嫌なにおいがした。


「はぁっはぁっはぁっ」


前かがみになって洗面所の水溜めのふちに両手をついて荒い息を落とすキミを、わたしは見ていた。
華奢な肩が哀れなほどに上下している。
狭い部屋に響くのは蛇口から流しっぱなしの水の音、それから、やはり苦しい呼吸音。
だからとても静かだった。しばらくして、ゴボゴボと、排水溝に何かが流れていく音がした。


「おい」


呼ぶと、大分上下のゆるやかになってきていた肩がぴくりと揺れた。そして、ふりむく。


「また吐いたのか」


酷い顔だった。
憔悴しているのが、一目見てわかる。
元より白い肌の顔が、血が引いてるせいでぞっとするほど白く、額に滲んでいる汗とはりついた前髪がいかにもそれらしい。
半分開いた唇も普段の赤みを失くしていて、そこから、つう、と、透明な唾液が糸を引いている。



昔から威勢だけは強い、それなのにいつまでも小柄で華奢で、その上これで、どうしようもないやつだ。
心因性のものなのか知らないが、よく食べてはよく吐く。あの元病弱の幼馴染のことをとやかく言えないくらいには。
我々が渦中に居るこの計画が始まってからはどうも症状が酷くなった様だ。
きっと、自然界ではまず淘汰されてしまうんだろう。


涙の膜が張った、うつろな金目がふるふると揺れて焦点をたがえていた。それでも、必死にこっちを睨んでいるようだが。


「うる、せぇ」


搾り出したような声、整わない呼吸に混じって、ひゅう、とたんの絡むような音がする。
不謹慎にも、わたしは、抗えないなにかが湧き上がるのを感じた。
下腹部に甘い痺れが走る。まったくわたしはどうかしている。
飛び出しそうになる右手を、腕を組んで押さえると、指先が痙攣した。


「もう何度目だろう、そろそろ、然るべき措置を取るべきだろうに」


君みたいなのがキャプテンじゃあね、代わりなら幾らでもいるだろうね。
ほら、その、死ぬほど傷ついたのを隠すような君のその顔。ぞくぞくする。
わたしは、わたしたちは必要とされないことをもっとも恐れることを解っている。
ひどい、わたしはひどい。ひどいのを知っていて、知っていることを、ひどくするための理由にする。最低だ。
自嘲の笑みを浮かべれば、何を勘違いしたのか、あらん限りの怒りを込めた目を向けられる。


「笑ってんじゃねぇ!オレは、まだっ…」


まだやれるんだ、と、言ったきり、キミはずるずると、流しにもたれかかるように座り込んでしまった。
そして、わたしはとうとう、体中をざわりと駆け巡るなにものかに、抗えなくなった。
つまりキミに飛び掛ったのだ。


「なっ…!」


逃げようとする力無い腕を掴んで組み伏せる。
条件反射よりも素早い自分自身の動きに内心驚いたが、手が勝手に動くのだから仕方が無い。
正しく飛びつかれたキミは、戸棚でおおいに頭を打った。鈍い音。


「ってめえ!なにしやが」


非難の声を遮るように唇を奪えば、キミの体がこれ以上なく強張ったのが伝わる。
引き寄せるように腰と後頭部に手を回してやる。


「ん…!」


視界の端に映った金色の目が怯えたのが見えた。ああ、なんて楽しい…!
力ずくで唇を割り開いて、薄い舌を絡め取る。苦くて、酸っぱい味がした。酷い味だ。
そんなことに興奮しているわたしの方が、もっと酷い。


「んっ…、ぷはぁっ…」


長く長く絡めて、やっと離してやった時には、もうひとつも抵抗する力など残ってないように、細い体のつま先まで弛緩していた。うっとりととけた琥珀のような目が、それでも非難がましい視線で、わたしを捉える。
…キミのそういう目は、悪くない。
首筋に顔をうずめると、大方さっきの冷や汗だろう、しっとりと上気していた。
上着の裾から手を差し込んで、浮き彫りの肋骨をなぞってやる。
少し力を入れれば折れてしまいそうなそれらだ。


「あ…」


もうすでに悩ましげに声を漏らして、身をよじるキミはなんと簡単な奴なのだろうか。
しかし気持ちの良さそうなキミも大いに結構だが―――いささか、面白くない。
平らな腹をゆるやかに撫でていた手で、胃の辺りを、ぐ、と突くようにする。と、キミは嫌な感じの咳をひとつして、両手で口元を押さえた。目じりに涙を浮かべて、ふるふると震えている。
ああ、それ、その顔だ。
口の端が上がってゆくのが止められない、腹部から背骨を通り、駆け上がってゆく恍惚。わたしは身震いした。



キミは何て弱いんだろう!



たたき付けるように押し倒すと、激しい咳がこだます。


「弱いキミ」


でもだから愛してあげる、そうでなくてはわたしはキミを愛せない、だから、愛してあげるよ。



キミはひとこと、しね、とつぶやいて、泣きながらまぶたを閉じた。