「やっぱり、黒なんてはるやにはにあわない」





あんたは言った。





「なんだって?きこえねーよ」

「やっぱり、黒なんて、はるやには、にあわない」

「は?」


記憶。
昔も昔、例の計画が始まる前のことなんて、いまはもう昔のこと過ぎてよく覚えちゃいねーが、ひとつだけよく覚えている出来事がある。

あれは小学校という場所に毎日通うようになってから三年ほど経ったころのある日。あの頃、毎日のように、オレは奴とふたりきりで下校していた。なんでだろ。とにかくそうだったのだ。あの時も、そうだった。閑静な住宅街の隙間にふたりきり。


「まえまえからおもっていたのだが、やっぱりはるやには黒なんてにあわない」


風介が指差したのはオレの背中、の、てらってらひかるかばん。構造が複雑なので簡単に説明すると、ランドセルというものだ。そう、オレ達がランドセルを背負ってた頃には、いまの世代みたいなカラフルなランドセル(テレビコマーシャルで宣伝してる、ピンクや黄色とかの)なんてあったとしてもマイナーで、だからもちろんオレのはメジャーな黒色だった。
黒。

似合わないと指摘されてオレはその時どんな顔をしていたのか。思い出せない。何分昔のことで、ああでも、あの日も風介はつまらなそうな顔をしていた。


「はるやには、やはり赤だ」


オレに言うでなく、空に呟くのだった。

帰り道の昼下がりの住宅街は特に静かで、車も通らない。風介の独り言は、しゅっ、と空気の中に消えた。


「にあわなくてわるかったな…でも、あとさんねんはこのまんまだぜ」

「さんねんも」

「ん」

「たえられない…」

「そういうあんたこそさあ、黒なんてにあわない」


絶望したような風介の顔をのぞき見ながら、オレも呟いた。


「あんたにはやっぱり青が」


にあう、と、言った声がデクレッシェンドだったのも、顔が熱かったのも、ほんとに、ばかだったと思う。いまと同じで。

風介は正にきょとんとした感じに、なんといったらよいのかわからないという顔をして再び前を向いた。歩き出した。


「はるや」

「なに」

「てをつないでもいい?」

「な、なんでだよ」

「なんとなくさ」

「なら、いいけど…」


思い出せば思い出すほど、なにもかもが嘘みたいでばかみたいで夢みたいで、でも確かだ。

ひんやりと冷たい手だった。いまも覚えている。


「ねぇ、はるや」

「んー?」

「さいきん、父さん、へんだとおもわないか」

「あー」

「ふじさんのなにかが…どうとか」

「いんせき?」

「うん」


風介の手にぎゅっと力がこもった。冷たい。横顔を見ると、やはり、どこを見ているのか知れない目をしていた。

そんな顔、すんなよ。


「そんなしんぱいしなくたって、だいじょうぶだ」


オレも、繋いだ手にぎゅっと力を入れた。


「父さんだって、すぐもとにもどるだろ」

「そう、かな」

「そうだ」

「はるや」

「こんどはなんだよ」

「きすしてもいい?」


オレがなにもない道でけつまづいたのは言うまでもない。


「なっ、なっ、…なんで?」

「いや…」


気がついたら、やたら真剣な顔の風介が迫って来ている。後ずさっていたら近くの石造りの塀に背中がぶつかってしまった。

これはまずい。かなりまずい。

幼いながらに、察知。


「ばかじゃねーの、そういうのはくららとやれよばか!!」

「わたしはばかじゃない」

「てめ、」





空が青かった。
草木の緑も青かった。





「んっ」





それはひんやりと冷たかった。

遠くで車の走る音がして、そして、オレ達はそれをした。
そうやってオレのいろいろをなにもかも掻っ攫うのは、昔からこいつだったのだ。びっくりし過ぎて、上げかけた悲鳴も引っ込んだ。ただただ目の前でかすかに震える銀の睫毛がとても綺麗だった。見開いた目で見つめているうちに、気付けばずっとそうしていた。


「んんっ…ぅ…」


すると信じられないことに、口のなかになにか温い濡れた物が入り込んできたりして。ありえねーことに。

オレの舌とぬるぬる絡まる。が、それが一体どういう意味を持つのか、あの時のオレにわかるはずもなかった。わからなくてよかった。(それがどうしてだかいまはわかるのだけれど、これはまた別の話で。)

風介のたどたどしい舌がそれでも必死にオレを引き寄せようとしてくる。ぎゅう、と奴の小さな左手がオレの右手を握りしめるものだから、もっと切なくなってしまった。風介の震えるまつ毛を至近距離で見つめているに耐えなくて、オレもきつく目を閉じた。

