菅野風羽は千木良工を好きではない。千木良はそう解釈していた。千木良は風羽の失恋に付け込んで、彼女を手に入れたのだ。だから多分、これから永遠に、菅野風羽が彼を愛するということはない。厄介なほど一途な彼女の中には広瀬優希が永遠に居座って、あの瞳が千木良を見つめることはけしてないのだ。

 けれど千木良は、別にそれでも良いと思っていた。恋愛感情が無くとも世継ぎは作れる。結婚もできる。ただ千木良はほんのちょっと、この元人間の月宿の主を気に入っていたし、どうせつがいになるなら共に過ごすのが苦痛でない相手が良かっただけだ。

(別にええやろ、それで)

 何も問題はない。彼女の祖父にも許可は得た。式は帰ってから、月宿神社で行うことになっている。もし彼女が月宿に住まうべく妖怪となった妖怪で無ければ、千木良のすみかである架牡蠣の山での式でも良かったのだが、彼女が「月宿の主」という立場である以上、式は月宿で挙げるべきだと判断した。厳かな古風の式になるだろう。守護者の蛙達も、きっと今頃大慌てで準備しているに違いない。

(しっかし、式は面倒そうやな)

 ガタガタと山道を走るバスの中で、千木良は大きく口を空けて欠伸をした。隣の風羽はまたしばらく見れなくなるだろう架牡蠣の町並みを惜しむように眺めている。行きとは逆に、今度は窓際に風羽が座っていた。窓に貼りついて景色を眺める風羽を見て、千木良はぼんやりと物思いにふける。

 彼女は千木良を好きにはならない。けれど、彼女は千木良を旦那として受け入れようとしている。彼女がこうなるように流したのは自分だ。彼女は流されてここまで来てしまったのだ。千木良は何となく、それが面白くなかった。難攻不落だった城が、実は脆かったと分かってがっくりしてしまった、と例えたら分かりやすいだろうか。想像以上にあっさりと彼女が千木良を受け入れたことに、拍子抜けしてしまったのかもしれない。

「……見とって、何や面白いモンでもあるんか?」
「いえ、景色を見ながら、覚悟を決めていたところです」
「は? 覚悟?」
「はい」

 架牡蠣の景色からようやく視線を外して、ごくごく真剣な眼差しで風羽は千木良を見つめる。千木良は千木良で彼女はただ景色を惜しんでいるだけだと思っていたから、その意外な返答に目を丸くした。彼女は化けたせいで大人びた眼差しを千木良に向けたまま、ようよう続きを口にした。

「先輩。私はどうやら、先輩を好きにはなったようです」
「……は?」
「正確には、……私が、貴方をお慕いしていることを認めました」

 つい先程まで一生聞くことがないだろうと思っていた「好き」の一言に、千木良はいっそう目を丸くした。何を言ったのか、この娘は。千木良が沈黙している内にも、「覚悟」を決めたと言う風羽は話し続ける。

「……私は確かに、広瀬くんが好きでした。そしてその想いは、これからも私の胸の内から消えることはありません。彼は紛れもなく、私の初恋です」

 千木良の術で伸びた髪が、バスの振動に合わせてはらりと肩から流れ落ちた。

「ですが私はその上で、貴方を好きになります。無理に広瀬くんを忘れることはできません。ですが千木良先輩を好きでもないのに結婚することも、できません。私はそれ程器用ではない」
「……ほう」
「架牡蠣へ帰って、ようやく踏ん切りがつきました。私は、確かに貴方を好きになりました。そして、貴方を旦那様として愛します」
「……それが、お前の言う覚悟か?」
「いえ、それは決心です」

 それは覚悟と何の違いがあるのか、と問いたい気分ではあったが、千木良は無言を貫くことで続きを促した。

「千木良先輩」
「何や」
「千木良先輩は、私のことを大して好いていらっしゃいませんね」

 それは確信している言い方だった。確かに千木良はほんのちょっぴりだけ風羽を気に入ってはいるし、口づけだって何度もしたけれど、「愛する」「好き」という単語を出されるとしっくり来ない。風羽もそれを分かっているから、「大して」という副詞を使ったのだろう。

「ですが、つがいとなり、私が貴方を愛するという決心をした以上、それは不公平に思うのです」
「つまり、俺にもお前を愛せっちゅーことか?」
「いえ、違います」
「じゃあ何や、さっさと結論を言わんかい」

 千木良がしびれを切らしてそう言うと、風羽は千木良の頬に両手を添えて、ぐいっと千木良の顔を自分の方へ引き寄せた。

「私が、千木良先輩を私に惚れさせる覚悟を決めたのです」

 うっすらと笑みを浮かべる風羽を、千木良はただ黙って見つめるしかない。

「必ずめろめろにして差し上げますので、千木良先輩も覚悟しておいて下さい」

 ――五年かけて籠絡したつもりだった城は、いつの間にやら態勢を立て直し、今度はこちらに攻め入ると言う。彼女の中に踏み込んで荒らしたそのお返しに、今度は彼女が踏み入って来ると言う。

 彼女は流されたに過ぎないと思っていたが、それは千木良の大きな見当違いだったようだ。

「……楽しみにしとるわ」

 だがこちらもそう簡単に落とされるつもりもない。これまでは自分が絆す側だった。それがたった今逆転した。千木良の終わりは風羽の始まりに繋がって、二人はまた長い時間をかけて奇妙な恋と愛を綴る覚悟を決める。

 乗客が二人しかいないバスの中、彼らは互いに好戦的な笑みで見つめ合う。風羽は千木良の肩を、千木良は風羽の腰をそれぞれ引き寄せてから、

「俺を落としてみいや」
「はい。望むところです」

 恋人同士には似合わない挑発的な台詞の下、恋人同士のような口づけを交わした。