ぼさ、ぼさ、ぼす、


「なにしてんだ、あんた」


夕日がとろりと流し込まれたように真っ赤な教室には、雑然と並んだ机といすと、他にもどうでもいいものがいろいろ。
乾いた音がして、オレは教室にまだ誰かいるのだと気が付いた。
ちょっとびっくりして、さっき下駄箱内で発見したチョコレートの包みを落としかけた。ていうか中身が落ちた。
包みを開けた所だったのがいけない。
赤い袋から零れ落ちたトリュフなるチョコレートが、二個ほど、コロコロと廊下を転がった。もったいない。


「………」


ぼさ、ぼす、ぼす、
その誰かは、涼野は、どういう表情をしていいものか思案するオレを一瞥して、そして無視した。
表情ひとつ変えることなくもくもくと作業を続けている。
教室の隅のごみばこの上で、白い紙袋をひっくり返して、中のものを落としてく作業。
色とりどりのラッピングが施された、たくさんの包みが、重力にしたがって、それが当然であるかのようにごみ箱に吸い込まれてゆく。
夕日に照らされた金色のリボンやシール、螺旋を巻くプリズムのテープがきらきら輝いて、不謹慎だが綺麗だ。
きらきらきらきらと、砂時計の砂のように、とめどなく落ちてゆく。ごみ箱に。
涼野が、みっつめの紙袋をひっくり返した。


「何で捨ててんの?」


ぼさっ、最後のいっこが、ごみ箱に築かれたカラフルな山のてっぺんに落下した。
ピンクのハート柄の紙で包まれた小箱は、ごみ箱に納まることなく、山に弾かれて床に落ちる。
涼野君へ、と可愛い丸文字で書かれたカードが貼ってあったのだが、その衝撃で取れて、はらりとどこかへ飛んでいった。
見失った。


「いらないからだ」


いつもと同じに冷たい声だった。あまりにいつもと同じで、オレはつい、ふうん、と言いそうになるのだ。
ふうん、じゃない。可燃ごみのごみ箱がいまにも溢れそうだなんて。バレンタインのチョコで。
前から血の通ってない野郎だと思ってたが、どうにも、ネジが外れてるんじゃないか。


「学校に捨てるこたぁねーだろう」


此処はあんたの教室で、そのあんたにとってのごみの山のなかにはきっとこのクラスの女子からのものもあって、明日も学校があって、お前は明日も学校に来るのだろうに。


「どうでもいいことだ」


本当にどうでもいいみたいだった。むしろ、どうでもいいを通り越して、それを軽蔑するかのような表情だった。


「それは?」

「え、チョコ」


涼野がじいっとオレの手元に視線を落とした。
オレの手の中にあるものを目ざとく見つけたらしい、今にもひったくってごみ箱に投げ入れそうな目をしている。
送り主の名前もなかったトリュフ。確かに美味しいけれど、それだけで、美しくはない物だ。


「………」

「下駄箱に…」


入ってたんだ、と言い損ねたのは、急に距離を詰めてきた涼野が急にオレの腕をつかんで急に力を込めたからだ。
ぎり、と力が込められて、つきりと痛む。
夕日による逆光で、涼野の表情がわからない――――でもそれでも、あんまり面白くなさそうな顔だという事はわかった。


「離せよ」

「なあ南雲」

「なんだ」

「わたしは思うんだ」


その手を振りほどけばいいのに、なぜかできない。
一歩も動けない。影の中で光る涼野の目が、怖くて。
あるいは、捨てられたチョコレートたちの呪いかもしれない。なんて。


「この世界では、自分が世界だと思っている範囲内では、一番欲しい物は決して手に入らないんだと」

「はぁ」

「手に入るのは、欲しくもないものばかりだ。もしくは二番目以降に欲しい物ばかりだ」


そうは思わないかい、南雲。って。


「あんなぁ?あんた、あんたのことが死ぬほど羨ましい同級生なんて、掃いて捨てるほどいるんだぜ」


そいつらが、あんたみたいにあんな大量の本命チョコをもらってみろ、卒倒だ卒倒。
なかにはたった一個のチョコレートでも渇望しているヤツもいるというのに。
幸せそうに満ち溢れたごみ箱を指差しながら言ってやると、何が残念なのか呆れたような溜息をつく涼野なのだった。
その吐息に甘い匂いなど少しもしない。


「ほらみろ、キミの言う"そいつら"も、一番欲しい物が手に入っていないじゃないか」

「はぁ?オレが言いたいのは、一般的にゆうとあんたは幸せだって…」

「そんなのは関係ないだろう。要は主観だ。"そいつら"もわたしも、一番欲しい物は手に入らない。どっちも不幸だ」

「何が言いたいんだよ。もう、離せよ」

「黙れ」


つい、と。俺の腕をつかんでいる手はそのままに、もう片方の魔手が伸びてくる。
情けないことに肩が揺れたのだが、その手は、意外と言うべきなのか、オレが胸元に抱えていた赤い袋に潜っていった。
心臓を抜き取るようにするりと取り出されたのは、粉っぽいチョコの塊ひとつ。ああ、オレの。


「ん、!」


口いっぱいに絶妙なほろ苦さと甘さが広がった。
何故かってそりゃ、涼野のアホが、トリュフごと指をオレの口に突っ込んだからだ。
…ありえない。
涼野の指が、オレの舌をぐにゅぐにゅと撫で回す。もがいたら、余計奥につっこまれる。
軽くパニック状態だ。オレが。
チョコレートは自身の融点をちゃんと覚えているらしい、こねくり回されるオレの舌と涼野の指の間で、どろどろにとろけていく。
時折、喉に指が触れて苦しい。
涼野、あんたいまどんな顔してやがる。
苦しい。


「んっ、ん!むぁ、」

「さっきの話の続きだ、南雲」

「ふぁ!?ひょ、ぁ、ん」

「一番欲しい物が手に入らないとわかっていても、どうしても、どうしても欲しいときは、どうすれば良いと思う?」

「んぅ、ぷはっ」


ちゅぷ、と音を立てて、涼野の指がやっと抜けていった。最後に舌先を撫でながら。
口にたまったぐちゃぐちゃしたものを飲み下すと、胸焼けしそうに甘い。


「はぁ、ぁ…」


若干酸欠だ、視界がぼんやりする。
その目の端で、チョコレート交じりの汚い唾液が糸を引いて、オレの舌と濡れた指先を繋いだ。
なんだか見ていられない光景だ。


「はぁっ、はぁっ」

「どう思う、わたしはどうすればいいと思う?」

「あ…?」

「キミならどうする」





どうする?





「………………………………うばい……とる?」





口を付いて出たその言葉に、どうして沈黙を呼ぶ効果があったのかオレには判らない。
涼野が、目を見開いている。





「………君は、………ああ………キミは鈍いヤツだな。でも」





大正解だ。





オレの唾液とチョコまみれの指を舐めながら、そう言って涼野は笑った。
可笑しくてたまらなさそうに笑った。