生あたたかい液体が、目じりから滲んで、おちる。


「はぁっ、ぁ」

「はぁ…」


体中が粟立つような時間はあっという間に、あるいは久遠のごとく行き過ぎた。

やっと離れた二つの粘膜が糸を引いて、それがよく見えた。顔中がぼうっと熱くて、眦の濡れた感触は絶えず、息はいつまでも上がっていた。それは目の前の幼い顔も同じで、ばちんと目が合えば顔をそらしてしまう。

風介はまだ、そしていつまでも離さないとでもいうかのように、オレの手を握ったままだった。


「し、」

「し、?」

「しね…」

「…ごめん」


風介はふいと顔をそらし、オレはまた目を見開いた。いまも昔も、奴が謝るということは大変希少価値が高いのだ。だからそれ以上何も言えなくなってしまう。

ずるい、といつも思う。こいつは。


「…おとなは」


そっぽを向いたままの風介が何事かをぼそぼそと呟いた。


「こうすると、おちつくんだってさ」

「こうすると、って」


不意に唇に濡れた感触が走った。はたと気づけば、風介がぺろりとオレの唇を舐めあげたところだった。ひいっ、オレが悲鳴を上げたのも無理はない。


「ヒロトがそういってたんだ」


しれっと言い捨てると、風介は踵を返してすたすた、歩き出す。

オレはしばし呆然としたのち、湧き上がる激情に髪の毛が逆立つ心地を覚えた。


「っざけんなよ!」


ごとごと揺れる黒いランドセルに急いで追いついて、それを引っ掴む。

風介がゆっくりと振り向いた。

オレは文句を言いたかった。のに、青い双眸にじっと見つめられた途端、何故か口ごもってしまう。


「はるや」


そして、


「てを、つないでもいい?」






どうしてまた、オレ達は黙って手を繋いで帰ったのだろうか。















「チッ」


思わず舌打ちが漏れた。どうしてこうも、思い出したくないことに限って浮力が強い。そういうことばかりが浮かんでは消える心を、いつだって持て余す。いまはそんなことを考えている場合じゃないと、顔を上げた。


「どうした、ずいぶん良い顔をしているじゃないか」


オレの隣りで、堂々と腕組みしながら立っている風介がせせら笑う。昔より幾分も日に焼けた痩躯に真新しい青いユニフォームを纏っている。父さんに与えられた力だ。

それを奴が着ているところを見るのは今日が初めてだった。

エイリア学園のサッカーグラウンドへ続く入口の一歩手前、この薄暗い空間の中で、奴の胸の紫の石が怪しく煌めいている。オレの、真新しい真っ赤なユニフォームの胸にも、また。


「汚れてまでこんなところへと来てしまったが、わたしはわたしを誇りに思っているよ、」


風介は静かに、これから進むべきところを見据えていた。入口から覗くこうこうと輝くフィールドを、まっすぐと。


「黙れ」

「だからキミには、キミのチームには絶対に負けないし、ジェネシスの称号も、」

「それはこっちのセリフだ。ザコどもがいきがりやがって…」


オレ達は進むのだった。進まなければならないのだった。光は向こうから差し込んでいる。

そして今日、あのフィールドに足を踏み入れたら、もうオレ達は敵同士だ。

今日初めて、オレ達はそれぞれプロミネンスとダイヤモンドダストのキャプテンになる。敵対するチームと相成るのだ。そして、初めて戦いの火蓋を切って落とす。もう、戻れない。きっと、戻れない。

差し込む光があまりに眩しいので、目がくらむ。





「ねぇ、」


はるや、と呼び声がした。

手に冷たいものが触れた。慈しむような碧眼を揺らして、風介がオレの手を取って見つめていた。
あの頃とは違う大きい手で、あの頃となにも変わらない冷たい手。



…ふり払わなきゃ、と思った。

ふり払わなければならない。ふり払わなければ。


「や」


やめろ、はなせ。


しかしそう口に出すことは叶わなかった。

目の前が白く染まる。青白い、ふわふわの髪の毛が目の前で揺れた。





唇に触れる、柔らかい優しい感覚。

なにもかもふさがれる感覚。

酷いデジャヴュ。





ざあっ、あの時のなにもかもが、いまこの場所に現れたかのような、感覚。





「―――」





不覚にも。
不覚にもオレは、泣きそうに、なってしまった。





「"はるや"」


唇はあっさり離れた。涙の膜の向こうで風介が、微笑んでいるように見えた。


「はるや、キミにはやはり、赤が似合うよ」


最後の言葉。

それだけ言って、オレを置いて入口へと向かって行く風介。その背中の青と10の文字が、嫌にくっきりと見える。


「ふうすけ」


ガゼルはすでにフィールドに足を踏み入れていた。オレの声はもう届かない。

ひかりの中で立っているあいつにはやはり青がよく似合っていた。かなしいくらい、似合っていた。








それを伝えるすべはもう、どこか遠いところへ、なくしてしまったのだけれど。