「保健室行くよ」
呼ばれて振り向いた瞬間、いきなり強い口調で言われたレイコは目を剥いた。
「はぁ?」
目の前のショウに、突然なんだと不審げな声が出る。 有無を言わさぬ言い方なのがまた腹立つ。
「肩貸すから、ほら早く行くよ」
ぐいと腕を掴まれたレイコは慌てて振り払った。
「なんで保健室なんか行かなきゃいけないのよ。行きたきゃ一人で行きなさい」
言った途端、ショウの目が細められた。 ふぅん、と呟くように言ったショウに、レイコは思わず身構えた。まるで、やんのかコラ、といった感じだが、それに対するショウの目は冷たい。
「─…気づかないとでも思った?」
ぴく、と肩を揺らしたレイコは、無意識に右足を後ろに引いた──隠すように。
「足、挫いてるだろ」 「…っ…なんの、ことかしら」
そろりとショウから距離を取ろうと、引いた右足に体重を移動させようとしたとき、鋭い痛みが足首に走る。
「──っ!」
声を出さぬよう歯を食いしばったレイコに近寄ったショウは、その細い体を支えるように腕を取った。
「行くだろう?」 「…どこによ」 「保健室」 「勝手に行けばいいじゃない」 「君もね」 「行く理由がないわ」 「…本当君は素直じゃないね」
きつく睨むような目だが、ショウも引かない。そのまま至近で無言のまましばし睨み合う。 幾分かして、鼻先が触れそうなその距離で、ショウが再び口を開いた。
「なんならお姫さま抱っこなんてやつを披露しようか?」 「ぇ…」
予想外の台詞にぽかんとしたレイコの腰に腕を回す。そのまま持ち上げようと力を入れられたレイコは慌てて叫んだ。
「きゃあっちょっと何するのよセクハラよ!」 「セクハラじゃなくて人助けさ」
逃げようと身を捩った瞬間、また右足に痛み。今度は耐えきれず、いたっ、と呻いたレイコはがっちり抱きかかえられた。
「大方今朝の体育でだろう?」 「…!」
──2校時目の体育、陸上で走り幅跳びを選択していたレイコは、見事な運動神経を披露し周囲から拍手を貰った。 が、3度目に跳んだ際、着地に失敗してしまった。捻ってしまっただけで派手に転んだわけではないから周りに気づかれはしなかったものの。 そのときから右足首が痛くて仕方ない。
それこそ保健室に行こうかとも思ったが、3校時も4校時も移動教室で、そのあとは当然給食。そして掃除。 時間が経っていくうちに痛みは増していったが、同時に今まで耐えられたのだから大丈夫じゃないかと思えてきた。 プライドの高いレイコとしては、何に関しても失敗したくないし、それを周知されるのは絶対に避けたいこと。 だが平然としているのにも限界があるから、一人になれる場所──図書室か屋上辺りにでも避難していようと廊下に出た。 そのまま5メートルほど(痛みに耐えながら)進んだとき、肩を叩かれた。
──そして冒頭に戻る。
「少女漫画みたいに抱きかかえられて周りから注目されながら保健室へ運ばれるのと、大人しく肩借りて保健室に行くの、どっちがいい?」 「保健室に行くのは決定事項なのかしら」
なおも頑ななレイコに、ショウは黙って腕に力を込めた。ふわりと体が浮いたレイコは小さく悲鳴を上げた。
「分かった、分かったわ! ぃ、行く、から…」
ストンと地面に足がついた。 諦めてショウに体を預けたレイコは眉を寄せた。
「……肩を借りるのはお願いするけど、」 「なんだい?」 「…腰、から手を離してくれないかしら」 「それは駄目だよ」 「なんでよ」 「君が逃げたら困る」 「こんな足じゃ逃げられないわよ!」 「そ。“こんな足”なんだから大人しくしなよ─…レイコ」
耳元で低く名を呼ばれたレイコは思わず黙った。 気のせいかもしれない──そしてぜひ気のせいであってほしい──が。…怒って、いる。
あれからお互い一言も発せぬまま目的地に着いた。
