風羽が「ひみつ」だと言った理由は、頂上まで登ったことで明らかになった。

「これは……すごいね」

 溜め息と共に賛辞の言葉が漏れる。時間はちょうど夕暮れ時、高い山からは架牡蠣の町が一望できる。眩しく穏やかな夕焼けが架牡蠣の町を包み込むように広がっていた。これほど美しい夕焼けを、広瀬は知らなかった。ちりちりと胸の奥を焼いてしまいそうな郷愁が胸の中に広がる。温かな気持ちと同じだけの寂しさに覆われてしまいそうだった。

「鍛錬というのも嘘ではありませんが、私はここから見える景色が、いつも楽しみなのです」

 風羽は無邪気な笑顔を見せる。広瀬が驚きと感嘆の表情を見せたことが嬉しいらしい。風羽は山から景色を見渡す広瀬の手をきゅっと掴む。

「これまではひとりじめでしたが、今日は優希くんとはんぶんこです」

 祖父にもこの場所はひみつなのです、と風羽は笑った。広瀬は彼女と繋いだのとは逆の手で、その丸い頭を撫でた。柔らかな髪の上から、ありがとうの気持ちをこめて優しく撫でてやる。風羽はその手つきが心地良いのか、猫が喉をくすぐられたときのように目を細めていた。

「ありがとう、風羽ちゃん。こんなに綺麗な景色が見られるなんて思ってなかった」
「ふふ、そう言ってもらえて、嬉しいです」
「もう少し眺めたら、帰ろうか。真っ暗になる前に」
「はい」

 風羽は広瀬と繋いだ手をぎゅっと握った。広瀬の目線よりもずっと低い位置にある風羽の目はまっすぐに広瀬を見つめていたが、すぐに夕焼けに戻っていった。

 風羽は少しだけ、自分がおかしいことに気付いていた。祖父には、「今度一週間だけ泊まりに来る人がいるけれど、大切な用事がある人だから、けして邪魔してはいけない」と言われていたのだ。風羽には、広瀬が何故この山に登りたがるのかよく分からない。けれど助けてくれたお礼に、力になれればと思って道案内を買って出た。

 しかし本当に、広瀬には道案内が必要だっただろうか。彼には烏天狗の声も聞こえるのだから、風羽がわざわざこうして道先を示さなくても、山に迷うことはないだろう。風羽に対して広瀬は嫌な顔一つしないで穏やかに微笑み、「ありがとう」と言ってくれるけれど、祖父に気を遣って、風羽を邪険にできないのかもしれない。年上の人は年下にお世話をされるのを好まない。小学校にいる意地悪な上級生が良い例だ。

 広瀬優希という男の子は優しくて、頼もしかった。風羽がそれまで接したことのある男の子とは少し違った。そして風羽にはその違いの理由が分からない。風羽自身の未発達な思考が、今こうして強く広瀬の手を握る理由を覆い隠している。

 年上への小さな憧れを自覚できても、胸の奥に生まれた未知の想いの種に気付くには、風羽は幼かった。力になりたい、頭を撫でてほめてほしい、手をつないでいてほしい、ありがとうと言われたい。次々に湧き上がるささやかな欲求の理由を、小さな風羽はまだ知ることができない。