※「※どうか幸せに/迎えることのできない終わり」の続き 逃げ出すように走ってきて、月宿神社の奥、鬱蒼と茂った森の中で腰を下ろす。胸の痛みがやまなかった。ずきずきと奥まで響いて、風羽の根元から揺らいでしまいそうだ。甲斐がないと知りながら会いに行ったのは、やはり間違いだったのだ。風羽は自分の浅はかさに頬を打ってやりたくなる。もう広瀬には広瀬の生活があって、それは風羽が関われないものだ。風羽はもう広瀬の中にいない。風羽の中にどれだけ広瀬がいたとしても。 (もう、諦めなければ) あれは、失恋と呼ぶに相応しい出来事だった。広瀬は風羽を思い出すことはないのだと見せつけられた。風羽が広瀬の日常を苛むわけにはいかないのだ。風羽と広瀬は違ういきものなのだから。 「ご丁寧に結界まで張って、何しとん」 「え」 バサ、と音を立てて黒い翼が降りてくる。千木良だった。風羽は目を丸くして千木良を見つめる。烏天狗はつかつかとこちらへ近寄り、風羽の顎を掴んだ。 「カエル共が探しとったで。何でこんなところにおるん」 「それは……」 「しかもこの結界、テキトーに作ったやろ。手順滅茶苦茶で解除に時間かかったわ」 「すみません。結界まで張ったつもりはなかったのですが」 「無意識やったっちゅーことか。道理で力任せな結界のはずや」 「千木良先輩はどうなさったのですか。こんなところまで」 「お前のじいさんの手紙届けるついでに、お前を口説きに来たんや」 「……ではお手紙を頂きたい」 「まずは口説かれたらどうや」 「口説くのがついでとおっしゃったのは千木良先輩です」 「それもそうやな。ホレ」 渡された封筒を受け取る。いつもと同じ封筒に祖父の名前を見つけて、ほっと息を吐く。しかし開ける気にはなれなくて、そのままじっと封筒を見つめる。 「読まんの?」 「後にします」 「いつもはイの一番に読むやないか」 「今日は良いのです」 「……ほう。広瀬にでも会うたか」 風羽は息を呑む。話の流れが読めない。何故千木良が知っているのだろうか。動揺がそのまま体に表れて、握った封筒を強く握り締めたせいで皺が寄ってしまった。 「何や、カマかけただけやのに図星か」 「何故ご存知なのですか」 「ノリが今日、寮の奴らと月宿で会うて言うてたからな。後はお前の様子から推測や」 「そうですか」 「俺の言った通りやったやろ」 風羽の隣に腰掛けた千木良が意地悪く笑うのを見て、風羽は黙り込む。何も期待していなかったかと問われれば、それは嘘だった。風羽は自分から皆の記憶から消えることを願ったし、そしてそれは祓玉が皆から抜かれることで叶った。だから風羽が寂しさを感じるのは間違っているのだ。 「期待したんか? 自分が姿を見せれば思い出してもらえるて思うたんか? 高校卒業して、大学行って、今が人間やっとって一番楽しい時期やろ。そんな時期に会いに行って、わざわざ重っ苦しいだけのお前との別れを、広瀬が思い出すとでも思うたんか? そんな奇跡が起こったら、すぐに高視聴率でお涙頂戴のドラマに早変わりやで」 広瀬は風羽を思い出さない。それがもう現実だった。会わなければ期待していられた。もしかしたら、思い出してもらえるのではないかと。けれどそれすら打ち砕かれてしまった。風羽はもう、広瀬に片思いする資格すらないのだと言われた気がした。 「もうええやろ。俺にしとけや。こっちも五年、手ェ出さんで待ってやったんやで。ここらで妥協せい」 「妥協なのですか」 「俺もお前で妥協してやっとんねん。お互い妥協やないと不公平やろ」 「不公平……」 「ここまで譲歩してやってんねで。有り難く思い」 どこまでも上から目線の千木良に、風羽はもはや黙り込むしかなかった。そもそも、結婚だの嫁だのという言葉が先に立ちすぎて、千木良の本心が分からない。風羽で妥協ならば、もっと別の妖怪でも良いのではないか。ここまであからさまに「誰でもいい」という態度で口説かれても(そもそもこれが「口説く」ということなのか、恋愛経験の薄い風羽には分からないのだ)、風羽としては冗談に受け取るしかできない。 