

「…………森?」

 森。しかも屋久島とかそういうところの。苔生した岩や土、小さな清流が涼しげな音を立てている。高く伸びた杉や櫟が、太陽の光を探して神秘的に煌めく。
 そして正面には、年月を感じる朱色の鳥居。
 惚ける俺に構わず、雨音はその横にある小さな祠に話しかけた。

「申す、申す。境寿大燗垠狐への目通りを請う」

 数秒の後、酷くか細い声が祠の中から返ってくる。

《お通り下さい》
「ありがとう」

 何だかファンタジー映画でも見ている気分だ。まるで現実感がない。

「……これから行くのは九尾の神域だ。君には私の加護があるから神気に中てられる事は無いと思うが……もし具合が悪くなったら直ぐに言うように」
「あ、あぁ。わかった……が、何しに行くんだ? 俺に憑いていたのってそんなに悪いものだったのか?」
「いや、ただの雑魚だ。ただ、アレは監視と管理をしているし、自然に増えるようなモノでもない。さっき姫御前と話したように、最後の一体は姫御前の部下が見張ってる筈なんだ」

 顎に指を添えた雨音が、何かを考えるように小首を傾げる。

「そうそう増えるモノでも、人里に下りてくる様な類のモノではない。ましてや容易く作れるようなモノでも無いから、その親玉に訊きに行くんだ。蛇の道は蛇、馬は馬方だ」
「つまり俺は、今から妖怪の親玉に会いに連れて行かれる訳か」
「そうだ。ただ、銀狐は何するかわからないから少し死ぬ覚悟はしておけ」
「少し死ぬって何だよ……この前の風見みたいに魂でも取られるのか?」
「それだけで済めばいいけどな」

 ため息混じりに言うと、雨音は俺の顔をじっと見て、少しだけ眉尻を下げた。

「……本当は、君を銀狐に会わせたくないが、背に腹は変えられない。すまないが、理解してほしい。私が必ず守る」

 申し訳なさそうにそう告げた姿は、『タナトス』ではなく、『雨音』の本心なのだと少し安堵する。

「……お前がそう言うなら、俺は信じるしかない」

 答えると、雨音はほんの小さく微笑んだ。

 * *

 銀狐の社へ続く石段は、銀狐の機嫌によって段数が変わる。今日は二百五十六段。随分と機嫌がいいらしい。当然か。

「……大丈夫か?」
「あぁ……しかし、すごいな……」

 降谷が目の前の広々とした本殿を見ながら感嘆した。

「安室、こっちだ」
「庭から入るのか?」
「真正面から入ると屋敷の構造変えて遊ばれるから嫌なんだよ」
「……そうなのか」

 銀狐が飽きるまで迷路遊びなんて御免被るので、庭から回って屋敷に上り、客間へ向かう。

「銀狐、居るか」

 私が声を掛けると、障子が勝手に開く。降谷を伴ってその部屋に入れば、上座で茶を啜る金髪金目の狐がにこりとわらった。今日は青年ほどの姿の気分らしい。降谷よりも色味の強い長い髪がさらりと揺れる。

「おやぁ、よく来たねぇ。中々遊びに来ないから、ボクの方から行こうかと思ってたんだぁ。まぁ、二人とも座りなよぉ」

 降谷がとても微妙な顔をしている。言いたい事はわかる。だってあれは銀狐を真似てたんだから、当然と言えば当然なんだが。
 向かいに並んで座ると、銀狐はこてん、と実にあざとい仕草で小首を傾げた。

「それで? ボクに何を聞きに来たのかなぁ? わざわざこんな辺鄙なトコまで来たんだから、それなりの理由なんだよねぇ?」
「知ってるくせにわざわざ訊くな。『業士』が出てるだろう。何処に居る」
「もう。相変わらず連れないねぇ。折角遊びに来たんだから、もう少しゆっくりして行ったらどうかなぁ? ボクもキミたちに聞きたい事もあるしねぇ」

