「よう、広瀬」

 風羽を部屋に戻してから残った皿を拭いていると、いつの間に侵入してきたのか、烏天狗姿の千木良がすぐ後ろに立っていた。にやにやと笑う彼を見て、広瀬は溜め息を吐く。拭き終わった皿を棚に戻しながら、無駄だと思いつつも「不法侵入ですよ」と告げた。しかし千木良は肩をすくめて「入れる構造になっとる人間の家屋が悪いんや」と、悪びれる様子なんてまるで無い。

「どうや? 成果は?」
「順調ですよ。これなら前よりマシになりそうです」
「ほう、新米が大きく出たな」
「あはは、マシにならないとまずいでしょう。色々と」
「そういや、あのちびっこいの、お前に懐いとるやないの」
「……そうですね」
「俺にはちいとも懐かんわ」
「それは先輩の普段の行いのせいだと思います」

 年甲斐無く、彼が烏天狗の声を聞けない風羽をからかっていることは聞いている。風羽は真面目な少女だし、架牡蠣の土地には風羽と同学年の子供なんて殆どいないから、世間知らずですれていない。からかいたくなるのも分かるが、それはさすがに大人気ないだろう。

「癒されますよ。素直で可愛いですし」
「でも、ニャンコちゃんに頼んで記憶消すつもりなんやろ? この一週間分。そやったらあんまり肩入れすんなや」
「……分かってますよ。今だけです。俺も鬼じゃないですし、さすがに振り払えません」

 風羽との出会いは、あるはずのなかった出会いなのだ。彼女が自分に懐き過ぎているということもある。広瀬の事情を鑑みるに、これ以上好かれるのはまずい。過度な接触は良くない、と最初から十九波や千木良に言われていた。だから、今だけだ。今日が彼女と過ごす最後なのだ。

「ま、分かっとるならええわ。明朝、日の出の前に待ち合わせや。ちびっこいのに見つからんようにせいよ。ニャンコちゃん曰わく、ちびの記憶消すのはお前が出て行ったすぐ後らしいで」
「……随分早いんですね」

 何もそこまで急がなくても、という気持ちが滲み出ていたのだろう。千木良はにやにやと笑いながら「その方がええんや」と肩をすくめた。

「そうやないと、記憶と感情に矛盾が起こるからな」
「矛盾?」
「お前も生まれてからこれまでに起きた出来事を完全に記憶しとるわけやないやろ。それでも、何となく嫌とか、何となく好きとか、その感情を想起させるきっかけになった出来事を覚えとらんでも、気持ちだけ反応することがあるやろ」
「まあ、確かに」
「それが記憶と感情の矛盾や。ちびの場合は『お前と離れたくない』っちゅう気持ちが長引いたら、それが記憶を消すのの邪魔になる可能性があるからな。消すなら速い方がええ」
「……そうですか」

 あんなに懐いてくれたのに、それを広瀬の都合で記憶ごと消してしまうのは、あまりにもエゴイスティックだろうか。けれど風羽が「広瀬優希」を記憶していることは、広瀬にはプラスにならない。記憶が消されると分かっていたから、少し踏み込んだ話もしてしまった。彼女の中の「広瀬優希」は消されるべきなのだ。だって、彼女はそもそも巻き込まれるはずのなかった人間なのだから。

 もう数時間後には、風羽は広瀬と過ごした一週間を全て忘れてしまうのだ。いつかどこかですれ違っても、彼女は広瀬を振り返ることなく過ぎていくだろう。振り返るのはきっと広瀬だけで、彼女の後ろ姿をただ見送ることになる。想像すると、なかなかにダメージが大きい。

「じゃ、帰るわ」
「……先輩は結局何しに来たんですか?」
「ん? ロリコン広瀬クンが、幼女と別れるのが寂しゅうてへこんどる姿を見よ思てな」
「へこんでませんし寂しくもありません」

 にやにや顔の千木良を見送ってから、広瀬は大きく溜め息を吐いた。あんなに小さな女の子に恋愛感情を抱くはずがないのに。確かに整った顔立ちだし、相応の歳になればかなりの美少女になるだろうが、今は今だ。可愛いとは思っても恋愛感情には結びつかない。

 広瀬は皿を全て棚に仕舞ってから、玄関に向かった。扉の外に出てから胸いっぱいに架牡蠣の空気を吸い込んで、ぽつりと漏らした。

「寂しくないって言うのは、嘘だな」