菅野風羽は人並み外れた回復力の持ち主で、足を捻った翌々日にはすっかり歩けるようになった。そして一体広瀬の何を気に入ったのか、まだ幼い歩幅でカルガモの子供が親を追い掛けるように後ろをついて来るようになった。彼女曰わく、「優希くんは架牡蠣に慣れていないので、私が案内してあげます」とのことだった。

 おかげで広瀬はしょっちゅう後ろを振り向いて彼女の安否を確認しなくてはいけない。また山で遭難にでもなったら大事だ。彼女は特に広瀬の邪魔をするわけでもないし、懐かれていると思うと邪険にはできなかった。

「そう言えば優希くんは、黒い羽根の方々とおはなしできるのですか?」
「ん? どういうこと?」
「私にはあの方々が見えても、声が聞こえないのです。そのせいで、山ではよくからかわれます」
「そうなんだ……。ちなみに、君をからかう黒い羽根の人って、どんな人?」
「髪がうねうねした方です」

 成る程ね、と広瀬は笑った。頭の中では年甲斐もなく少女をからかう千木良の姿があった。確かにあの人は子供でも容赦なさそうだ。

 彼女は架牡蠣の山護の血を引きながらも、烏天狗達を見ることはできても声は聞けないと言う。とりあえず彼らが普通の人間ではないことは知っているらしい。それ以上は祖父が教えてくれないのだそうだ。

「優希くんは、どうして?」
「うん、ちょっとね。説明すると長くなるなら省くけど、同族みたいなものなんだよ」
「どうぞく?」
「仲間って言った方が、風羽ちゃんには分かりやすいかな。俺は新入りだから、挨拶に来たんだ」
「……? よく分かりません」
「うん、それで良いよ。いつか、風羽ちゃんが分かるようになったら教えてあげるから。……おっと」
「その先は道がくずれているので、左に曲がってください」
「分かった。ありがとう」

 架牡蠣の山は険しく、確かに「修行」にはうってつけだった。それに空気が澄んでいる。新入りであるところの広瀬にもそれが分かった。月宿とは正反対で、穢れたものを寄せ付けない荘厳さがあった。風羽が道案内を買って出てくれて良かったと思う。一人ではきっとすぐに挫折していた。

「休憩しましょうか?」
「……そうだね。さすがにちょっと疲れた」

 風羽は山に慣れていると言った通り、ひょいひょいと山道を超えていく。年上としてちょっと情けない気もしたが、それでも風羽の足取りの軽さは八歳の少女としては異常なくらいだった。

 手頃な木の根元に座り、広瀬は水筒を取り出した。千木良から広瀬の事情を聞いたらしい風羽の祖父が用意してくれたのだ。乾いた喉に冷えた麦茶がすっと入り込んでくる。風羽も同じように水筒を取り出していた。小さな喉をこくりと鳴らしてから、広瀬をじっと見た。

「どうかしたの?」
「優希くんは、ふしぎな感じがします」
「そう? 結構、普通だと思うけど」
「なんとなくです。それに、たった数日で架牡蠣の山に慣れきっています。すごいです」
「うーん、確かに体力がある方だとは言いにくいけど、山に登るくらいはできるよ」

 広瀬は体育会系というわけではないが、だからと言って休憩を挟みながらののんびりとした登山が出来ないほど貧弱でもなかった。苦笑した広瀬に、風羽は「いえ、」と前置きして話し出した。幼い表情に似合わない、しっかりとした口調だった。

「この山は、地元の人でもあまり近寄らないのです。それに、人を迷わせてしまう森だから、よほどのことがない限り近付いてはいけないと祖父が言っていました」
「でも、風羽ちゃんもよく来ているでしょう? 修行で」
「……幼稚園に入る前、うんと小さい頃に、祖父が山に行くときは隣のおばさんの家に預けられていたのですが」
「うん?」
「置いて行かれるのが嫌で、よく後ろをこっそり付いていっていたのです。それで道を覚えてしまいました」

 風羽は少しだけ恥ずかしそうだった。祖父を恋しがって追いかけるなんて、なんだか随分と可愛らしくて笑ってしまった。

「あはは、なるほど」
「今はちゃんと、精神と身体の訓練のためだと、祖父の許可をとっています。……そういうわけで、私はもうこの山に迷わされることがないので、山に入っているのです。それに……」
「それに?」
「ふふ、これは頂上まで、ひみつです。行けば分かります」

 では行きましょう、と言う風羽に導かれ、広瀬は立ち上がった。