 こりゃダメだ。銀狐の気が済むまで話し相手をするしかなさそうだ。
 ちらりと横を見ると、降谷がポーカーフェイスを保ったまま微動だにせず正座している。さすがと言いたいところだが、私が出来る事は大体銀狐も出来るので、降谷の考えている事はお見通しなわけだが。

「それで? 聞きたい事とは? さっさと済ませたいんだが」
「やれやれ、せっかちだなぁ。ところで、隣の小童は誰かな? 紹介して欲しいんだけどなぁ」
「私の友人の……安室だ」
「ふぅん。安室くんかぁ。ボクは境寿大燗垠狐(きょうじゅたいがんぎんこ)。みんなはボクの事、銀狐って呼ぶんだぁ。よろしくねぇ」
「……はい」
「そんなに緊張しなくていいよぉ。何も取って喰いやしないよ?まぁ……今のところは」
「こら銀狐、脅すな」

 くつくつと藤色の狩衣の袂で口元を隠して笑う銀狐を嗜めていると、銀狐の眷属の六花のひとつ、牡丹がお茶と茶菓子を持って来た。

「やぁ、牡丹。久しいな。変わりはないか?」
「はい、姫巫女さま。恙無く」
「そうか。皆にも宜しく言っておいてくれ」
「ありがとうございます。お伝えしておきますね」

 ぺこりと可愛らしく頭を下げると、牡丹は部屋を辞した。

「ボクにはそんな事、ちっとも言ってくれなかったのに、相変わらず六花たちには甘いよねぇ」
「六花たちは銀狐と違って可愛いからな。当然だ」

 目の前に置かれたお茶を一口飲んで、ふと隣の降谷を見る。

「……安室、此処では黄泉竈食ひも毒も無いから安心して飲んでいいぞ?」
「そうだよぉ。遠慮せずに召し上がれ?」
「あぁ……頂きます……」
「大丈夫か? 随分と口数が少ないが、具合でも悪いか?」
「……あのですね、驚き過ぎて言葉が出てこないんですよ。察してくれません?」

 口調が安室……いや、これバーボンだな。

「銀狐様は話し方、あの子(スピリタス)と同じなんですね。いや、逆なのか。アナタ、銀狐……様、を真似てたんですか?」
「あっは! ねぇ聞いた? ボクのコト銀狐『様』だって! 柊も見習って欲しいなぁ!」
「銀狐を敬う謂れはない」
「……柊、とは?」
「あー……此処での私の名前だよ」
「……あなた、あっちこっちで名前が変わりすぎでは?」
「それについては……否定はしないが」

 ほんとそれな。私もそう思う。

 * *

 くつくつと笑う、男の俺から見ても見目麗しい男──隼雀も大概だと思うが、銀狐と呼ばれる九尾の狐は、当たり前だが浮世離れした美丈夫だった。
 しかし何と言うか……威圧感とでも言うのか。纏う空気がまず違う。ピリピリと肌が粟立つ俺を他所に、雨音は銀狐に素気無い返事ばかり返すので、こちらとしては気が気ではない。
 そして何より、銀狐の話し方がスピリタスそのもので、雨音はきっと無慈悲な全能者を演じる上で銀狐を思い浮かべたのだろうと考え至る。
 そしてその二人(?)は先程から他愛のない世間話を続けている。視線を落として自分の左腕にはまる腕時計を見遣ると、此処に来てから一秒も時を刻まないまま針は停止している。

「……それで、安室くんだっけ? キミは柊の事どう思ってるのかなぁ?」
「やめろ銀狐! おこるぞ」
「あっは、だってキミがボクに目通ししたんだ、有力候補でしょ? で、どう? 柊と番いになる気はあるのかなぁ?」
「銀狐!!」
「は? えっ……? 番い??」

 番いって……あれだよな、つまり……男女のアレやソレな関係になるか、という意味か?