あまりにも気まずかったレイコは保健室の扉が見えたとき心底ホッとした。 養護の先生がいるからショウと二人きりではなくなる。それにもしかしたら保健室に着いたから、とショウは教室に戻るかもしれない。
が、いよいよ眼前にその扉が見えたとき、レイコは目を瞠った。 ──出張中。の札。 なんでよりによって今日いないのだ。ショウと二人きりなんて御免蒙る。く、と息を飲んだレイコは、頭一つ分高い位置にある顔を勢い良く見上げた。 中学に上がった今も小学校のときと同じく全校女子が騒ぎ立てる端正な顔立ち、も、少なくとも今のレイコにはどうでもいいものだ。
「ねえ! 先生いないみたいだしもうい、」 「鍵は開いてるな、勝手に入れってことかな」
いっそ悲痛なレイコの声を遮ってドアをガラリと開ける。腰を引き寄せられたレイコも渋々室内へ足を踏み入れた。 そのまま椅子に座らされたレイコは、棚をごそごそと漁り出したショウに気づかず、痛みとショウに逆らえなかった自分自身に眉をしかめて己の足を見下ろしていた。 と、不意に足元に影。
「──え?」
いつの間にか目の前で膝をつくショウにレイコは戸惑いの声を上げた。 しかしショウは構わずレイコの右足から上履きを脱がせた。次いで膝にス、と触れる。かと思うとハイソックスに手をかけた。
「え、や、ちょっとなにするのよ!!?」 「脱がさなきゃ手当てできないだろ」
ショウの手を止めようと躍起になる細い指先を払う。
「別に全裸になれって言ってるわけじゃないんだからさ」
切って捨てるような言い方にひゅっと息を飲んだレイコは肩を震わせた。
「…自分でやるわ…!」
鋭く睨む瞳にショウは黙って手を離した。 その前で、まるで屈辱だわとでも言いたげに唇を噛みしめながらハイソックスをずらしていく。徐々に露になる白い足を相変わらず口を閉じて眺めるショウは、相手に聞こえないようにため息をついた。 スルリと布地が爪先からも離れたのを目にして、すっかりさらけ出された素足に触れる。
「じゃ、診るから」 「自分でやるからいいってば…!」 「レイコ」
短く呼ばれて怯んだものの、譲らないとばかりに柳眉を吊り上げたレイコを冷たく見据えたショウは、その腫れた足首をぐっと握り込んだ。
「つぅ…!」 「黙って手当てされなよ」
言ったと同時に力が緩まり、レイコは息をついて離しなさいよと口を開こうとしたが、また握り込まれる。 今度は何も言われず、しかし射抜くように見つめられ、レイコは押し黙った。先ほど抱いた違和感が気のせいでないことを知った──彼は間違いなく怒っている。
レイコの様子にもう抵抗はないだろうと判断したショウは、レイコの足首に視線をやる。 ただの捻挫、というにはあまりにも腫れ上がっているのはしばらく放置していたせいだろう。軽く左右へ動かしたり、踝に親指を当てて力をいれてみたり、その度に上から息を飲む音が聞こえ、手の中の華奢な足がぴくりと震える。痛い、のだろう。
「僕はね、レイコ」
湿布を取り出したショウはギリ、と唇を噛んだ。湿布の冷たさが妙に癇に障る。 力がこもりそうになるのをなんとか抑えた。
「僕は、怒ってるんだ」 「……」
今さら逃げるように引かれた右足を捕らえて押さえる。
「どうしてこんなになるまで放っておいた?」 「ショウく、」 「僕が言わなきゃ手当てする気もなかっただろ」 「あ、後で病院行くつもりだっ」 「嘘をつくな!」
鋭い声音にびくっとレイコの体が震えた。 それを目にしたショウは、声を荒らげてしまったことを後悔するように目を逸らした。
「…─君は。君は、昔から、君自身を大切にしない。」
レイコが誰かを頼るところを見たことがない。 レイコが助けてと言うのを聞いたことがない。 いつだって自分一人ですべて抱えこんで。
そして、潰れていく。
