「ひ、ひひひひひひ」
「あー...、寝ちゃってました...?」
うつらうつらと船を漕いでいた私は、男の笑い声に起こされた。
「おはよう、石田さん」
そう言って、柱に手錠で後ろ手に固定された男の頬に掌を這わすも、やはり彼は笑う事をやめず、へらへらとした笑みをその顔に貼り付けている。
彼の名は、石田徹夫。
無類の酒好きという欠点を持つ、この村の駐在さん。
そして、私の恋人である。
正確には、だったというべきかもしれないが。
彼は変わってしまった。
化物になってしまったのだ。
事の発端は数時間前に遡る。
夏の暑さを凌ごうと、縁側で夜風に涼んでいた私の耳に聞こえてきたのは、警鐘の音。
何事かと外に飛び出した瞬間に、激しい地響きが村を襲い、私は意識を失った。
気づけば、辺り一面が赤い海に閉ざされていた。
よく知る村の原形は残っておらず、以前見た古い書面の写真から、過去に土砂崩れに巻き込まれて消えた筈の場所らしい事はかろうじて分かったが、これが一体どういう状況なのか私には呑み込めなかった。
石田さんは、村の皆は無事なのだろうかと、宛もなくさ迷い始めた私は、そこでソレと出会った。
見知った村の人達だった筈のソレは、目から赤黒い水を流して襲いかかってくる。
その様はまるで化け物だった。
私は何も分からぬままに、逃げ、隠れ、時には武器を取り立ち向かう事で、なんとか今の今まで生き延びてきた。
不安で、恐怖で、罪悪感で幾度も心が折れそうになる中、恋人の無事を信じて、それだけを希望に。
だが、神様は無情だ。
再び彼と対面した時、彼はもう既にこの世のものではなくなっていたのだ。
彼の健康的だった肌はすっかり血の気が引いて青白くなり、赤黒い涙を流すその瞳は何も写さない虚ろなものにすっかり変わり果ててしまっていたのだ。
いつか彼が使う事の無い事を喜んでいたニューナンブだけが、原形を止めて、彼の右手に収まっていた。
彼がこちらに気づくと同時、鉄工所で拾った短銃を私は彼に向け、躊躇なく引き金を引いた。
しかし、奴らはすぐに甦る。
私は何を血迷ったか、石田さんの両手に錠を降ろすと、今いる民家まで彼を運んだ。
「あは、は、ひひひひ」
化け物になってしまった彼は、すっかり狂人に成り果ててしまったようだ。
ふと、窓から外を見ると、わずかばかり明るくなっている。
「石田さん、日が明けたみたいですよ」
これでこの怪異に巻き込まれて、二日目。
正直、日付を跨げたのが不思議なくらいだった。
「聞こえますか、石田さん。外、石田さんがうるさいから」
こう言ったって、彼に届かない事は分かっているけれど。
思えば、人でなくなった彼を見つけた時から私の心は折れてしまっていたのだろう。
正気であれば、彼をここまで連れて来て繋ぐ等という自殺行為は出来まい。
奴らは叫び仲間を呼ぶ。
石田が例外なんて事もなく、集まって来た奴らが戸口をダンダンと叩いている。
今は奴らの進入を防いでるバリケードも、その内突破されてしまうだろう。
「ひ、ひひ」
それを知ってか知らずか、彼は私を嘲るように笑う。
「石田さんのせいで死んじゃいますよ、私]
「ひひひひひ」
「笑うんですね、酷い人」
呟いて、石田さんの口に噛みつくようなキスをする。
「っふ、ぅ」
「石田さん、っ」
浮いた歯の隙間に無理やりに舌を捩じ込み、口内を侵すと、彼は気持ちよさげに目を細めた。
こんな姿になっても、傷みや快感は感じるらしい。
言葉や意思は通じないというのに。
「ふ、う...石田さ、石田さん」
ようやく、涙が今になって込み上げて来た。
目から大粒の雫が堪えきれず溢れ出し、石田さんを濡らす。
「なんで、なんでなんで」
一昨日まで一緒に笑いあってて。
今年の夏は一緒に海に行こうって。
他愛ない石田さんとの日々の思い出を思い出せば思い出す程に、心は苦しくなっていく。
「石田さん、石田さん、石田さ」
不意に、目尻に何かが触れた。
「っ、」
私の涙を拭う石田さんの冷たい舌。
相変わらず光の灯っていないその目が、一瞬だけ生前の彼の目に見えた。
(泣かないで、カイリちゃん)
まるでそう言っているかのような。
「う、ひ、ぐ、石田さぁああん」
子供のように号哭した。
声を抑える事もせずに、私はただだた泣き叫ぶ。
周囲一体に響き渡る私の叫びは、石田さんの笑い声以上に奴らを集めただろう。
バリケードがガタガタと音を立て、今にも突破されそうだ。
私は彼のニューナンブを手にすると、やっとの事で立ち上がった。
嗚咽しながら、石田さんに銃口を向ける。
パンッという渇いた音と共に、彼を拘束していた鎖が切れた。
「石田さんの手で、お願いします」
ニューナンブを、彼に押し付ける。
石田さんは呻き声を上げながらそれを受けとった。
そして、照準を私へと、向ける。
「さよなら、石田さん」
ーーー愛してます。
さよならアイロニカル
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