菅野には「俺を捕まえておけるか」なんてふざけたことを言ってしまったけれど、実際のところ、米原は菅野が卒業まで自分を好きで居続けるとは思えなかった。彼女は未来ある学生で、教師の自分がそれを摘み取るべきではない。建前と綺麗事は教師の得意技なのだ。容易に「生徒」を好きだとは言えない。だから月に一度だけ、彼女が米原という男を好きになるよう魔法をかける。「俺のお前に夢中度は……」なんて、実にスマートでない、不器用で馬鹿馬鹿しいやり取りだと思う。

「そう言えばお前、髪短いのには、何かこだわりあるのか?」
「特にありませんが……。昔からの習慣で短くしておりました」
「ふうん。まあ、お前らしいっちゃらしいか」

 また髪を濡らしたまま寮内をてくてく歩いていたので捕まえて、わしわしと水気を含む髪を拭いてドライヤーを当ててやる。

「……して、先生は長い髪の方がお好きですか」
「ん? 何で?」
「先生も髪を伸ばしていらっしゃるので」
「似合うだろ?」
「お似合いですが」
「ですが?」
「短いのも見てみたいです」
「……じゃあお前の髪が伸びたら、短くしてやるよ」

 乾かした直後のばらついた髪を、櫛で丁寧に整えてやる。心地良さそうに目を閉じる様は、ブラッシングされる猫を思わせた。俺のこと好きならそんなに無防備にならないでほしいなあと思いつつ、口には出さない。米原は教師で、寮監だ。今のこの状況は微笑ましいものでなくてはいけない。彼女に好意を抱いているらしい寮生の目もある。

「なんと! 本当ですか。しかし何故?」
「俺も長くて、お前も長いと、隣に並んだときにバランスが悪いだろー?」
「成る程」
「よし、終わり。ほら、遅いからもう寝なさい。俺も広瀬が上がったら風呂入るから」
「はい。ありがとうございました。では、お休みなさいませ」
「おう、お休み」

 一年後、米原はこの会話を後悔することになる。彼女は本当に髪を伸ばしはじめ、そして成長に伴い、まだ子供だった体つきがすらりとして来た。一言で言うなれば、美人になった。放送部とエコ部の掛け持ちは彼女の人脈を広げ、その実直な性格から後輩にも慕われているそうだ。「この間後輩から告白されてたよ。断ったみたいだけど。ミサキちゃん、そろそろ手を打たないとまずいんじゃない?」とは法月の談だ。

 変わらないのは月に一度、米原の元で「俺のお前に夢中度」を聞くという馬鹿げた習慣のみ。長くなった髪は、法月や空閑、そして米原によって毎日違う髪型にアレンジされている。そろそろお揃いの長さになってきてしまった。米原も約束を守らなければいけないようだ。

 米原は待つだけだ。それは教師の立場というより、大人の狡さだった。いつ彼女が米原に飽きてしまっても良いように、少し離れた場所で見守っている。傷付かないように、逃げの姿勢でいる。彼女がもし別の誰かを好きになってしまっても、笑って送り出せるように。大人というより、もはやただ弱虫なだけかもしれない。米原は大人で、だからもうあまりたくさんの未来を夢見ることができない。

「米原先生」
「おお、来たか」
「今月はいかほどですか」

 あの時、あんな約束なんかしなければ良かった。米原は今週末に美容室に予約を入れてしまっている。勿論、理由は「バランスを取るため」。髪を短くするのは久々だから、きっと寮生どもには笑われてしまうだろうが、それでも構わない。

「発表します! 今月は……」

 もう小数点以下の九の数は数え切れないくらい重なっている。律儀に指折り数える彼女のつむじを見つめながら、彼女が卒業まで自分を好きでいてくれるために何をすべきか、米原は思案していた。