「番い……ですか……?」
「そんなに何度も反芻しなくていいし、銀狐の言う事は気にしなくていいからな」
「もぅ、またそうやってはぐらかすの良くないと思うなぁ? そろそろ決めないとククリに頼むよ?」
「菊理媛に頼むのは止めろ、洒落にならん!」

 バン! と雨音が勢いよく机に両手を置いた。しかし銀狐は涼しい顔で、俺に返答を促した。

「どう? 憎からず想っているとは思うけどなぁ?」

 全てを見透かしたような金色の瞳が、俺を映した。いつかのスピリタスのような、まっさらな暁に染まる空の色。

「そうですね……彼女のお眼鏡に叶えば、ですが。銀狐様が仰った通り、憎からず想っていますよ」
「安室、嘘でも銀狐の前でそんな事を言うな、これでも一応神なんだ」
「ちょっとぉ……一応って何さ。ふんだ」

 そう言って唇を尖らせた銀狐に、雨音が珍しく焦りの表情を浮かべた。

「待て、銀狐……何をする気だ!」
「この子は忘れてるみたいだから、思い出させてあげるだけだよぉ」
「はっ……? まさか、止めろ!!」
「ふんだ」

 ツン、とそっぽを向いた銀狐と、雨音の懇願の叫びを聞いた、ような。

 ──次の瞬間、視界が暗転した。

 * * *






 ……──夢を見た。




 いつか見た、永い、長い夢の中。



 幼少期に諸伏と出会い、時折問題があったものの、順当に歳月を重ね、大学に進学し、夢を追い進んだ警察学校で掛け替えの無い友人を増やし、公安に配属され、またあの組織へと潜入する。

 いつかの記憶を準えたように移ろう日々の中で、いつも一人分とその周辺だけを残した、ピースの欠けた追体験。

 その綻びは、一人、また一人と同期が殉職していく悪夢へと変わる。

 萩原を筆頭に、諸伏、松田、伊達。

 その中で俺は、様々なモノを憎み、祈り、縋り、望み、諦め、呪った。




 ──俺だけでは、俺一人では。どうして。




 かつて、その総てをたったひとりで尽く救い取った彼女を想う。


 なぁ、今何処にいる?

 寂しくはないか?泣いていないか?

 お前は…どうして、隣にいないんだ。




 そして気がつくと、たったひとり、血塗れ(バーボン)の状態で戦場に居た。




 様々な国や機関との合同で開始された、組織壊滅の決戦の最中。



 囮と最終調整を買って出た、チェックメイトを目前に、燃え盛り崩壊した建造物に背中から下を潰されて、自分の身体から止め処なく流れる命を宿した赤が溢れるのを、これで漸くやっと終われると内心、何処か安堵しつつ、徐々に霞み行く視界に懐かしい面影を映した。




 ──あまりに都合の良いその幻影は、もう既に遥か彼方となってしまった追憶と変わらず、いつものように、と形容するしか無い程の鮮やかさで、矢張りあまり感情の乗らない整い過ぎた表情で俺を見下ろす。





『……相変わらず趣味が悪いな。私にこれを見せて、何が変わると言うんだ』



 抑揚のない、涼しげな声で、彼女は誰かに向かって話掛けている。



『……だとしても、私が選び取るとは限らないだろう。何を期待しているのかは知らないが、いつまでも万事が自分の思い通り事が全て運ぶとは考えない事だ』



 愛おしく、懐かしいその姿。



 ──あぁ、ずっと、この果てしなく永い長い夢の中で、君を探していた。



「……澪……?」



 薄れ逝く意識の中、漸くその名を口にすると、彼女は目を見開き息を呑む。



『……どうして』



 そう呟きながら、彼女はいつものように、夜を甘く煮詰めた美しいその射干玉色の双眸を細めると、花が綻ぶ様に緩く微笑んだ。



「……そうか、君が、君は。……それならば、私は君に問おう。……もしも、君が望むなら、次は私がこの身を捧げると約束する。それが私の贖罪に値するのならば。……銀狐、これで満足か? 私は、もう……これ以上、何も喪いたくない」



 再び虚空に視線を移し、彼女は瞠目する。



「……なるほどな。そう、か……いや、わかった。約束しよう。だが……これで最後だ」



 再び開かれたその双眸は、鮮やか過ぎるほどの、赤と青の色彩を纏っていて──



 ──そしてまた、視界が暗転した。



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