・成人済み風晴




















良い具合に曇った日のことだった。

曇りという天気は、そのことが小気味よく感ぜられる日とそうでない日がある。が、今日は前者だ。特に外出する予定もない休日の今日にとって、曇り空とはおあつらえ向き。いまにも降り出しそうな曇天のおかげで出かける気も程よく失せるから、遠慮なくインドアでだらだらできる。
こんな日のわたしと晴矢は、ふたりで棲んでいるアパートのリビングに朝からこもっていた。録り溜めたは良いが忙しくて見れていなかったドラマ等をテレビ画面に延々と流しつつ、わたしたちは言葉少なに過ごしていた。


「なぁ、この女優ってアンタの好きな…少し前にサッカー選手と結婚したっていう、あの…」

「ああ…うん…なんて名前だったか…」

「アレだろ…あの…アレ、」

「ああ……うん…」

「……………」

「………」

「…」


わたしはリビングに一つしかないふたりがけのソファーに、丸太のごとく寝転がっている。不服そうに独占禁止令を言い渡した晴矢のことは無視した。今日のわたしは眠いのだ。てこでも動かぬ姿勢を保ち続ければ、やれやれとため息をついた晴矢は床に座ることに甘んじたらしい。わたしの腹に届きそうで届かない位置に晴矢のぼさぼさの後頭部があった。床に胡坐をかいて、背中だけソファーにもたれさせているようだ。いつもなら蹴飛ばされて無理やりスペースを空けさせられるのに、どうしたことだろう。
目の先にある赤毛、形の良い頭に時々手を伸ばして撫でまわすと、嫌そうに首をひねられた。


「うっとうしいっつぅの」


ならば、と白いうなじを指先でなぞるともっと露骨に嫌がられた。襟足に見え隠れするそのなめらかな首筋にそそられかねない状況ではあったが、日曜真昼のけだるい理性がわたしを制した。わたし偉い。
そんなこんなわたしが本能と戦っている矢先、ふと、ばりばりとなにかが砕ける音が室内に響いて我に返る。
見ると晴矢が何かスナック菓子のようなものをむさぼっていた。ポテトチップスと云うやつか。いつの間に持ってきたのだろう。むぐむぐやってる唇は油でてかって、実に官能的だ。またも抑えがたい衝動に負け、そこに指先で触れてしまう。
なにかわたしの欲望を勘違いしたらしい晴矢は、黙ってわたしの口元にポテトチップスの小片を差し出す。油でぎとぎとの指先。わたしは思い立って、その白い人差し指と中指を、ポテトチップスごと第二関節まで思いっ切り口内に咥えこんでやった。ついでにちゅるりと舐めて回してやったら、ぎゃあ、と悲鳴が上がる。ざまをみろ。それにしてもこの菓子はまずい。
今日も平和だ。


「晴矢、これ、何味?」


晴矢は答えてくれない。
いつのまにかドラマは佳境に入っていた。





一週間分のドラマやその他を見切るころには暮れになった。依然として横たわったままうとうとしていたわたしを尻目に、晴矢は立ち上がる。テレビを消してどこかへ行ってしまったと思ったら、夕飯の支度を始めたようだ。
米をとぐじゃきじゃきという音、包丁がまな板をたたくとんとんという音、ぐつぐつと湯が煮える音。心地いい。耳の奥をふわりと撫でられるような眠気に身を任せたくなる。うつらうつらとしていた瞼をいっそこのまま閉じてしまおう。きっと夕飯の頃に晴矢が起こしてくれる。
誰かに起こしてもらえること、それを確信できるということは、なんて幸せなことなんだろうな…そんなことを思いながら瞼を閉じかけた時だった。


「おい」


頭上から降ってくる低い声に、わたしはなんだかわびしい気持ちで瞼をこじ開けた。
寝入りばなを誰かに揺り起こされることは、なんて辛いことなんだろうな…そんなふうに非情を感じていると、おいおきろよ、と不機嫌そうな声がかぶせられてますます心持ちが悪い。わたしの顔を覗き込む晴矢は少なくとも楽しくはなさそうな顔だった。
何、としぶしぶ返事すれば、目の前にビシッと突きつけられたのは千円札。いや、意味が分からない。もう一度、何、と返せば、


「オツカイ行けよ」

「なんだと、わたしはいますごくすごくねむいんだぞ、ほんとうにたくさんねむいんだ…」


そのようなことをぼんやりしながら弁明したが、なにいってるかわかんねーよ、と一蹴され、わたしは最寄りのスーパーに「オツカイ」にいく羽目になるのであった。


「しょうが買ってこい。すってないやつな、まるごとのやつな」


そういってわたしを玄関から締め出す晴矢である。チューブのしょうがが冷蔵庫にあるというのに、何が悲しくてしょうがを買いに行かなくちゃならないんだろう。そう抗議しても、料理には変なところでこだわる晴矢に、まるごとのしょうがじゃなきゃダメなんだと言いくるめられてしまって、これだから晴矢は…あれで……その……………ねむい。





そして、まぁ、ぼんやりしたままスーパーに行ってしょうがを買って、おぼつかない足取りで家路をたどり始めたところまではよかったのだが。


「あ」


ぽつり、瞼に控えめな雨粒を感じたのはほんの一瞬だった。
スーパーから数歩歩いたところでぽつりぽつりと降り始めた雨はすぐにどしゃぶりになる。
なにがいけなかったかって、このいまにも降り出しそうな曇天の下、傘も持たずに徒歩片道三十分の道を来てしまったことで。


「…くっ」


ざああああああ!

