痛みは甘いつのらせる経験。
高等な存在になるための必要条件。

切り捨てることも必要なことならば、オレ達は全部捨てて変わらなくては。そうでなくては、いけないのだけれど。


「つまるところは」


ガゼルが口火を切る。向かい合わせ、鏡のように突っ立ってるオレに向かって、ガゼルはその細長い指を伸ばす。そしてそうして、ひっかいた。詳しく言えば、人差し指の爪でひっかいた。オレの右目尻から頬の中腹にかけて、一文字縦に。


「―――」


その痛みが脳に届くのと、ひっかき傷から血が伝うのは同時で、怒りがわくのも同時。降って湧いた反撃暴力の欲望。それでも次に、ガゼルの舌がその傷をぬるりとなぞれば、いかりは冷却され沈下するのだった。オレの心は手のひらを返したように動揺する。
激しい怒りの後の困惑は、そうまるで、云うなれば、恥ずかしい感覚だ。それはそれは恋に落ちたような心地。叫びだしたくなる。


「つまるところは、わたしたちの関係とはこういうことだと思うのだが、どうだい」


ぅえ、と、えづくような無声音を伴って突き出されたガゼルの舌。そこにわだかまってるのは、どう考えてもオレの血だった。先ほどから自分の頬に伝い続けてる血の、さきがけ。感触は涙のそれとひどく似ていた。


「どうって、どうしようもねぇよ」


泣きたい気持ちがするだなんて云えない。


「わたしたちの現状は、いまなら可逆であり、それでいてあるいは刷新も可能、と言ったところだ。だが決めかねるのもそろそろ終わりにしよう、疲れる」

「いつも言ってるけどよ、アンタはさ、日本語しゃべれねぇのか」

「ぜんぶ無かったことにするのはどうかと提案しているんだ」


両肩を掴まれた。急に呼吸が苦しくなって吐き気がすると思ったら、あっというまにキスをしていた。いや、されていた。
キスと云うにはグロテスクな、容赦なく口内にねじ込まれる冷たい舌はいつだって血なまぐさい。この味が口づけの常であるというのは、なるほど、先のガゼルの言い分はもっともかもしれない。
わたしたちのかんけい…。


「こんなの、間違っているからもうやめにしようか。ねぇ、バーン」


血交じりの唾液が糸を引く。
鉄くさい呼気が交わる。

"こんなの"?


「なぁ、やめるってのはいったいなにをどうするってことだ?なぁ、無かったことにするって、そんなことができるにんげんなんているのか?やめたって無かったことにしたって、明日も明後日もオレとアンタは息してるんだぜ多分。これが一番のネックだよ。つまるところはだな、もう遅いんだ」

「それがキミの、心のこたえか?」

「ただの現実だろ…」

「なるほど、それでもやはり、可視の過ちをそのままにしておいてはいけないと、わたしは思う。だが」


目頭がじわじわと熱を帯びてくる。不本意だ、なにもかも。すべてすべて。
涙の代わりに頬を伝うなにか、舌に残る金属のにおい、まっすぐオレを射る青い瞳と、その双眸に浮かんだ水。涙という名称。

小さくこぼれおちていくのが、見えた。


「もしキミがそれでもわたしを望んでくれるのなら、わたしは、」