もしかしたら頼らないのではなく、頼りたくても頼れないのかもしれない。 でも、それはショウには関係ない。理由など関係なく、一人で追い詰められていくことがただただ気に入らない。 手を差しのべても決して取らない。なぜそんなに強情なのだ。
再び苦しげな声が漏れた。
「少しは…っ僕を頼れよ…!」
絞り出すようなその声にレイコは瞠目した。こんな彼は初めて見た、と。 声も出せぬほどに驚き、見下ろす先で、ショウの手が、その触れる指先が、ひどく冷たいことに気づいた。
レイコが衝撃と言っていいほどの驚きに固まっている前で、ショウは自分の怒りを静めようと必死になっていた。 二度、深呼吸をする。 回転の速さには自信のある頭をフル回転して考えを巡らせる。 だが、このどうしようもない負の感情を落ち着ける方法は一つしか思い浮かばなかった──昔からずっと思っていたことだ。 それは多分“正しい”と真っ向から言えるものではない。 けれども、もういい、とショウは結論した。
「レイコ」
小さな足にようやく湿布を張り終える。黒ずんだ紫が隠れて、ほんの少し、ほんの少しだけ、安心した。 そこから、ゆっくり目線を上げる。
「レイコ、僕はね、」
折れそうなほどほっそりした脛を辿り、薄く色づいた膝頭で一度止める。 ふ、と息をついて、新しい酸素を取り込んだ。
「──今後、僕の許可なしに傷を作ったら許さないよ」 「っ、は…?」
ショウは顔を上げてレイコを見上げた。 ショウの透き通った碧緑の瞳に真っ直ぐ見つめられたレイコは、反論すべく開いた口を反射的に閉じた。 ショウは繰り返す。
「僕の許可なしに君の体に傷を作ったら許さない。それがたとえ君自身であっても」
レイコは微かに震えながら思った──むちゃくちゃだ。 ショウの言い分の100分の1も理解できない。意図もまるで見えやしない。 しかし、何も言えなかった。声を発することすら憚られた。 その理由はショウの声があまりにも淡々として、まるでただ事実をそうであると確認しているかのようだったからかもしれない。 それか、ショウの瞳があまりにも透明だったからかもしれないし、もしかしたら、未だレイコの右足を支えるショウの手が微かに、けれど確実に震えていたからかもしれなかった。
「…ショウ、くん?」
ようやっと出せた声は今にもかき消えそうだったが、それでも呼びかけずにはいられなかった。
「ショウくん」 「レイコ」
掠れた声で応えて、ぎこちなくまばたきをされたレイコは、改めてショウを見下ろした。
「いいね?」
問われて、ショウの瞳に捕らわれて何か時間の感覚がわからなくなっていたレイコは首を傾げた。 ややおいて、ああ先の道理の通らない提案──と言うよりは命令だろうか──のことかと思い当たった。 そのつかの間の沈黙に、ショウはもう一度重ねて言った。
「いいね」
絡む視線に、レイコは知らず首を縦に振っていた。
ひどく緩慢な頷きを確認した瞬間、ショウが笑みを浮かべた。 嬉しそうで、それでいて安堵したような、どこか幼さを残した笑み。
思わず呼吸を止めて見入ったレイコは、囁くように小さく名を呼ばれたとき、そういえば今日初めてショウの笑顔を目にしたのだと気がついた。
子どもじみたそれが世界を変える (ずっとずっとまっさらでいて) (そうでなきゃぼくはきっとおちてしまう)
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なんでだろう…ショウレイは長くなってしまう…
ショウくんは人として微妙にぶれている気が。 こんな話になったのはそう思っているせいだな!
だって独占欲超強そう。病みそうだよショウくん
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