妥協、という千木良の言葉が頭を回る。もう風羽も二十歳になる。妖怪の結婚適齢期は定かではないが、この辺りで身を固めて、祖父を安心させるべきなのかもしれない。祖父の手紙には時折千木良のことが書かれていた。性格は悪いし性癖も歪んでいるが、面倒見は良く悪い奴ではないと。 風羽もこの五年間でそれを知っていた。気まぐれではあったが、千木良は祖父の手紙を届けてくれ、また風羽の手紙を祖父に届けてくれた。それは単純に「山守の一族への恩」の範疇ではないのだろう。放送部にいたときもそうだ。法月が企画すれば、何だかんだで手を貸してくれていた。……大体が気まぐれか、退屈しのぎのためではあったが。 風羽は広瀬を想うことが当たり前だった。広瀬が風羽の初恋で、それを大切にすることが自分の恋心に対する誠意であるとさえ考えていた。そうやって想い続けることが、広瀬に対する償いであるかのようにも思えていた。人の想いは風化してしまうものだ。だからこそ、手放さないように必死だった。 「千木良先輩」 「何や」 「恋とは、一体何なのでしょう」 広瀬と想いを交わしたのは、ほんの数日だけだった。それでも風羽は幸せだったし、あれをまさしく恋と呼ぶのだと思う。しかし今、片思いになって、完全に望みが潰えて、分からなくなってしまう。恋とは一体何なのだろうか。それが千木良の申し出に答えられない一番の理由だった。 「菅野、知っとるか。烏はつがいになると、一生をそのつがいと共にするんや」 きっと鼻で笑われてしまうだろうと思っていたので、千木良の返答は風羽には意外だった。思わず千木良の方を見ると、千木良は地面に落ちていた自分の黒い羽根を持ち上げ、根元を持ってくるくると回していた。 「烏の間に恋愛はない。あるのはセックスアピールで、雄を雌が気に入ってつがいが生まれる。けど、そこからはけして相手が変わることはない。他の鳥や、人間と違うてな」 千木良の手から黒い羽根が落ちて、その手が風羽に伸びる。驚くほどに柔らかなさわり方に、風羽はぴくりと肩を震わせる。 「想いはそれ程大切か? 恋愛は問いかけるほどに重要か? 俺はそうは思わんわ。人間はきっかけを大事にし過ぎやろ。問題はその先や。つがいとなり子を成し生涯を共にする。果たしてそこに恋愛は必要か?」 千木良の親指がそっと風羽の唇にふれる。線をなぞるように指を動かされて、風羽は千木良から目を離せなくなる。 「烏は、たった一人のつがいを大事にするもんや」 そこに想いがあっても、無くても。つがいとなればその繋がりは一生続く。それが烏であり、つまりは千木良だ。 「俺にしとき、菅野」 ゆっくりと顔が近付いてきて、頬に唇がふれる。風羽が気付いたときには、両手が千木良に絡め取られていて、逃げ場がなかった。自分にしておけと言いながら、千木良は風羽の逃げ道をゆったりと塞ぐ。千木良はそういう男だった。 (ずるいひとだ) 風羽は初めての失恋で痛む心を、どうすればいいのかまだ分からない。千木良のように割り切ってしまうには、風羽は年若く未熟だった。 (もしかすると、これは失恋の痛みではなく) (……罪悪感、なのかもしれない) ずっと好きだと言ったのに。広瀬を想っていると言ったのに。初めての恋を、五年前の広瀬と自分を、こうして裏切ってしまうことへの罪悪感が胸を刺して痛ませている。 きっとこれは、生涯消えない痛みだ。風羽が一生抱えなければならない痛みなのだ。 例えこの先が千木良と共に歩む道だとしても、風羽が忘れてはならない、たった一つのきずあとなのだ。 「……お前な、口付けのときくらい、目ェ閉じろや。マナーやろ」 「……これは失礼しました」 「ま、ええわ。口開けい」 「口ですか?」 あ、と開けば、再度口付けられる。目を閉じるのがマナーだと言ったのに、千木良は風羽に口付けながらじっと風羽を見ていた。舌が差し込まれて、唾液が混ざり合う。風羽が引っ込めた舌を引きずり出すように、千木良の舌が口内でうごめく。 もう誰かに恋を問い掛けることは無いだろうと、そう思いながら風羽はそっと目を閉じた。 |