太陽がすっかり沈んで、祖父の料理も一段落した頃、祖父が千木良を迎えに行ってきたらどうだと言うものだから、風羽は少し気が進まないとは思いながらも腰を上げた。

 架牡蠣に来てから、自分の中で千木良の存在がどんどん大きくなっていくのに、風羽は気付いていた。そしてそれは恐らく、かつて風羽が広瀬に抱いていた想いに似ている。同じではない。広瀬に対しては、もっともっと真っ直ぐな想いだった。何よりもこの人のそばにいたいと思えるような恋だった。

 もう広瀬と顔を合わせることも無いだろう。そもそも、この想いは広瀬が記憶を失ってから、一方通行を義務づけられたものなのだ。だからやめるのもやめないのも風羽の自由だった。ただ風羽が手離せなかっただけなのだ。

 今こうして千木良の嫁になることが決まって、風羽の心は戸惑っている。そう、あるのは「戸惑い」なのだ。拒絶ではない。

(……これは、千木良先輩に絆されたということなのか)

 昔は気まぐれのように風羽の元にやってきては「口説きにきた」と冗談めかして言う千木良を、明確に拒絶してきたのに。「私には好きな人がいる」という言葉を盾に、必死で逃げ回っていたというのに。

「おい、何しとる」

 不意に上から降ってきた声に、顔を上げた。いつ帰ってきたのだろうか。千木良は木の上でのんびりと月光浴をしていた。姿は烏天狗のまま、太い幹に腰掛けてこちらを見下ろしている。

「帰っていらしたのですか。何故そこに?」
「たまには月でも眺めようと思てな。お前も登ってくるか?」

 登れるんやったらな、と挑発的に千木良が言うものだから、風羽はむっとしてその木の手頃な幹に手をかけた。ぎょっとする千木良を尻目に、風羽はひょいひょいと木に登っていく。千木良のいた場所はそれ程高い場所ではなかったから、羽根のない風羽でも簡単に辿り着くことができた。

「木登りは昔から得意なのです」
「……お転婆やな」

 呆れるような顔の千木良が溜め息を一つ零す。風羽が安定して座れる幹を探すためにきょろきょろしていると、千木良が手招きして膝の上を軽く叩いた。意図が掴めずに首を傾げると、「座り」と言われる。

「いえ、遠慮します」
「何でや」
「膝の上に座るほど子供ではありませんので」
「他に座れる場所ないやろ。遠慮せんと座り」

 意地悪く千木良が笑って、不安定な場所に立つ風羽の腕を無理やり引こうとする。このまま拒否し続けたら、せっかく登ったのに落ちてしまうだろう。

「分かりました。座りますので腕を引くのはやめていただきたい」
「最初っからそうすれば良いんや」

 にやにやと笑う千木良の膝に腰を下ろすと、ごく自然に腰に腕を回して抱き寄せられる。仕方なく肩に顔を埋めると、風羽は懐かしい山の匂いを感じた。土と木の香ばしい香りだ。

「山の匂いがします」
「そりゃ、山におったから当たり前やろ」
「懐かしいです。久し振りに山に登りたいです」
「お前も明日登るで。上に顔見せする必要があるからな」
「顔見せ?」
「これでもそれなりに地位がある烏天狗の結婚やからな。後、お前が既にお手つきやと示す必要がある」
「そういうものなのですか」
「お前もなかなか注目されとるんやで。精々妖怪になって五年ぽっちの新米ながらも、月宿の主として務めを果たしとるからな」

 自分はただ精一杯にやっているだけだ。しかし、誉められると嬉しかった。主となっての毎日はなかなか大変だったが、一陽や小田島、そして千木良のサポートもあったからこなすことができた。