近年稀にみる大雨だと断定する。こんなにずぶ濡れになったのは生まれてはじめてだ。と言うくらいにはずぶ濡れにになったわたしは泣きたい気持ちで、せっかくのしょうがだけは上着の内側にかくまってなんとなく保護した。吹き付ける雨の中進む。急がねばならない。しかし、ああ、進まない。寒い、冷たい。

だから仕方なかったのだ。目も開けてられないような豪雨に耐えかねて、アパートとスーパーの中継地点にあるコンビニへ雨宿りに入ったわたしを、誰が責められようか。


「いらっしゃいませ…」


濡れ鼠のわたしを見たコンビニ店員は一瞬驚いた顔をした。が、すぐに笑顔とそれに似合う声で迎え入れてくれた。なんだろう、すごくほっとした気持ちになってしまう。
だがしかし、さて、コンビニ事態に目的はない。
なんとなく雑誌コーナーの前に立ってはみるが、自らの足元にできていく水たまりに、正真正銘居たたまれない。外を見れば、さっきほどではないが、雨が降り続いている模様。寒い、眠い、おまけに空腹。昼間の、あの平和は幻だったかのように感ぜられるいまである。
足元の水たまりは広がっていく。小脇にしょうが。ポケットに小銭とレシート。アパートに晴矢。
…帰らねばならぬ。晴矢がわたしを待っているのだ。
ついでにしょうがのことも待っているだろう。そうだとも。きっとしょうがはついでだとも。
決意を新たにし雑誌コーナーを後にする。行くぞ、と自動ドアの前に立った時だった。


「あ、」

「うわ、」


ガーと開いたドア。敷居を挟んで鉢合わせたのは


「晴矢…?」

「ずぶ濡れじゃねぇか、バカ」

「どうして」


アンタ傘持ってかなかっただろ、と誰が見ても明らかなことを言ってみせる晴矢。明らかである。
対して、目の前の晴矢の右手は、真っ赤な傘をさしていた。これからたたもうとしていたところなのだろう。そして彼の左手には真っ青な傘が握られていた。わたしの。


「雨降ったし、遅いし、ここにいるかなあって…」

「迎えに来てくれたのか」

「唇紫色になってんぞ」

「わざわざ来てくれたのか」

「早く帰ろうぜ」


かみ合わない会話をよそに差し出される青い傘。わたしは釈然としないままそれを受け取る。しかし、受け取りながら、いいことを思いついてしまった。
思いついたからには、わたしは彼の右手にある赤い傘を奪い取る。
晴矢はきょとんとして、意味が分からない、という顔をする。そうだろう、そうだろう。


「行くぞ晴矢」

「おい、それ、オレの傘、」

「早く帰ろう」


わたし一人で赤い傘をさしてコンビニの軒下を出た。大分弱ってきた雨脚が傘をたたく。ぼっ、ぼつ、ぼつ、ぼっ。
数歩歩いたところで計画通り振り向くと、至極面倒くさそうな顔をした晴矢がいた。かろうじて雨のしのげる軒下にいるまま、手ぶらで突っ立っている晴矢。


「どうした晴矢。おいで」


ダメ押しでもう三歩コンビニから遠のいてやれば、舌打ちとともに傘下へ走ってくる彼。そんなキミを、わたしは心底愛い奴だとおもっている。
久々の相合傘に心弾むばかりだ。


「昔っからアンタってさぁ…こずるいというか、せこいというか、ぬかりないというか」


ひとつの傘の下で肩を並べて歩きつつ、横からねちねちと耳をつつかれるのは気にしない。
昼間の平和と、先ほどの冷たい豪雨と、いまのわたしのご機嫌と。今日は浮き沈み激しいが、しかし、いまこの瞬間に関してのみ評価するならば、今日は素晴らしい日だ。目の端にうつる傘の鮮やかな赤と、横目にうつるくすんだ赤毛。胸の奥がぽかりとあたたかくなる。
ああ。


「ねぇ晴矢」

「なんだよ」

「傘とかコンビニって、優しいと思わないかい」


かさとこんびにぃ?
やや不機嫌を引きずった声が返ってくる。


「こう、傘もコンビニも、人間を無条件に受け入れて守ってくれる感じがあって、優しいと思わない?」

「考えたことねぇな」


ぽつ、ぽつ、雨脚がだんだんと弱くなっていく。


「晴矢も優しいよ」


今度は、言葉は返ってこなかった。
いや、それでも晴矢は喉元まではなにか言いかけたようであった。だが何か言う代わりに気まずそうに咳をして、それきりだった。


「傘とコンビニには負けるけど、晴矢の優しさもなかなか良い線いってると思うよ」

「…負けるのかよ」

「だって晴矢は時々わたしに厳しいからね」

「たりめーだろ、アンタがだらしねぇから…」


ぽつりぽつり。小雨に変わってゆく。


「わたしは優しいものが好きだよ、優しいから」


やむ寸前の雨は、もはや霧のようだ。


「でも、それでも不思議とね、優しいばかりではないものの方がもっと好き」


大好きだ。
続けてわたしがそう言うと、晴矢はうつむいた。下を向いたその顔は心なしか赤い。
しばらくして、ばっかやろう、とつぶやく小さな声。


「傘とコンビニに勝っても別に嬉しくねーもん」


そうだね。わたしはなんだか、傘を放り出して彼を抱きしめたい気持ちでいっぱいで、でもこらえた。代わりに、立ち止まって、彼の赤くなったほっぺに小さくキスを落としてみる。周囲にまばらな通行人があれど、傘が隠してくれるおかげできっと誰にも見えないだろう。ほっぺの次は唇にする。晴矢は赤い顔のまんま、文句のひとつも言わなかった。



もう少しだけ雨がやみませんように。